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暗い森の少女 第二章 ② 砂の城
砂の城
「葛木さん」
いつまでも聞いていたい、けれど聞く度に心が痛くなる声に呼び止められて、花衣は胸の高鳴りを押さえながら振り向いた。
紺色のセーターから白いシャツの襟を見せた服装の瀬尾が笑顔でいる。
「冬休みの読書感想文、実行委員会に持っていくの手伝ってくれる?」
「うん……」
花衣の通う学校は、読書感想文に力を入れていて、1学期、夏休み、2学期、そして冬休みの宿題として読書感想文が出される。
他の読書感想文は、普通に原稿用紙2枚から4枚ほど書くのだが、冬の感想文は、なぜか学校指定の便せんに書かされて、全校生徒の前で読まされるというものだった。
児童会が運営する「読書感想文実行委員会」が選ぶ「冬の読書感想文賞」を貰ったものは、廊下に感想文が貼り出されるので、全校生徒の前で読まされたあとの便せんを実行員に持っていく必要があるのだ。
学年に9人しかいないので、順番に学級委員はどうしても廻ってきて、4年生の3学期の学級委員は瀬尾と花衣だった。
花衣は3年生になってから急に背が伸びた。
少年らしい華奢な体つきの瀬尾と背丈は同じくらいだろう。
視線がまっすぐ重なり、花衣は動揺を隠すように手に持った便せんを見る。
「4年生は9枚だから委員会も楽だよね」
瀬尾はおかしそうにつぶやいた。
冬の読書感想文がなぜ便せんに書かされるかというと、「自分が読んだ本を、学校内の誰かに読んでもらえるように紹介しよう」という趣旨だからだ。
この「誰か」は漠然としたものではなく、明確にひとりを指定させられる。
違う学年でもいいので、瀬尾のような人気者は、下級生、上級生何人もから毎年本の紹介を受けている。
花衣は、全校生徒の前で瀬尾宛の手紙など読むのは恥ずかしくて無理だったので、いつも比較的仲のいい同性の幼なじみを指定していた。
「今年も葛木さんは図書館にある本じゃなかったのが面白かった」
廊下をならんで歩きながら、瀬尾は含み笑いをする。
「本は家にある本でもいいって言われてるけど、だいたいみんな、冬休みに借りさせられる本から選ぶのに」
読書感想文に力を入れているだけあって、長期休みのときはひとり10冊、本を図書館から借りなくてはいけない。
人気の童話や絵本は瞬く間に借りていってしまわれるし、終業式までに持ち帰らなければならない荷物に重い本が加わって、生徒からはすこぶる評判の悪い風習だ。
「葛木さんの選んだお話は、なんだかとっても淋しかったね」
それは、なぎさで砂の城を作っていた少年と少女がときを重ねて大人になり、また一緒になぎさにやってきたときに、10年以上前に行方不明になっていた子供の水死体を見つけることで、少年の記憶が曖昧になり、事実が砂の城のように消えていく、母の本棚のSFの短編集にあった物語だ。
悲しい辛いことがあると、ひとはそのことを忘れてしまうのか。
なぜか、そのことに花衣は心がひかれた。
「自分が信じていた世界が全部うそだったらどうしようね」
瀬尾のつぶやきは、いつもの彼からは想像もできないほど暗く低い。
ぎょっとして花衣は恥ずかしさも忘れて瀬尾を顔を見つめてしまった。
瀬尾は大人びた目で廊下の先を見ていたが、花衣に振り返る。
「なんてね」
いつものように明るく、そして悪戯っぽく瀬尾は笑った。
ほっとしたが、瀬尾の笑顔に影が見えたような気がして、花衣の胸は騒いだ。
その日の放課後、花衣が下校しようとすると、行く手を阻むように大柄な男子が立っていた。
「おい」
黒にオレンジのラインが入っているジャンパーの下に、首元がよれている体操服がのぞいている。
顔は相変わらすぼんやりと、仮面がかかっているようにしか認識できないが、その声で誰かわかる。
おばあちゃんのお気に入りの子供だ。
ひとの顔と名前を覚えるのが苦手な花衣は、その声の主と名前をうまく結びつけれない。
「今日は俺んちに来いよ」
命令口調でいう男子は、いきなり花衣の手を掴んだ。
喉の奥がひくっとして、あえぎのような悲鳴がもれた。
花衣の手を握る男子の手は熱く汗ばみ、その弾力のある感触が気持ちが悪い。
手を離そうとする花衣に苛立ったのか、男子は脅すように言う。
「いいのか、俺のいうことを聞かなかったら、お前の秘密をぶちまけるからな」
秘密。
花衣はぴくりと反応した。
ふとした瞬間、自分の気持ちが心の深い所に落ちてしまっているときに、自分以外の誰かが勝手に花衣の体を使って動かしていることはなんとなく分かってきていた。
そういう状態の自分がなにをしているか、霧に隠されたようにはっきりしない。
気づかれてはいけないと花衣の本能は知っていた。
この男子は何を知っているのだろうか。
抵抗する気配をなくしたことに気がついたのか、男子の声は勝ち誇った響きで続く。
「俺が言ったら、みんなおしまいだ。お前も、お前んちも全部」
花衣を思いのままに従えることが心から嬉しいようだ。
「だから今日は俺……」
「葛木さん?」
男子はびくっとして強く掴んでいた花衣の手を離してくれた。
紺色のダッフルコートを着た瀬尾が、下駄箱の前に立っている。
「三好さん、こんにちは」
瀬尾はにっこりと笑いかけた。
男子はひるんだように体を固くしたようだったが、それを隠すように大声を出す。
「なんだよ、盗み聞きかよ」
「違いますよ?」
屈託ない様子で瀬尾は答えた。
「葛木さんに借りていた本を返す約束をしてたんです。でも、今日持ってくるの忘れちゃって。帰りに僕の家に寄ってくれるって話していたんです」
あっさりとと瀬尾は嘘をつく。
瀬尾に本を貸したこともないし、瀬尾の家に寄る約束などしていない。
あまりに自然に瀬尾から話をふられ、花衣は思わずうなずいてしまう。
「学校帰りに誰かの家に行くのは駄目じゃねえか」
学校の規則はそうであったが、子供のいる家が点在していて、ランドセルと置いてから誰かの家に遊びにいくことは時間的に厳しく、誰も守っていない。
「そうですよね」
瀬尾はまだ幼さの残る頬に、甘い笑みを浮かべる。
「じゃあ、三好さんが葛木さんを誘っているのも変じゃないですか?」
丁寧な言葉を選んでいるが、瀬尾はまるで男子を挑発しているようだ。
「どうしてですか?」
「俺は……! いいんだよ、こいつとは家も近いし、こいつの家のばーさんと俺んちのばーさんは仲がいいんだから」
「なるほど」
瀬尾は首をかしげている。
「僕は葛木さんの同級生で友達だけど、葛木さんのおかあさんやおばあさんは、僕と遊ぶのを嫌がるのかな?」
瀬尾は花衣に聞いてくる。
瀬尾から「友達」と言われて、花衣の胸は激しく波打った。
村の子供で、花衣のことを「友達」と呼んでくれる者はいない。遊んでくれる子ですら、たまたまそこに花衣がいたから声をかけてみた程度の付き合いでしかない。
「葛木さんも嫌なのかな?」
重ねてかけられた声に、花衣は首を横にふった。
「そうなんだ。よかった、嫌われているかと思った」
瀬尾は明るく笑う。
「三好さん」
男子に向かって瀬尾は言った。
「今日は僕のほうが葛木さんと先に約束していました。もしも葛木さんのおばあさんが心配されるというのなら、家についたらすぐに母から葛木さんの家に電話をかけます」
そして花衣には話しかける。
「本を返すだけなのでそんなに遅くならないと思うけど、よかったら車で送ってもいいしね」
瀬尾の祖父は代々続く大地主であり、町に複数のスーパーマーケットを展開する実業家なのは子供でも知っている。
この秋に町になかったショッピングセンターも新たに開くことも聞いていた。
スーパーマーケットに勤める者、関連企業に勤める者はこの村にも多く、大人の力関係は子供たちにも密かに影響力を与えている。
決して瀬尾自身がそのことをひけらかしているわけではないが、上級生といえ瀬尾に面と向かって逆らう者はいない。
男子はぐっと下唇を噛みしめたようだ。
「じゃあ、行こうか葛木さん」
瀬尾は花衣の手を引いて歩き出す。
ひんやりとしてさらりと乾いた細い指が花衣の指にからんだ。
初めて瀬尾に触れられて、花衣は顔が熱くなるのを感じた。
「さようなら、三好さん」
すれ違いざまそう挨拶して、瀬尾は花衣を連れてすたすたと学校をあとにした。
男子の睨むような視線が背中を焼くように感じたが、それよりもつないだ手の方に意識がいってしまう。
学校から十分離れた所で、瀬尾はつないだ手をほどいた。
「ごめんね、勝手なことをしたかな?」
そう謝ってくる。
「なんだか葛木さんが嫌がっているように見えたんだ」
「ううん……、うん」
花衣は戸惑いを隠しきれず、意味の分からない返答をしてしまう。
瀬尾はまた邪気のない笑顔で言った。
「よかった」
そして、
「ごめんね、いきなり手に触ったりして」
そう続けた。
「え?」
「葛木さん、誰かに触られるの嫌いじゃない? 体育会のダンスのときも真っ青になってるじゃない、毎年」
確かに花衣は触れられることが怖い。
優しく触れられてる来る手が、いきなり牙をむき自分に襲いかかってくる。
家族にも話せないし気がついてないことに、瀬尾は気がついた。
花衣は困惑と、それよりも胸の奥からじわりと広がるあたたかい感情に振り回され、息が苦しくなりそうだった。
「じゃあ、行こう」
瀬尾は手を花衣に差し出す。
その瞳は曇りなく澄んで、花衣を見つめている。
(誰かを信じても無駄なのに)
どこかからそんな声が聞こえた。
しかし、花衣は恍惚となって、瀬尾の手を取り、ならんで歩き始めた。