暗い森の少女 第五章 ⑥ 消えゆく時の中の秘密
消えゆく時の中の秘密
「これ以上は君であっても許されないよ」
わずか数分で、すっかり年老いたとうに弱々しくなった当主は、それでも威厳をもって言った。
花衣達三人の後ろには、谷によくないものがきたと言うように、葛木一族のものが迫ってきている。
どの顔も、シワ深く猜疑心が凝ったような表情をしていた。
『葛木の姫君』を見る目ではない。
期待などしているつもりではなかったが、ここでも花衣は、聞き分けのいい少女であるとこしか価値がなかったのだとはっきりと分かったのだ。
「あなた……」
屋敷の奥から、ふくよかな頬を持った当主婦人が現れる。その顔も真っ青であった。
「おはようございます、おばさま」
毅然と顔を上げて挨拶の言葉を投げる花衣に、婦人はその場でへたへたと座り込んでしまったのだ。
「お前」
当主が雪の上、呆然とした様子で立ち上げれない妻にかけよる。
「若様とお姫様」
婦人の震える声には、確かに畏敬の念が込められている。
花衣と瀬尾は視線を合わす。
花衣は今まで言われたことがなかったが、もしかしたら曾祖父の面影があるのかもしれない。そして、瀬尾は、自身の曾祖母と似ているのは肖像画を見ても明らかである
数十年の時を超えて、かつての総領息子とその妹の帰還に、妾腹の当主より谷で生まれ育った婦人の方が恐れをなして混乱しているようだった。
「若様、姫様、お許しくださいませ。父も母も、お二人をないがしろにするつもりではなかったのです」
座敷牢の女に加えられた暴力、それを助けようとしたため、自分も蔵に作られた座敷牢の閉じ込めれることになってしまった曾祖父を、婦人の両親が率先して行い、そしてそれをまだ幼かっただろう婦人も見ていたのだろう。
「鬼畜ではございましたが、谷のためには必要だったのです。姫様には、濃い血の子供を産んでもらわなくては」
「やめなさい! どうしたんだ}
当主が婦人の肩を掴み激しく揺さぶる。しかし、婦人の目は花衣と瀬尾を見つめ続け、うわごとのように話し続ける。
「ご当主さまは知らなかったのです。次男坊様があんなことをなさるなんて!」
がんぜない子供のように激しく首を振る婦人を見ていて、花衣の心の奥底にある鏡の部屋に潜んでいる座敷牢の女がゆらりと、しかし、門番をしていた無愛想な少年を突き飛ばす勢いで、意識の上に浮上してきたのだ。
座敷牢の女は、400年間、売り物とされてきた葛木の女の死霊の塊であったが、今、花衣の意識を犯して、肉体の支配権を奪ったのは、瀬尾の曾祖母がなくした記憶、そのために今も血の匂いでむせそうな生々しい被虐の色に染まった憎悪の塊であった。
「お前は見ていたね? あの冷たい座敷牢で私が殴られ蹴られ、愛しい人の子を流れるまで下のお兄様と谷の男に陵辱のかぎりを尽くされたのを……お前も!」
花衣達を追い詰めるように背後に迫っていた、谷の男達を数員、座敷牢の女は指さした。
「上のお兄様が座敷牢に閉じ込められたあとは、下のお兄様に逆らう者はいなかった……だって、下のお兄様は能力者だったから! 不完全ではあったけど。呪いの力は強かった。そして、私が瀬尾様との子供を宿して、『穢れた女』になってしまったあと、それまでできないと諦めていたことをやった」
指さされ、血走った目で睨めつけられた谷の男達は狼狽する。
そこにいるのは、11歳の大人しい、いつもの少女に見えるだろう。しかし、その体を覆う黒い瘴気は花衣ではないおぞましいものが取り憑いていると分かっているようだ。
「……瀬尾様の子供を流したあと、下のお兄様が私を犯すのを見ていたね、お前」
婦人と、谷の男はぞっとしたように体を震わした。
「押さえつけていたのは、お前とお前と……お前の父親もいたね。畜生にも劣る近親相姦を、谷の純血を守るためにと下のお兄様に言われて、それを信じて。……知らなかったろう、あの人はただ、私を自分の女にしたかった。そういう目で妹である私をを見ていた」
花衣は上目遣いで、じっと谷の人間を一人一人見ていった。その目線には、底のない恨みが宿っていて、谷の人間は石になったように絡みつく視線から逃れられない。
瀬尾と夏木の狼狽が、座敷牢の女の意識に抑えられている花衣には伝わる。
二人は、繰り返される虐待による『多重人格』だと思っていたのだ。
しかし、今目の前にいるのは、もうひとつの人格ではない、怨霊そのものである。
「葛木の人間は、同じ血を求める……それは知っているだろう。400年の歴史でも、兄弟、叔父姪、そして親子、近親婚は繰り返されていた。それは葛木の『純血』を守るためだけでなく、ただ同じ血を持つ人間を求めるように生まれついたから」
「直之さんのひいおばあさんのお腹の子供の父親は」
絡んだような声で夏木が言う。
座敷牢の女は壮絶な笑みで答える。
「下のお兄様の子供さ」
「では、私の祖父は、近親婚の果てに生まれたと」
「そうさ」
「待ってください」
冷静を繕った、しかし、かすかに震える声で瀬尾は言う。
「葛木家では、純血を重んじると聞きました。葛木さん……花衣さんのひいおじいさんが、谷から飛び出したあと、どうしてその弟さんがあとを継がなかったのです? わざわざ、妾の子を当主に据えるなど、反対意見はなったのですか?」
その問いに、当主はあからさまに目をそらし、谷の人間の気まずげに沈黙する。
座敷牢の女が、花衣の口から言葉を発する前に、当主婦人が恍惚としたまま話し出した。
「……次男坊様のお子が、姫様のお腹に宿って、臨月を迎える時、瀬尾様が幾人も男達をつれて、この谷にやってきたのです。嵐の夜でした……この谷に瀬尾様へ情報を流していた者がいたのでしょう。瀬尾様と、近臣の男達は、ただ姫様を救い出すことが目的だったので、女や子供には手を出されなかった。けれど、次男坊様につく男衆、そして次男坊様には、強い復讐心をもっていらしたのです。次男坊様は、むき出しの日本刀に片手に、もう一方で姫様を抱きかかえて、屋敷の奥にある、座敷牢に立てこもりました。姫様は次男坊様の子供妊娠されてから、正気ではいらっしゃらなかったし、瀬尾様を見てもなんの反応も返さない……次男坊様は高く笑われた。その時稲光がございました。その光に目をやられ、影から盗み見ていた私や母は、しばらく何があったか、分かりませんでした。気がつけば、次男坊様の胸に、日本刀が突き刺さり、瀬尾様は姫様をしっかりと抱いていらした」
「お前……なんだって? 下の義理の兄は病死したのではなかったのか? わしはそう聞いて」
当主も、とうとう雪の上にへたり込んだ。
瀬尾は、落ち着いた様子を装っているが、いつもの明朗な瞳に影が揺らめいている。
大切な曾祖父が、まさか殺人を犯していたとは想像もしなかったろう。
だが、この少年の持ち前である強い自制心が、この場で取り乱すことをしなかった。
「ご当主、あなたには妹さんがいらっしゃいましたよね? この谷から逃げ出した」
「そのことは今は関係ない」
「でも、ご存知でしょう? その妹さんが産んだ娘さんが恋人との間に作った子供が、花衣さんのおかあさんだってことは」
当主はびくりと体をすくめる。瀬尾はカエルを見つめる蛇のような目で、当主を見据えた。
「葛木の濃い血が欲しいなら、その時瀬尾家に連れ出された姫から生まれた子供を取り戻すほうがよかったのでは? その子をあなたの養子にしてしまったほうが、この谷でのあなたの立場は盤石になったと思います」
だらだらと当主は汗を流す。
「葛木さん」
瀬尾が花衣を振り向く。
そのあたたかい目差しに呼ばれるように、座敷牢の女に支配されていた肉体を取り戻す。
「おじさま」
花衣はずっと聞きたかったことを、当主に尋ねた。
「なぜ、私だったんですか? おじさまにも、谷の人にも、子供がいるんですよね? そうお話されていたこと、覚えています。なのに、ひいおじいさんの血も引いてない私を、大金を払ってまで葛木家の跡取りにしたかったのは、なぜです? そのせいで私は……」
実の祖母や叔父からも疎まれる存在になってしまった。
当主は花衣の目線から逃れるように、下を向く。
「姑のの言いつけです」
花衣と瀬尾の姿に、思い出したくもなかった過去を引きずり出されたせいか、常軌を逸し
、この世から外れた場所にいってしまったような婦人が言った。
「若様が谷から出奔され、姫様は瀬尾家の庇護下にあり、次男坊様が亡くなったあと、当主さまの血を引くのは、谷の外に作った妾腹の子供しかいなかったのです。妾ごと子供を引き取って一時、葛木の家を預けたのです。当主様はいずれ若様か、姫様の血筋を取り戻そうとなさっていったのですが、当主様が亡くなってしまい、…………」
婦人は、現当主の顔をまじまじと見た。
そこには、長年連れそってっきた夫婦とは思えないよそよそしさと、また、葛木の嫡男ではない者への侮蔑の色がある。
「姑は、この人に、妹の行方を捜すように命じました。ええ、谷と実の兄を嫌って飛び出した娘になんの用があったのか……そして、見つけました。まさか、若様の娘の婿の隠し子がその末とは思いもしませんでした。その子を引き取ってもよかったのですが、20歳を過ぎて知恵のつきすぎたその子供はよくないと姑が申しまして。その子供には生まれたばかりの女の子がいたので、その子なら葛木のしきたりなど、よくよく覚えさせられるだろうと……」
婦人がぶつぶつと話し続けているのを、花衣はもう聞くのをやめた。
現当主の母親、谷の生まれではないその女が、花衣を選び、跡取りににと望んだのだ。
「その人は、まだあの蔵にいるのね」
花衣はそびえ立つ、白壁を見上げて言う。
「おじさまのおかあさまなら、もう100歳を越えていらっしゃるのかしら?」
「寝たきりを閉じ込めて、多分床ずれだらけになっているんでしょうね」
夏木が痛ましそうに言う。
「会わせなさい」
花衣は、今まで谷の者にどれほど可愛がられても、慢心した態度を取らなかったのが、今日という日に、まるで本物の姫君のように堂々と当主に命じる。
「その人が、私を探して、選んだんでしょう。私は、その人に会う権利があるわ」
「しかし、母はここ10年、ぼけてしまってまともに受け答えも……」
「大丈夫、今は『帰ったから』」
「は……?」
鏡の部屋に住んでいた、染みのように暗く、シワだらけの老人の姿は、ない。
あの不気味な老人こそ、現当主の母であると、花衣は確信していた。