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暗い森の少女 第二章 ⑧ 絶望への誘い




絶望への誘い


「おい」
まだ梅雨があけきっていないが、少し晴れ間が見える午後、花衣は乱暴な声に呼び止められた。
瀬尾とあの森に行こうと誘われていたのだ。
はじめてふたりで森を訪れた数日後に梅雨入りして、滑りやすいため池のある森に行くことはできなかった。
瀬尾の母親も東京から戻ってきたので、部活動が休みの日、何回か瀬尾家を訪ねた。
小さな赤ん坊だった千佳は数ヶ月会わなかっただけなのに、背も伸びて抱かせてもらうとみっしりと重い。
花衣のことを忘れてしまったのか、最初は泣かれて困ってしまった。
「僕のことも忘れていたんだよ」
瀬尾は花衣の腕の中にいる千佳の頬を撫でながら笑う。
「この時期の赤ちゃんはみんなそうなのよ。直之もひどかったわ、人見知り」
「そうなんだ」
静かなノックの音がして、夏木がアイスティーと焼きたてらしいクッキーを乗せた盆を持って入ってきた。
「千佳さんには湯冷ましとリンゴの果汁を用意しています」
瀬尾の母親は千佳をつれて部屋を出て行った。
重厚なカーテン、大きな本棚、黒いピアノ。
夏木のいれてくれたアイスティーのグラスはもう汗をかいている。
瀬尾とこの部屋にいると、あの森であったこと、見たこと、聞いたことが全て夢のように思えた。
瀬尾は行儀よくアイスティーをストローで飲み、市松模様のクッキーに手を伸ばした。
「美味しいよ、夏木さん」
「よかったです」
瀬尾の母親が戻ってくるタイミングで夏木も瀬尾家のお手伝いとして戻っていたようだ。
もともとすらっとしていたが、前よりさらにやせたような気がする。
花衣たちと同い年だという子供の怪我のせいなのだろうか?
なぜかその話題がでることはなかった。
いつものように、夏木が応接室に入ってくると、千佳の昼寝のタイミングで瀬尾の母親が出て行き、瀬尾と花衣は夏木を交えておしゃべりをしたり、夏木が夕飯の支度で席を外すと、それぞれ本棚から好きな本を選んで、ソファに座って読む。
瀬尾は最近気に入っているらしい天体図鑑を、ひとり用のソファに腰掛けて熱心に眺めている。
そこには、まだ細く背も低いが、いずれ実業家である祖父の跡を継いで行くのだろう、賢さとひとを引きつける明るさ、穏やかであるがカリスマ性すら感じる少年の姿がある。
空虚なガラスのような瞳で、花衣に呪詛の台詞を囁いた瀬尾は、花衣の作った幻のような気がした。
「葛木さん」
そっと見ていたつもりだったが、瀬尾は気がついているぞというように悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「夏休みになったら、お盆までは毎日野球の練習があるんだ」
「そうなんだ」
花衣の入っている調理部は、料理の基本をテキストで学ぶだけであったが、夏休みに一回集まってカレーを作ることになっていた。
「大変そうだね」
「本当だよ」
瀬尾はすんなりした腕を見せてきた。
「もうこんなに日焼けしてる。これからどうなるんだろう」
確かに春までの瀬尾にしたら幾分日に焼けていたが、他の男子よりずっと白い。
花衣もそうであるが、瀬尾も日に当たると日焼けするというより軽い火傷のようになって、肌が赤くなる体質のようだ。
そして、夏が終われば他の子供はまだ日焼けをしているのに、あっという間にもとの白さを取り戻すのだろう。
「秋になったら」
花衣の言葉を瀬尾はオウム返しにした。
「秋になったら」
テーブルの上で氷がとけてしまい、半透明に光るアイスティーを眺めて続ける。
「葛木さんは11歳になるんだね」
「そうだね」
花衣の誕生日は10月だ。
「瀬尾くんは8月だね」
「うん」
なんの星なのだろう。
真っ赤に膨れ上がって、今にも爆発しそうな天体が描いてあるページを瀬尾は見ていた。
「あっという間だ。すぐに年が明けて、僕たちは6年生になる。そして」
声は潜められ、そばにいる花衣にすら聞き取れないほど小さい。
「中学生になるんだ。そしたらもう」
花衣は耳をそばだてた。
「……もう、子供のふりじゃ通用しなくなる」
言葉の真意は測りかねたが、中学生になることは花衣にも大きな変化が待っている。
葛木本家は、花衣が中学生になったら、行儀やら習い事をさせるために、花衣を谷に引き取りたいと言ってきていた。
谷のある学区は、今住んでいる村の学区と違うので瀬尾とは違う中学に上がることになるかもしれない。
今はまだ、祖母がおろおろとしながら抵抗しており、母も拒んでいるようだが、どうなることか分からない。
村にいても、谷にいっても、花衣の孤独は変わらないだろうが、やはり瀬尾と離れるのは淋しかった。
「ねえ」
まだ声は小さいが、瀬尾はいつもの明るさを取り戻したように言う。
「梅雨があけたら、また、あそこに行こう?」
『あそこ』が、あの森だということは花衣はすぐに察した。
ぴくりと肩を震わした花衣を、なだめるように優しい声で誘う。
「……誰にも秘密だよ?」
秘密。
その言葉は、花衣にとっては禁忌の呪文であった。
瀬尾はそのことを知っているのか知らないのか。
どこまで気がつかれているのだろう。
背中に悪寒が走った。
数日前から雨の降らなかった夏休み前の土曜日、授業が終わり帰ろうとした花衣を、瀬尾は意味ありげに見つめていたのだ。
(森に行く)
閉ざされた森、古い水が腐っているかのようによどんだ緑色のため池、下草はあのときよりもっと伸びて、行く手をふさぐだろう。
そこに行くことは誰にも知られてはいけない。
そこで、なにがあるのかも。
祖母がゆでてくれた素麺をどうにか食べ終え、花衣は何気ない顔で家を出た。
雨が降っていなくても、じっとり湿った空気に寒さを感じる。
人目をさけ、森のある村の外れに行こうとした時、背後から恫喝するような声に呼び止められたのだ。
「おい」
振り返ると、白いカッターシャツに黒いズボンの、中学の制服を着た男子がいた。
大きな体をさらに強調するように肩をいからせて花衣に寄ってくる。
襟元の汚れは見えたが、その顔は白い仮面をかぶったようにぼんやりとして誰かが判別できない。
身構えた花衣をあざ笑うように、男子は花衣の腕を掴んで、近くにある使われていない納屋の裏に連れ込んだ。
ねっとりとした手のひらが、花衣の腕が折れるほど強く握りしめ、納屋の壁に押しつけた。
「いい気になってんじゃねーよ」
怒りを含んだ声に花衣は困惑する。
なにを言われているんだろう。
誰からも隠れて、ひっそりと生きていたいのに、なぜいつも自分はこうやってひとを不快にさせるのだろうか。
男子はぐっと重い体を押しつけてくる。
つんとすっぱい汗のにおいが鼻孔に広がった。
「瀬尾と仲良くすれば、あいつがいつも守ってくれるって思っていたのか」
男子の荒い息を首筋に感じ、気持ち悪さに震える。
声と体の熱に、怒りだけではないものが混ざり始め、花衣は忘れていた恐怖を思い出した。
幼女の頃から何度も何度もくり返された行為。
一部の村の男、行きずりの男、そしてこの男子を中心にしたグループによって行われた「ふしだら」なことが頭の中を駆け巡った。
何人かの大人の男は、口封じのつもりか金を握らせたことも。
「いや」
消え入りそうな声に、男子は余計に興奮したようだった。
「今更気取るんじゃないぜ。お前が本当はどんな女だって知ったら、瀬尾だってもう相手にしない」
このことを瀬尾に知られることが怖い。
(葛木さんにも、消したいひとがいるんでしょう?)
あの台詞は、誰のことを言っていたのか。
『普通』に花衣を邪魔者だと思っている村人や子供、暴力的な叔父たち、愛情という名で花衣を支配する祖母。
瀬尾の言ったのは、この人間たちだと思っていた。
しかし、本当に消したいのは。
「まあ、瀬尾だっていつまでふんぞり返っていられるか分からないぜ。あいつのじいさんは、あいつを嫌っているからな」
含み笑いをしながら言う男子は、花衣の耳たぶを噛んだ。
「知らないのか? 教えてやろうか? あいつは……」
男子のねばついた手が花衣のスカートの中に入ってきた瞬間、花衣は思考をあっさり手放した。
淫らな笑みを浮かべ、座敷牢の女が花衣の体を支配する。
頑なに男子を拒んでいた体が柔らかくその腕に抱かれることを悟り、花衣は心の中で全ての感覚を閉じていった。


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