
暗い森の少女 第三章 ④ 血脈の呪縛
血脈の呪縛
10月の花衣の誕生日は、例年通り葛木本家で行われた。
母が選んだ、首回りに模造真珠がネックレスのように縫い付けられた紺色のワンピースは、鏡に映る花衣を年齢より大人びて見せていた。
「あーも、くー!」
花衣の着替えをまじまじと見ていた愛子は、たどたどしい言葉を発した。
この家に来て3ヶ月、愛子の成長はすさまじい。
骨だらけの体をだらりと弛緩させ、なんの感情も浮かべない目を宙にさまよわせていた赤ん坊は、もういない。
まだ全体的にほっそりしているが、背も伸び、頬にも肉がつき、自由に歩き回る姿は普通の3歳児のようだ。
まだ言葉をはっきりと話せないが、このところ毎晩帰ってくる上の叔父が絵本を読み聞かせているので、覚えた言葉を口にしたくてたまらないらしい。
祖母もすでに訪問着を身につけていたので、愛子を抱いてあやしているのはその上の叔父であった。
「愛子はお留守番、おじちゃんといい子にしていようね」
上の叔父が愛子の耳元で甘い声で笑う。
「やー!」
「愛子は行けないの、ごめんね」
「やー!」
叔父の腕の中で反り返って泣く愛子に、叔父も祖母もオロオロとする。
「可哀想よね、愛子も行きたいわよね」
「連れてっちまえばいいんじゃないか? どうせ親戚だらけでひとりふたり増えてもわからんだろ」
「そうね」
馬鹿馬鹿しい。
祖母たちは、花衣が「愛子も行っていいか葛木のおじさんに聞いてみる」と言うのを待っているのだ。
葛木の当主は花衣がねだれば子供が来ることを嫌とは言わないだろう。
だが、その子守として上の叔父が来ることは許さないだろうし、一族のものはあそこでは「よそ者」の愛子にいい顔をしないだろうと分かっている。
だいたい、「私生児を産んだ花衣の母」が来ることを拒んでいる谷に住むひとたちは、花衣の付き添いとしてくる祖母のこともよく思っていない。
「葛木家直系の娘を『ふしだらに育てた』罪は重い」
のだろう。
花衣は表情には出さなかったが、心の内で皮肉に笑った。
(本家のおじさんや、谷のひとが本当のことを知ったらどうするんだろう)
はじめてあの谷に行く前、すでに花衣がおぞましい欲望の対象になっていたことを知ったら。
(そうね)
花衣の思考に重なるように、座敷牢の女が現れる。
(がっかりするわ。でも、女の子には使い道があるもの……捨てられはしない)
愛子がこの家に来てから、座敷牢の女は前よりも自由に花衣の意識の上にやってくるようになった。
これまでは、基本的に花衣が男たちに淫らなことをされている時にしか現れなかったのだが、花衣が愛子に抱いている苛立ちや昏い嫉妬を、慰めるように、あざ笑うように、ふわふわと思考の中を舞っている。
「車の音がする」
花衣は祖母たちの思惑や自身の揺れる感情をまったく無視して言った。
「葛木の車がきたみたい」
愛子が騒いでいるのを無視して、玄関に用意してあった紺色のエナメルの靴を履いた。
「花衣さん、遅れました」
顔なじみの谷の男が車から降りてきて頭を下げた。
「お盆にお会いしたときより、大人っぽくなられましたね」
「背が伸びただけだと思います」
にっこりと花衣が笑う。
葛木家のひとびとと会うとき、肉体は座敷牢の女と共有して思考は二重になる。
視界はぼやけ、話し声も聞き取れない時があるが、それは座敷牢の女の方が強く肉体を支配しているのだろう。
「清楚で可憐、しかし葛木家の跡取りにふさわしい少女」
を演じるは、内向的で口下手な花衣より、年上の女の方がうまいのだ。
にこやかに男と話していると、慌てて祖母が家から出てきた。
その後ろをまだ泣いている愛子を抱いた上の叔父がついてきたのを見て、それまで温和だった男の表情が曇る。
「ああ、これが今引き取って育ててらっしゃるという娘さんですか」
冷めた声音に祖母は怯えたように頭をさげた。
「はい、すみません、まだ赤ん坊のような子供で、どうしても花衣と離れたくないようで」
「花衣さんに懐いていらっしゃるんですねぇ」
祖母は狡い色を目に浮かべている。
愛子が可愛くて仕方ないのだろう。花衣のように自分の世界に閉じこもっている子供より、素直に自分に懐く幼子がいとしいのは想像はできた。
「村の子供」として平凡に「普通」に育てたいと言いつつ、重厚な葛木本家の屋敷で、まるで姫君のような扱われる花衣と同じ経験をさせたいようだ。
あさましい。
自身の声か、女の声か。
そっと胸で吐き捨てる。
「そうですか。でも今日は息子さんが帰ってこられていてよろしかった」
男は祖母の言外の望みを踏みにじるように言った。
「娘さんのお世話もなれていらっしゃるようですし、安心して花衣さんを招けます」
「あの、でも」
どもりながら言う祖母に、最終勧告があった。
「花衣さんももう11歳。慣れた谷に来られるのですしおひとりでも大丈夫では? 娘さんが心配なら、残られますか?」
柔らかいがはっきりとした拒絶に、祖母は身を縮ませる。後ろの叔父は泣いている愛子をあやすでもなく、むっつりと黙り込んでいるだけだ。
「葛木の家に行くだけだもの、ひとりでも大丈夫」
普段は見せない笑顔を祖母に向ける。
「おばあちゃん、お留守番する?」
その方が気が楽だ。
葛木本家で一族の女にねちねちと絡まれている祖母の姿を見るのも飽きた。
だが、祖母はついてくるのだろう。
まだ「金づる」として必要らしい花衣が本家に奪われることを恐れ、また、「嫁に出て、さらにふしだらな娘を育てた罪」で冷遇されるとはいえ、自身もあの旧家の血筋であることを捨てきれないのだから。
「あーも!」
愛子の駄々をこねる声を無視して、花衣は車に乗り込んだ。
「本家はどうだったの?」
秋の気配も濃い森の中、花衣は瀬尾とふたりでため池の前に座り込んでいた。
瀬尾の問いに花衣は方をすくめる。
「いつもと同じ」
枯れ草のにおいに安らぎを感じながら花衣は思い出していた。
花衣のための宴は、やがて酒を酌み交わす場になって行き、大人が酔い潰れたり話に夢中になっていることを確かめて、花衣はまた奥座敷に忍び込んだ。
座敷牢の女はこの部屋ではさらに自由になるようで、花衣の思考は精神の底に追いやられ、女の記憶がなだれ込んでくる。
それは鉄砲水のように急激にやってくるので、花衣には理解できないことも多かったが、徐々に分かってきたこともある。
女も、葛木家の娘であったこと。
生まれたときから婚約者がいて、両親に大切に育てられたこと。
兄がふたりいたこと。
娘が二十歳になったとき、偶然祝いの席に現れた青年と恋仲になったこと。
そして、その青年の子供を妊娠してしまったこと。
そのせいであの部屋は座敷牢に仕立てられ、閉じ込められて、ひどい折檻を受けたこと。
(そして、女は死んでしまった)
むごたらしい暴力を受けて、青く赤く腫れ上がった顔を無残にさらし、娘は死んだ。
腹の子と共に。
(私は多分、あの女の生まれ変わりなんだろう)
いつの間にか花衣の心に巣くっていた座敷牢の女に戸惑っていたが、花衣が気がつかなかっただけで、女は最初からいたのだ。
瀬尾は花衣が村人から受けているいじめや虐待、家族からの暴力のことは知っているが、花衣の中にいる別の人格の存在は知らない。
ここまで話してしまったら、さすがに瀬尾も離れていくのではないかと言い出せなかったのだ。
「不思議な谷だよね」
瀬尾は考えながら言う。
「400年の歴史があるという家系だけど、いきなりあの谷に現れるまで、どこで何をしていたか分からないんだよね? あんな暮らしづらい、物流も難しそうな土地でなぜ隠れるように住んでいたんだろう」
「400年前の当主の娘が、お殿様の子供を妊娠して、本妻に殺されそうになって逃げてきたんだって聞いた」
なんともあやしい話だったが、谷のひとは信じているようだ。
「あの噂か」
瀬尾も聞いたことがあるようだ。
この村のひとで葛木本家のことを知っているひとはいないが、瀬尾はどういうわけか谷の事情に詳しいようだ。
「高貴な血筋なのに本妻からの刺客から逃げるようにして谷に隠れ住んだ……か」
「馬鹿みたい」
思わず花衣は言ってしまっていた。
400年も前のこと、本当にあったか分からないご落胤を大切守って育ててきた末が、葛木本家であり谷の人々なのだという。
11歳の花衣ですら絵空事に感じてしまう伝承に、今の今まで縛られているひとたちがおかしい。
大切な血筋、その純血を汚した女は殺された。
その恨みをもった女が生まれ変わったのが、またしても葛木の血筋の娘であったことは哀みすら感じる。
(まったく違う家に生まれていたら)
女は前世の因縁を忘れ、平凡に暮らせたのではないだろうか。
「葛木さんは、やっぱり中学になったら谷に行くの?」
心配そうに瀬尾が聞いていた。
「わからない。おばあちゃん、愛子が来てからは私に早く谷に行けって言ってたけど、この前、本家では成人するまで育てたいって」
どこにいても異分子なら、せめて花衣を虐待するひとのいない谷に行こうと思っていたのだが、泣きながら土下座をする祖母の姿にみなあっけにとられてしまい、その話はまたしても一端保留にされたのだ。
「なんでかな。でも、家の中じゃ愛子愛子で、私はほったらかしなんだけど」
自虐的に言う花衣を瀬尾は痛ましそうに見て、それからつぶやいた。
「愛子ちゃんの養育費が滞っているんだと思う」
「え?」
目を見開いて瀬尾を見つめ返す。
「愛子ちゃんの親戚が当てにしていた金づるに、脅しがきかなかったんだ」
秋の風がふたりを震わせる。
瀬尾は何を知っているのだろうか?
そして、座敷牢の女が胸の奥で忌々しそうな顔で、花衣の目を通して瀬尾を睨みつけているのを感じた。