暗い森の少女 第五章 ⑦ 雪に閉ざされた血脈の冥
雪に閉ざされた血脈の冥
威厳を保つことも出来なくなった当主は、婦人と一緒に屋敷の裏にある蔵まで案内した。
3歳の頃から幾度も来ていたが、この蔵に近づいたことはない。
漆黒の瓦には純白の雪が積もり、その対比が目に痛いほどだ。
鏝絵で葛木家の紋が描かれた壁に、手招くように雪が降る。
「葛木はもとは葛城と書いたそうだ。木ではなく、城と」
葛の葉の家紋を見上げて、当主は言う。
「400年どころではない、古い、古い家系なんだと父に聞かされた……それが夢幻でも、わしはすがるしかなかった。この谷に閉じ込められ、出ることが叶わないなら」
「外の人間はいつもそう」
おっとりと見えた婦人は、憎々しげに夫である当主を睨む。
「名誉ある家系など嘘だろう、罪人だからこんな場所に隠れ住んでいると蔑みながら、葛木の女は欲しがる。あなただって、私との結婚は嬉しかったでしょう」
「……そうだ。父の子供とはいえ、母は葛木の血は引いてなかった。お前を妻にしなければわしが当主となることはできなかっただろう……。花衣ちゃん」
観音開きの扉の前で立ち止まった当主が振り返る。
「なぜ、花衣ちゃんだったか。父は、花衣ちゃんのひいおじいさんのおとうさんは、ひいおじいさんを探し出し、連れ戻そうと躍起だったんだ。ひいおじいさんの弟が死んで、妹が瀬尾さんに嫁いだ後、もうひいおじいさんしか正統な跡取りがいなかった。あれだけ探しても、見つからなかったのは、今にして思えばわしの母が、邪魔をしていたんだろう」
「おじさまのおかあさん……?」
「年の離れた妹がいた」
いきなり当主は話を変えた。
「谷の女腹の娘ではなかったが、当主の血を引いた葛木の女だ。父は、義兄……いや、花衣ちゃんのひいおじいさんの妹が嫁ぐはずだった男に、わしの妹を嫁がせようとした」
夏木は顔をしかめる。
瀬尾の曾祖母の婚約者は、曾祖母が16歳の頃、すでに40を越えていたと聞いた。年の離れた現当主の妹が年頃になる頃には、幾つになっていたのだろう。
正義感の強い、潔癖な夏木は強い嫌悪感を覚えたようだ。
しかし、裏腹に瀬尾の父親の愛人関係を続けている矛楯は、これからも夏木を苦しめ続けるのだろう。
「妹は逃げた。16の娘の逃げ足など知れていると思ったが、それから30年近く、妹の行方は分からなかった。まさか、腹違いの兄である花衣ちゃんのひいおじいさんを頼ったんだなんて思いもしなかった。どうやって探したのか。それほど、結婚が嫌だったのか」
当主は目頭を押さえながら首を振る。
「花衣ちゃんのひいおじいさんは、脳溢血で誰もいない家で亡くなったんだろう? 不審死ということで警察が介入したんだ。それでやっと、葛木本家もひいおじいさんの居場所がわかったんだ。ひいおじいさんと、谷から一緒に逃げた女との子供は2人、どちらも戦争で死んでいた。後妻との間に生まれた娘はすでに嫁ぎ、子供が3人いた。息子が2人。純血ではないが、どちらかを迎え、谷の女を娶せばいい。……わしのように」
婦人は白目をぐるりと巡らせ、自分の夫を睨んだ。今まで仲のよい夫婦と思っていたが、2人とも深い物思いがあったようだ。
「それを反対したのは、わしの母だった」
当主は暗い目を蔵に向ける。
「ひいおじいさんが亡くなった同じ頃、父も死んだ。跡継ぎはわししかおらず、今まで日陰者として谷の人間に卑しめられていた母は、いきなり刀自さまと呼ばれるようになった。谷の女であるコレすら押しのけて、この屋敷は母の権力に落ちた」
当主は顎で妻を指した。
「母は、花衣ちゃんを引き取ると決めた。花衣ちゃんのおかあさんは、谷の血筋でもないおじいさんの連れ子とは分かっていた。わしや一族の者は反対したが、父が死んでからの母は、まるで葛木の能力者のような奇妙な力を使うようになっていた。反対する者は発狂したり、酷いときは命を落とした。わしとコレも、母に反対し、呪われた……ざんばら髪を背に垂らした、青い顔をした襦袢姿の女が、足から幾筋の血を垂らしながら、笑いながら近づいてきた。あの手に捉えられたら、わしらも正気を失ったか、もしかしたら死んでいたかもしれない」
花衣は思わず瀬尾と見る。
瀬尾もごくりと喉を鳴らす。
瀬尾は今も、花衣の中にいる複数の人格を、多重人格の病気が作ったものだと思っていただろう。
しかし、花衣がずっと語っていた座敷牢の女を見た人間が、別にいたのだ。
「わしも、谷の者も、花衣ちゃんを迎えることに同意して……その後、母に毒を飲ました」
「え」
「毒というのかは分からない。花衣ちゃんのおばあさんからもらった、少し聞き分けのよくなる薬だ」
「なんてことを」
夏木が絶望と嫌悪の混じった声を絞り出す。
祖母が入信している宗教団体が、お布施の多い者にだけ渡す、『心が軽くなる薬』は、夏木の予想が正しければ、麻薬だ。
使い方によっては、気分がよくなり疲れも取れるらしいが、使い方を間違えると、中毒になり禁断症に苦しみ、大量に飲ませると死んでしまうだろう。
「母は、大人しくなった。だけど、花衣ちゃんを葛木の養子にすることは止められなかった……わしらは、花衣ちゃんのおばあさんから、薬を買い続けなければいけなかった。母を大人しくさせるために」
「それだけ?」
花衣は、溶けた雪でかじかんだ足先を見ながら、低く言った。
「おばあちゃんから、薬を買うためだけに、私を跡取りにしたの」
「それは」
「花衣ちゃんのおばあさんに脅されたのよ! 一回、薬を飲ませたらそれでおしまいと思っていた。痕跡も残らないって……でも、嘘だった。定期的に飲ませないと、姑は正気を取り戻して、あの化け物をよこしてくる! 都会に逃がした息子の元にも、あれはやってきた!」
「……ご自分達の都合のために、母親を殺そうとしたんですか?」
夏木が花衣を引き寄せた。
「一回ですむと思っていた。優しそうに見えた、あの人は。『分かります、私も酒乱の父に苦しめられました……この薬を飲ませれば、皆さん楽になります』……そう言われたんだ」
「でも、嘘だった。薬を売ってもらうためには、自分を葛木家に迎えろと詰め寄られた……あんな女を本家に迎えるくらいなら、まだマシだと思ったのよ……大人しい、何も知らない子供を跡取りに据える方が」
「花衣さんのおばあさんが、花衣さんを決して手元から離さず、あなたたちも引き取る引き取るといいながら、そうしなかったのは、薬を手に入れるためなんですね? 月々の養育費も、その薬の対価だったというわけなんですね」
そんなもののために。
花衣をよそ者のふしだらな娘と蔑む村で育てた。
祖母の優しさは偽りで、育てるのに手間のかかった下の叔父を薬で操って、花衣を殺そうとしていたのだ。
自分が葛木家の正統な跡取りと信じていた。上の叔父こそ、当主ににふさわしいと望んだ。
そんな欲望のために。
「だって……! 姑は、正気を取り戻すと、あの黒い化け物を谷から出した子供たちのもとへ飛ばした。息子達は耐えたけど、孫は死んだわ! ねえ! あの家も、あの家も、あの家も、子供を遠くへ逃したのに、あの化け物に殺された! せっかく、葛木の血を引いた女だったのに!」
婦人の正気こそ、もはや失われたようだった。
当主は、陰惨な目で妻を見て、花衣に頭を下げる。
「母の呪いが分かった後、谷にいた若い者は全て都会に出したんだ。みな、男子ばかりで能力者でもない。年頃の女子は谷にいなかったから、子供らは都会で結婚して、子供を作った。生まれた子供はみんな女の子だった。純血は薄まったが、葛木の女が増えたのは喜ばしいことだった。……母が落ち着いたら、子供達を谷に戻すつもりだったんだ。それなのに、どの子も3歳になった頃、みな死んでしまった……プールで、川で、風呂場で、溺れて」
(おねいちゃん)
花衣の内部から、甘えた声がする。
柔らかい小さな手が、花衣の首筋に当たる。
(なんで、おねいちゃんだけ生きているの?)
その手に闇の中に引きずり込まれそうになったとき、無愛想な少年が『愛子』の形をした、葛木の血を引く娘でありながら、幼くして死んでいった子供の霊の集合体を力尽くで花衣から離した。
(しっかりしろ! お前は父さんの所に行くんだ。葛木も松下も捨てて、幸せになるんだ)
少年はひたむきな目をして花衣を励ました。
(『花衣』は、お前が父さんと母さんに育てられたらああなった、正しい姿なんだよ! お前は、弱くない。踏みにじられているだけの子供じゃないんだ)
いつの間にか閉じていた目を、ゆっくりと開く。
瀬尾と視線があった。
賢く大人びた少年は、この状況にも怯まず、ただまっすぐに花衣を見返す。
「葛木さん」
「うん」
花衣は微笑んだ。
「大丈夫。もう負けない」
当主を振り返った。
「お話は終わったかしら、おじさま。早く、扉をあけて?」