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暗い森の少女 第二章 ⑤ 無垢の裏に隠された影

無垢の裏に隠された影

花衣は5年生になった。
一番しつこく花衣をいじめていた2歳年上の男子が卒業すると、それまで先生の目から隠れてはいたが公然とあった花衣への無視がなくなる。
村の中では相変わらず「よそ者の、変わり者の家の娘」という扱いではあったが、学校内では、「人気者の瀬尾と一番仲のいい」存在になっていたことも理由だろう。
生徒数の少ない小学校では、5年生から児童会に参加する。
今までは成績順だったのだが、5年生で一番の生徒を押しのけて、瀬尾は児童会の書記になった。
「やることはあんまりないんだよ」
瀬尾はため息交じりに言う。
「でも放課後、あんまり遊べなくなるのは淋しいな」
「うん」
いつも自分の心を隠しがちな花衣だが、瀬尾には素直な面を見せるようになっていた。
この頃身長が伸びてくる子供たちの中、瀬尾と花衣は取り残されたように小さな体を保っている。
花衣は、無意識のうちに、
(大人の体になりたくない)
と望んでいた。
一部の村人や、卒業していった男子生徒が花衣に行う行為が、「いじめ」ではなく、「ふしだらで性的なもの」であることに、花衣は気がつき始めたのだ。
花衣を育てる祖母は、花衣の目に性的なものが入らないように気を配っていたし、叔父たちも花衣の「年頃の娘らしい成長」を嫌がっているようだ。
花衣のことを目の中に入れても痛くないように甘やかす葛木家の当主夫婦も、瀬尾と仲良くするのはいいが、あくまでも「子供らしい付き合いかた」を望んでいることは分かっている。影で、花衣がどんな目にあっていたか知ったら、あのひとたちはどう思うのだろう。
そんなことを考える。
汚いものを見るように花衣を捨てるのだろうか。
花衣を葛木家の跡取りにするため、一緒に養子にきた母のことを完璧に無視するように。
二十歳で未婚で花衣を産んだ母が、決して本家に招かれない理由は、「ふしだらな女」であったからだ。
母の弟である叔父たちも、花衣が母に似ることのないよう目を光らせていた。
祖母は母をあのように育てたことを責められて、同じ轍は踏むまいと、瀬尾以外の男子と遊ぶことを禁じてきた。
祖母と仲のいい家の息子ですら、
「もう大きくなったのだから遊ばないでね」
と言うようになる。
(もう遅いのに)
花衣の中で誰かが囁く。
(あんなことも、こんなことも、もうみんな知っているのに)
記憶は曖昧ではあるが、村の男たち、子供たちに行われた行為は花衣の体には残っている
粘つく手や舌の感触が未だに花衣を苦しめた。
(私は、汚い)
児童会の活動のない日、一緒に下校することになった瀬尾をこっそりと見つめる。
花衣と同じような背丈に、若干長い髪のせいでまだ女の子に間違われる華奢な体つきは、いつまでも清潔だ。
(きれい)
瀬尾と一緒にいると嬉しい。
だが、瀬尾の汚れのなさがいつしか花衣を知らずに追い込み傷つけている。
「葛木さんはゴールデンウィークはまた親戚の家にいくの?」
瀬尾の問いかけにすぐに答えられないほど、自身の内部に入り込んでいた花衣はびくっと顔を上げた。
「まだわからない……」
「そうなんだ」
瀬尾はほっとしたように続ける。
「おかあさんが、千佳を連れて東京のおばあちゃんの家にしばらく行くことになっちゃって。ゴールデンウィークはおとうさんも仕事で忙しくて帰って来れないし。夏木さんが泊まり込んでくれるんだけど、ちょっとね」
かすかに淋しさが声に滲む。
瀬尾家がこの町ではじめて作ったショッピングモールは、ゴールデンウィークに開店予定だ。
大規模な宣伝もしていたし、大人も開店を今か今かと待ちわびている。
そんな中、瀬尾の父親が帰宅できないほど忙しいのは、花衣にも想像ができた。
「もしも葛木さんに予定がないならいつでも来てね」
素直に花衣を誘う瀬尾には、当然まったく後ろめたいことなどないのだ。
花衣は小さく頷きながら、自分の過去を恥じた。

「まだ取るのー?」
夏木さんがあきれたように大声で言う。
瀬尾家の庭は洋風に整えられていたが、裏側は昔ながらの納屋や庭木がそのままになっていた。
そこには大きなゆすらうめの木があり、小さく甘酸っぱい実が大量に実っている。
真っ赤な宝石のような実を、瀬尾と花衣、夏木は収穫していったが、取っても取っても切りがないほどだ。
「こんなに食べたらお腹痛くなるんだから」
「ジャムにできるんでしょう? パイとかケーキにも」
瀬尾は下の方の実を取り尽くして、脚立に乗って高い場所の実を摘んでいる。
「できるけど、種が大変なんだよ」
瀬尾の母親がいないせいか、夏木はいつもよりくだけた話し方だ。
いくつものボールにいっぱいになっていく赤い実を見てため息をつく。
「花衣さんも持って帰ってね。お願い」
「でも……」
「ジャムやケーキにしても、余っちゃうわ。もう、直之さん!」
夏木の声に瀬尾は笑った。
「夏木さんも家に持って帰ってよ。おじいさんが言ってたよ、夏木さんのおとうさんは、ゆすらうめをつけたお酒が好きだって」
「そうですけど……それを作るのも私なんだよな」
頭をかきながら夏木が頭を抱える。
いつもピアノの音、千佳の泣き声が笑い声しか響かないと思っていた瀬尾家に、屈託ない笑い声が流れる。
瀬尾は普段よりずっとリラックスして見えるし、夏木もそうだ。
ふたりの間にある濃い絆が見えた気がする。
それは姉弟の関係のようであり、若い母と息子のようでもある。
瀬尾には母親がいるし、どちらかというと瀬尾は母親似であると思う。
それなのに、どうしてこんなにもふたりは家族のように仲睦まじいのだろうか。
去年、瀬尾の母が千佳の出産のために実家に帰省している間も、夏木は泊まり込みで瀬尾の世話をしていたと聞いたが、1年にも満たない時間でも、同じ屋根の下で暮らすのは関係性が深まりやすいのだろうか。
花衣には考えられない、うらやましい仲だ。
今でも花衣は祖母のことが好きだったが、祖母の本当の愛は叔父たちに向けられていることにとっくに気がついている。
「孫はいますが……結局娘の子供はよその孫。本当の孫が欲しいです」
花衣がいるとは知らず、祖母が仲のいいひとと話していた言葉を思い出す。
祖母にとっては、もしかしたらただの社交辞令だったのかもしれない。しかし、それは十分に花衣を傷つけた。
家族への幻想が剥がれていく度、花衣の心の奥にある幻の鏡にうつる影は生き生きとしてくる。
最近は、20代の女より、10代と思われる少年が鏡によくうつった。
その目には、同情が混じった軽蔑の色が浮かんでいる。
(なんなの)
花衣は少年に話しかける。
明らかに花衣を傷つけたい女とは違うが、少年の表情は花衣を苛立たせる。
花衣の問いかけには答えず、黙って少年は見つめ返す。
ゆすらうめを摘む手が止まってしまった。
はっと花衣が気がつくのと、屋敷の中から電話が鳴り響くのはほぼ同時だった。
「はいはーい」
夏木が慌てて走って行く。
瀬尾も脚立から降りてきて、ボールにこんもりともられた実を笑って見た。
「どうしようかな、こんなに」
「夏木さんが止めたじゃない」
「だよね」
瀬尾はうれしそうだ。
「でも、おかあさんは庭になっている実なんて汚いからって食べさせてくれたことがないし、毎年、こんなに実っているのにただ落ちて腐っていくのを見てるだけだったんだよ。なんだかさ」
愛しげに木を見上げる。
「こんなに必死に実をつけているのに、誰からも無視されて、いつか枯れてしまうようで」
瀬尾の言葉に花衣の気持ちはゆれた。
それは、同じ言葉ではなかったが、いつも花衣が思っていることと一緒だと思ったのだ。
(必死にこの村になじもうとしているのに、いつも異物のように扱われて、このまま死んだように生きていくしかない)
花衣の諦観を、瀬尾に話したことはない。
不思議な慕わしさが心の底から沸いてきて、花衣が口を開こうとしたとき、夏木がまた走って戻ってきた。
「直之さん、私今晩、家に帰らなくては行けなくて」
夏木は少し青ざめている。
「どうしたの?」
「……息子が、怪我をしたそうで、救急車で今病院にいるそうなんです」
驚いた。
夏木はまだ20代前半に見える。子供がいたことも知らなかった。
瀬尾は落ち着いた様子で頷く。
「それならすぐに行かなくちゃ。もう夕飯の用意はしてくれていたし、僕は一人で大丈夫」
「すみません、急なことで預け先が見つからなくて」
夏木は額に汗をかいている。怪我をした子供のことが心配なのだろう。
「もしも預け先がないなら、おじいさんに相談してみて。僕の世話役か、預け先か、どちらかすぐに手配してくださるだろうから」
大人びた口調に、かすかな違和感があった。
夏木が何度も謝りながら帰って行く姿をふたりで見送る。
「夏木さんに子供がいたの知らなかった」
思わずつぶやく花衣に、
「うん、僕たちと同い年なんだよ」
瀬尾は答えた。
「え? 夏木さんって……」
「今年31歳だったかな」
花衣の母親も年齢より若く見える方だと思っていたが、夏木の若々しさにはかなわない。
「そうなんだ」
「うん、二十歳で子供を産んだんだって」
そして、瀬尾は思いもかけない残酷な言葉を、邪気のない声で放った。
「結婚しないで産んだ子供なんだって。私生児というのかな」
それは、花衣を心臓を止めるかのような衝撃を与える。
瀬尾が花衣の生い立ちを知らないとは思えない。そして、今までそのことで花衣を避けるようなこともない。
だが、「私生児」という言葉は、明らかに花衣を傷つけるために発せられた言葉にしか思えなかった。

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