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暗い森の少女 第三章 ⑥ 凍てつく眼差し

凍てつく眼差し


「あたたまった?」
ココアの湯気に顔を埋めるようにしていた花衣に、夏木はそっと話しかけてきた。
レースで編んだテーブルクロスがかかった小さな机には、ピンクの粉砂糖で絵を描いたクッキーがならんでいる皿もある。
白いカーテンに、やはり白い洋箪笥がある以外、物が少ない部屋だ。
夏木は瀬尾の家で着ている制服のような紺色のポロシャツではなく、やはり白いカーディガンに白いブラウス、そして薄紫のスカートをはいている。
うなじできっちりお団子にしている髪をおろした夏木は、若いというよりも幼く見えた。
(どうしてついてきてしまったんだろう)
花衣は甘いココアをゆっくり飲みながら思いふける。
激しさを増す雨の中、家を飛び出した花衣の心の淵にはいつものように座敷牢の女が顔をのぞかせていた。
乱れた髪が頬にはりつき、うっすら笑ってこちらを伺ってる。
あっという間にびしょ濡れになった服は重く、花衣の体は冷え切っていた。
だが、体の冷えよりも心を乱す吹雪は、秋を越え身を切り裂くような冬の到来を告げているようだ。
もういやだ。
これまで自分の身に行われてきた淫らな行為も、それを行った人々も、家族も、愛子も、なになかもがいやらしい虫のように花衣の脳内を這い回る。
なにもかも、いやだ。
もう、手放したい、あるというのなら自分の正気を。
花衣はいつも「ひとと違っていること」に怯えていた。
胸に巣くう座敷牢の女を筆頭に、精神の奥底にある鏡の中の住人たちは、ひとに話せば花衣が発狂したと思われるだろう。
ひたひたと、足音を立て座敷牢の女が花衣の意識に迫ってくる。
(見たことはもう忘れられない)
含み笑いで言った顔は喜色でほんのり赤らんでいた。
(葛木の女だもの。どうしてもこの運命から逃げられはしないの)
花衣の耳に呪詛が吹き込まれる。
(望まなくても、男を誘うのよ。あの女だってそう。そうやって生きてきたんだもの)
(違う、誘ってなんてない)
花衣は首を激しくふった。
(思い出しているんでしょう? いくつのときから男にどうされていたか)
びくっと体が震える。
(そうやって生きてきた。これからもそうして生きていくのよ)
花衣にしか見えない女の手が頭を包み込み、ゆっくりとその指が脳内にのめり込んできた。
(ここまで堕ちておいで……もう誰になにをされてもいいように)
いつもの女とは違った低い声だ。
女の顔は勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。
しかし、長い黒髪の後ろに、ぴたり、と張り付くように、シワが折りたたまれたような顔をもつ老人がいたのだ。
いつも無表情な老人は、これもまた笑っているようであった。
しわに隠された口が細い月のように開き、花衣をあざ笑っている。
座敷牢の女には感じたことのない、嫌悪感と恐れが戦慄が走った。
髪の毛もなくなり、ミイラのような老人だったが、その顔には見覚えがあるような気がする。
混乱が極みに達し、本当に自身の精神の檻に逃げ込もうとしたとき、一台の車が停まったのだった。
「花衣さん!」
白い軽自動車から現れたのは、瀬尾家から帰る途中であった夏木であったのだ。
その後は何も聞かずに花衣を車に乗せて、40分ほど村から離れた町にあるアパートに連れてきてくれた。
村にはアパートはなく、花衣は物珍しく眺めてしまう。
「ごめんね、狭いでしょう?」
「ううん……」
部屋に早々と出してある石油ストーブをつけ、服を脱ぐように夏木は言ってから風呂の支度をしてくれたようだ。
灯油のひりついたにおいが部屋に充満する中、言われたとおり服を脱ぎ、出されていたトレーナーとズボンを身につけた。
流行っているアニメのキャラクターが胸に大きくプリントされた青いトレーナーは男の子ものなのか、花衣には少し大きかった。
花衣が着替えていると、隣の部屋から夏木が誰かと電話している声が聞こえる。
ストーブの前でぼんやりしていると、夏木が戻ってきた。夏木もすでに着替えをすませていた。
「お風呂が沸くまでストーブで暖まってね」
時計を見ると夕方の6時を過ぎている。
いくら花衣を価値のない存在だと思っている祖母も、こんな時間まで花衣が帰らないと心配するだろう。
(どこでなにをして、また家の名を汚すかと)
暗い目をした花衣に、夏木はあっけらかんと言った。
「さっき、花衣さんのおばあさんと電話をしたの。直之さんとうちに遊びに来ていたけれど、ひどい雨でとても送っていけれない。直之さんも泊まるし、私の子供もいるから泊まらせていいですかって。明日はきちんと学校まで送りますからって言っておいた」
くすくすと笑う夏木は、どこか少女じみている。
「直之さんにも電話しておいたわ。大丈夫、おばあさんは瀬尾の家に確認の電話をする勇気はないって。本当に生意気だわ」
言葉はひどいが、夏木が瀬尾を大切にしていることが伝わってきた。
「花衣さんのこと、よろしくねって」
その伝言は、厚く氷がはられた花衣の心をあたためていく。
ここに瀬尾が本当にいたら、気持ちを抑えきれずに泣いてしまっていたかもしれない。
どれほど瀬尾に優しくされても、多くの時間を過ごし、秘密さえ共有しても、花衣は瀬尾に自分を全部さらけ出すことはできなかった。
おおよそ瀬尾は花衣の身の上の起きている過去、現在を知っている。
だが、今は精神の鏡の部屋に隠れてしまった4人のことは話せていない。
嫌われるのが怖かった。瀬尾にだけは「普通に育ったらこうであった」だろう少女のふりをしていたかった。
そんな花衣が作った垣根をこえて、瀬尾は花衣のことを心配してくれているのだ。
知らず、頬に涙が流れた。
その熱い感触で自分が泣いていることを知って驚いてしまう。
「言いたくないなら、なにも言わなくていいのよ」
夏木はタオルを差し出す。
「誰にだって言いたくないことはあるし、それには年齢は関係ないって思っているから」
自分用にいれたコーヒーをゆっくり飲む姿は、瀬尾家で見せる明るく元気な印象とは違う、ほんのりとした悲しさをにじませた若い女性のそれであった。
「家に縛られる」
花衣は肩を震わす。
しかし、夏木の思考は別のところにあるようだった。
「あの村に行って、本当にそう思ったわ。この町だってあの村と変わらない、しょせん大きいだけの『村』だって知っているけど……。不思議だった、どうしてこんな不便で窮屈な場所に囚われているんだろうって」
夏木の声は静かだったが、その奥に仄暗い情念を含ませているようである。
「結局、みんな『外』で自分の本当の価値を知るのが怖いのね。あの村の中では大きな顔をしているひとが、町で働いているところを見たことがある? ひとの顔色ばかりうかがって、卑しげで……。ああ、だからあの村を出れないんだって。あの村はあんなに『価値のない』人間でも、ただ長く住んでいるだけで特別な存在になれるんだもの」
密かに花衣が思っていたことを夏木は語った。
「でもね、それは私もなの」
自嘲するように笑う。
「私、子供の頃から自分の両親に逆らえなかった。別にたいした家でもないのに生まれた時には婚約者がいたの。本の世界みたいでしょう? 婚約者の親は金持ちで、うちの家に援助をしてくれているらしくて、そんなひとに両親は逆らえないし、私もそのことを普通だと思っていたの。大人になって、婚約者と結婚して地味だけど『普通』に生きていくんだって」
「……」
「婚約者が大学に行くとき、私が高校を卒業したらついてきて欲しいと言われたわ。そばにいて欲しい、支えて欲しいって。婚約者は頭もよくて落ち着いて見えたけど、考えたら18歳の男の子がこんな田舎から都会にひとり暮らすなんて怖かったのね。でも、卒業しても私は行かなかった」
夏木は遠い思い出を引き寄せようとしているようだった。
「私も怖かったの。こんな田舎で凝り固まった価値観のひとの中で生きていくのはいやだと思っていても、ここから飛び出すのが怖かった。……村のひとと一緒。卑屈で矮小な自分を他人に確認されたくなかった」
そこにいる女は、本当に夏木なのだろうか?
瀬尾の母親に仕え、立ち働き、頼もしさは感じることはあっても、こんなに深いもの思いを抱いているとは知らなかった。
花衣の母親と同い年ということは、今年31歳になるはずだが、話に出てくる18歳で時を止めたような頑なな潔癖さを感じるその姿は、とてもその年には見えない。
(おかあさん)
そういえば母を最後に見たのはいつだったろう。
母の皮肉めいた、だが村には交わらない強さを、なぜ花衣は受け継がなかったのだろうか。
夏木は深い息をつくと、いつもの明るさを取り戻したように笑った。
「さて、いい加減夕飯を作らなくちゃね。なにがいい? って言っても今家にある材料で作るからあんまりご馳走はできないけれど」
「あ、いえ、なんでも」
「カレーかなー。直之さんも結局カレーが好きなのよね。子供はカレー!」
言い切る夏木を見て、花衣は思わず笑ってしまった。
多分、夏木の子供も好きなのだろう。
「作っている間お風呂に入っちゃって。着替えは新しいの出しておくから」
「あ、でも夏木さんの子供さんが帰ってきてからでも」
花衣の言葉に、夏木の冷蔵庫を開けようとしていた手を止めた。
「あー、今子供はね、おじいちゃんの家にいるのよ」
こちらをけっして見ようとしない。
「前にひとりで留守番させたときに、大けがしてね。とても私に任せておけないって」
先ほど夏木の話に出てきた両親の家にいるのだろう。
大人は子供を養うために働かなければいけない。それは花衣にも分かっている。
母が祖母に花衣を預けて働くように、夏木も働くしかないのだ。
そう思うと、外で働いている様子のない、谷に住む葛木家の人々が不思議であった。
夏木に言われたとおり風呂に向かう前、恥ずかしかったが、生理中であり生理用品を持ってきてないことを話す。自宅とは違い着替えなど汚しても隠しようがないからだ。
うつむく花衣に、夏木は優しい声で言う。
「分かった。下着もそれ専用のがあるけど、私のだと大きいかな? でも着替えた方がいいと思うし、使ってみて? 生理用品はここに置いているから、好きに使って」
家族にも相談することができなかったことを話せ、それを夏木も普通に受け入れてくれる。
じんわり胸に湧き上がる温かみを噛みしめている花衣に、夏木は感慨深そうに話した。
「花衣さんももう11歳か。私もその年くらいからかな、始まったの。お腹痛かったら我慢しないでね、子供用の痛み止めも残っているから」
そして思い出したように言ったのだ。
「そういえば、誕生日にあげた人形は気に入ってくれている? 私のお古じゃ悪いとは思ったけど、直之さんに花衣さんが小公女に出てくる人形に憧れているって教えてもらって。よく知らないけどけっこう有名なひとが作った人形らしいのよ。着替えのドレスも凝っているでしょう? 別珍の緑のドレスは髪飾りとおそろいなのが気に入っていて……」
夏木の声が遠ざかる。
何を言っているのだろうか。
あの人形は、去年の誕生日に、母が花衣に買ってきてくれたものだ。
緑のドレスに、髪飾りの似合う金髪の人形。
それは花衣の部屋に今もずっと持ち主の帰りを待っているはずだ。
(おかあさん)
花衣も、ずっと母の帰りを待っているのに。
最後に合ったのはいつだったろうか。
花衣の思考は霧に包まれ、次第に世界は遠くなっていった。

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