暗い森の少女第一章 ① 墓守の娘
目覚め
花衣は目を覚ました。
乾いてひび割れた板から、細く光が差し込む。
ほこり臭い、暗いその場所かどこかは、花衣には分からなかった。
何度かまばたきを繰り返す。
さびた農具が目に入った。
わらを束ねたもの、薪、日焼けした麦わら帽子。
そう認識して、やっと自分の手首を、別の誰かに強く握りしめていることに気がついた。
ぜぇぜぇという獣のような息が耳にふきかかり、その生臭さにぞっとする。
花衣は、一瞬、なにか大きな生き物が自分に襲いかかり食べようとしているのだと感じた。
(死ぬんだ)
すっと全身が冷えたあと、不思議な開放感がやってきた。
(どうだっていい)
花衣の小さな体から力が抜けていく。
再び、目を閉ざした。
早く、一気に、苦しまないよう、それだけを願う。
しかし、死の苦痛はいつまでたってもやってこなかった。
そっと目を開けると、薄暗がりのなか、影が動いて、花衣の手首を離し、なにかごそごそとやっている。
花衣は、自分が壁に強く押しつけられ、体をくの字にねじ曲げられていたようで、いましめが取れた事で、その場にくたりとしゃがみこんだ。
影は、また花衣に近づいてくる。
息をとめてじっとしていると、皺の深い、シミだらけの醜い手が花衣の手を掴んだ。
生温い感触に、ぞっとした。
陽にあたためられたなめくじのように、その手は花衣の手をなで回し、そして、なにかを握らせた。
しわくちゃな紙。
「誰にも云うんじゃない」
もれる光に見えたのは、黄色い乱杭歯のぞかせて、にたり、と笑う老人の顔だ。
(誰だろう)
花衣の返事も待たず、老人は崩れそうな納屋から出て行った。
扉を開いた時にあざやかな5月の空が広がって、花衣を照らす。
土間に小さな布きれが落ちている。
花衣は、自分のスカートの中に何も身につけていないこと、そして、下腹部に鈍い痛みがあることにやっと気がついた。
墓守の娘
「花衣ちゃんはもう3歳?」
ふくよかな頬に笑みを浮かべて、見知らぬ老婦人は花衣の頭を撫でた。
白いレースのカーディガンに、紫のワンピースを着た老婦人の後ろに、濃い灰色のスーツを着た、やはり恰幅のいい老紳士がにこやかに立って花衣を見つめる。
花衣は、初めて会う人々にも、訪れた場所にも、緊張して、唇を噛みしめた。
自宅から車でどのくらい走ったのだろうか。
花衣の住む場所も、「山奥」といっていい場所であったが、その場所は本物も「山奥」であった。
車酔いしやすい花衣は、真っ青になりながら、細くくねる道を走る車の中で、目を閉じていたいのに、
「景色を見ていれば気分もよくなるから」
と、窓を開けて外を見せられていた。
もう終わったと思っていた桜が咲いている。
山道を登り切ったと思うと、車はゆるゆると下り始める。
そして、ずっと木々で狭かった視界がひらけた、と思ったとき、目の前に、純和風の大きな屋敷があったのだ。
谷になってなっている一番下の、その屋敷の前で車が止まった。
黒い瓦が、春の日差しで鈍く光って花衣の目を打つ。
庭では、大勢のひとが立ち働いていた。
車から花衣たちがおりると、それに気がついたひとが数人やってきて、また何人かは奥に入っていく。
大人たちが礼儀正しい挨拶をしている間、花衣は祖母の後ろで、もじもじしていた。
そうして、出てきたのが、品のいい老夫妻であり、この屋敷の主のようだ。
いつも家ではランニングシャツの祖父も、今日は仕事に行くときのスーツ姿だ。
割烹着姿しか見たことのない祖母も、今日は着物を着ている。
祖母は、2人にしきりと頭を下げていた。
花衣は、母親が選んだ緑色のベルベットのワンピースを着ていた。
5月も下旬で、そろそろそのワンピースを着るには暑かったが、大人たちはそのワンピースを着た花衣を褒め、腰まで伸ばし、耳の後ろで二つに結んだ黒い髪を撫でていく。
花衣は、さわられることが嫌いだった。
大人は、花衣の都合を無視して、花衣にふれ、話しかけ続け、連れ回す。
屋敷の中に招き入れられ、大勢のひとが円座を組んでいる部屋で、また堅苦しい挨拶がはじまる。
大人たちが話し出すと、花衣はほっとして、祖父の影に隠れて、持ってきた本を取り出して読み始めた。
祖父は、花衣の人見知りのことを誰よりも心配していたので、花衣の体が隠れるように背筋を伸ばす。
しかし、話が途切れると、その場にいる大人たちは、みな、花衣を見つめる。
どの目も細められ、愛おしげに花衣を見る。
「花衣ちゃんは内気なのね」
「内弁慶なんですよ、家ではわがままばかり」
祖母は困ったように笑いながら、花衣を祖父の後ろからひっぱり出そうとする。
祖母は当時44歳だったが、12歳年上の祖父に嫁いで、その色に染まろうとしていたので、もっと老けて見えた。
地味な紬の袖からのぞく手は、しわがあり、日焼けをしていた。
いつもは優しい祖母が、花衣を無理矢理、円座を組んでいる大人たちの真ん中に押し出そうとして、強い恐怖を感じて、祖父の背中を掴んだ。
「いいよ、花衣ちゃんにとったら、知らないひとだらけだもの。怖いよね」
恰幅のいい老紳士は、鷹揚にそう言う。
「本が好きなの? お利口さんだ」
「本ばかり読んでいて、友達も少なくて」
祖母はずっと謝ってばかりだ。
いつも寡黙な祖父は、今日もなにも話さない。
「でも、もうすぐ保育園に通うんでしょう? 友達はすぐに出来るわ」
老婦人は、にこにこと花衣を見つめる。
「養子縁組のことなんだけど」
大人たちの視線が自分から離れて、花衣は体中の力を抜いた。
本家、墓、養子、などの言葉が、ふすまを取ってひとつの大きな部屋にした和室に響くが、花衣にはよくわからない。
この日が来るまで、花衣は祖母から、
「おばあちゃんの子供になるかい?」
と訊かれていた。
言葉の意味が分からなかったが、花衣は、
「うん」
と答える。
そうすると、質問をした祖母も、他の大人も、わっと笑い出すのが怖かった。
花衣の世話は祖母がしていた。
家庭のことはすべて祖母がやっていたし、それに花衣の面倒も加わっただけだったろうが、起きてから眠るまでいつも一緒で、食事、お風呂、ままごとなどの遊びに付き合ってぃれるのも祖母だ。
祖父も、たっぷり花衣を愛してくれているが、仕事があるので、夜しかそばにいない。
祖母がいないと夜驚症のようになり、眠らない。
(おばあちゃんの子供になるってどんな事なんだろう)
今となにが違うのか。
母や叔父たちのように、祖母のことを「かあさん」「おふくろ」と呼ぶことだろうか?
花衣は、その疑問を口に出して説明を求められなかった。
訊いてはいけない、そんな気がしたのだ。
「本当に、一人娘である私が嫁に出たばかりに」
祖父の後ろで、「ほしとでんせつ」の、アンドロメダが大きな岩にくくりつけられる所を読んでいるとき、祖母が泣きながら、両手をついて頭をさげる。
「しまちゃん、よしなさい」
「そんなことはいいのよ、こうやって立派な跡取りが出来たのだから」
老夫妻や、その周りの大人たちも口々に祖母を慰めている。
「本家の墓を守る立場でありながら、申し訳ありませんでした」
祖父が、祖母の方に数センチ動いた。
大正生まれの寡黙な男は、祖母に声をかけることも、肩を抱くこともなかったが、その動きには祖母に対する思いやりを感じた。
「しまちゃん、もうよしにしよう。しまちゃんが立派に育てたお嬢さんが、花衣ちゃんを連れてうちの養子に入ってくれるのだから」
その言葉に、花衣は震える。
(私は、よその子になるの?)
祖母は、ハンカチで涙をぬぐいながら、微笑む。
「はい。この子は私が責任を持って育てます。葛木家の墓守として、婿を取って立派に跡を継がせます」
祖母の言葉に、大人たちは破顔し、小さく手を叩くひとまでいた。
(かつらぎ?)
花衣はその名を知っていた。
(ひいおばあちゃんの名前)
花衣の自宅の近くで暮らす、祖母の母の姓である。
(でも、花衣は松下なのに)
もうすぐ保育園にあがるからと、何度も名前を書く練習をしたのだ。
言いようのない不安が、顔に表れていたのだろう。
屋敷の主である、老紳士が優しく微笑みながら言った。
「花衣ちゃん、なにも怖くないよ。花衣ちゃんは今のまま、おばあちゃんとおじいちゃんと暮らすんだ。名前が変わるけれど、それだけだから」
花衣は祖父母の影で、きゅっと唇を噛んだ。
「本家筋の墓守は大切な役目なんだ」
主の言葉に、大人たちはみな、うなずく。
「跡取りで、大切な墓守の娘」
繰り返される言葉は、さきほどまで読んでいた、アンドロメダを大岩につなぐ、冷たい鎖のように、静かに花衣を苛んだ。