暗い森の少女 第五章 ⑤ 白銀の迷路に籠れし想い
白銀の迷路に籠れし想い
「花衣さん! どうなさったんです!?」
いつも村まで迎えにくる男は、行く手を遮るように立ち塞がる。
見慣れた背広姿ではない男に、花衣は冷たく言う。
「本家に行くのよ。私は葛木家の跡取りでしょう? なぜ嫌がるの」
「それは……それに、そちらの方々は?」
花衣の後ろにいる、瀬尾と夏木をうろんそうに見る。
瀬尾の祖父に葛木家との交渉役になってもらおうとしたが、瀬尾と夏木に強く反対されてしまったのだ。
「花衣さんのことを知ったら、旦那さまはきっと……」
「間違いなく、葛木さんを瀬尾家に閉じ込めるよ」
『瀬尾家の正当な跡取り』である、夏木の子供と結婚させるためにだ。
「わかった。だったら、私を葛木本家まで連れて行って」
「花衣さん、兄が来るまで待ちませんか?」
「おとうさんが来るまでに、知っておきたいことがあるの」
「でも……」
「僕も行くよ」
夏木の困惑した声にかぶせて、瀬尾は言い切った。
「葛木さんを一人で、葛木本家に行かすわけにはいかないよ。……ひいおじいさんからも、本当に頼まれたんだから、僕は」
白い頬を引き締めた瀬尾は、いつもの優等生の明るさでも、疲れた老人のような表情でもない、少年らしい正義感をこめた目で見つめてくる。
「お願い」
夜が明ける前に、3人は葛木一族の住む谷へ向かった。
車で2時間近く夜道を走り、日が昇る頃には谷が隠された山にはいった。
くねる道が延々と続き、道ばたにはもう雪が積もっていた。
薄汚れた雪を見て、まるで今までの自分のようだと思う。
いらないものだと邪険にされ、都合よく引きずり回され、一方的に汚される。
(葛木の女だから)
座敷牢の女が、心の奥底にある鏡の部屋で囁いてきたが、無愛想な少年が女を意識の上にあげないように、入り口をふさいでいる。
兄の魂だと、『花衣』は言った。
そして、葛木に稀に現れる能力者とも言う。
女が受け継ぎ、男にだけ発現するその力のことは、瀬尾も夏木も知らなかったが、夏木が理知的な顔を不安そうに歪めた。
「私の息子が、たまに予知夢を見るんです。……そのせいで、事故にあっても助かることも多かったんです。あと、花衣さんの下の叔父さんも、子供の頃は癇が強かったそうですが、不思議と喧嘩した子供が大きな怪我をしたり行方知れずになったりしたそうです。狐が憑いているという噂もあったようです」
「おじさんには、もうそんな力はなさそうだけど」
「もしかしてなんだけど。葛木家の能力は、『少年』にしか現れないんじゃないかな?」
「え」
「葛木さんの話を聞いていても、葛木本家の人たちにはそんな力を持っていそうな人はいないじゃない?」
確かにそうだ。
葛木現当主を含めて、男はいるが、そんな異能を持つとは思えない。
「谷には、子供がいないの」
「言っていたね」
「それには意味があるように思えるのよ」
愛子の、溶けた眼球の奥から何万もの小さな『愛子』が這い出してきた光景を思い出す。
(体を返せ)
幾万もの声が重なった呪詛は、『生き残った葛木の子供』である花衣に向けられていた。
その意味を知るためには、いつもの取り繕った本家ではない、普段の、そしてそこに隠されているものを見なくてはいけない。
「花衣さん、当主さまの準備ができるまでお待ちください」
「中学になったら、私はここで暮らすんでしょう? それなら、ふだんのおじさまたちの様子も知っておきたいわ」
家々の屋根には雪が厚く積もっている。
春になれば爛漫な花を咲かせる桜の枝も、凍って震えているようである。
男を無視して歩く花衣の足は、新雪を踏みにじる。
本家へと向かう道で言い争う物音を聞いて、綿入れを着込んだ谷の人たちが顔を出してきた。
「花衣さまだ」
「どうしたんだ? お呼びした訳でもないだろう?」
いつも和やかな表情を見せていた谷に住む一族の目は、つり上がり禍々しいものでも見るように険しい。
「葛木さん」
瀬尾が人々の悪意から守るように前に出た。
「私は、本家に行きたいだけよ」
同じ身長の瀬尾の背中を見ると、怖じけそうになった決心に新たな火がついた。
「私は、葛木家の跡取りなんでしょう? なにを止めるの」
いつも大人しやかな花衣のいつにない張り詰めた顔と声に、引き止めていた男も、遠巻きに見ている一族の者達も、飲まれたように一歩退く。
花衣達3人は、舞台の花道を渡るように雪道をまっすぐに歩いた。
本家の門の前にはすでに伝達があったようで、当主が立っている。
やはりいつもの上等な背広ではなく、セーターに綿入れを着込んでいる当主は、一気に老けたようにも見えた。
「おじさま、おはようございます」
「花衣ちゃん、どうしたんだい? こんなことは君らしくないよ。それに、後ろの人達は?」
「よく知っている方のご家族よ。こちらは瀬尾さん、私の同級生。こちらは夏木さん。私の住む村で『瀬尾家』と言ったら、おわかりでしょう?」
「瀬尾のお孫さん……? 夏木さんって言ったら」
当主は目を見開いた。
瀬尾の曾祖父は、谷から攫った妻の自由のために先祖代々の土地を売って葛木家に金を払ったと言う。
しかし、その金だけでは、今日まで食いつなぐことは出来ないだろう。
子供がいない谷には『売り物になる娘』もいなかったのだ。
母を愛し、葛木家を神聖視しているだろう瀬尾の祖父が、援助をしてきたのだ。家業を傾けるほどに。
車中で話した花衣に、夏木は予想していたように頷いた。瀬尾は少しだけ驚き、その後皮肉に笑う。
「おじいさんなら、やりそうだね」
そう、曾祖父が守り切った曾祖母の自由も、夏木の出生の秘密も、とうに谷の者は知っていたのだ。
(昔、私のお婿さんに瀬尾くんをって言われたけど、あれは多分、夏木さんの子供のことだったのだろう)
『葛木の女』は金になるが、その純血は薄まりつつあった。
瀬尾の曾祖母が谷の男との間に産んだ子の末裔である夏木の子と花衣を妻合わせ、血統の正しさを取り戻したかったのだろう。
「夏木さんを谷に呼び戻さないのは、瀬尾くんのおじいさんの怒りに触れないようにだったんでしょう? おじさま」
「花衣ちゃん」
当主は冬のさなかだというのに、額に汗をかいていた。
この娘はなんなんだという、疑惑と恐れの色が目に浮かんでいる。
人形のように、言われるままの子供ではなかったかの?
花衣は、確かにそういう子供だった。
いつも異物として扱われ、無慈悲な運命に弄ばれ、大人達の欲を満たす存在でしかない。
しかし、自分を守って死んでいった母、その母を今も愛し探し続けた父との間に生まれた子供だという自信が、惨めで悲しい存在であった花衣の何かを目覚めさせたのだ。
鏡の部屋では、座敷牢の女が絶叫を上げている。
(やめろ)
(助けて)
(お前だけ助かるのか)
(逃げるのよ)
(葛木の女は誰一人許さない)
(自由になりたい!)
400年の間、『葛木の女』は虐げられ続けてきたのだ。
その魂が集まり、座敷牢の女という怨霊が生まれたと『花衣』は話した。
見た目は瀬尾の曾祖母が監禁されていた頃の無残な姿を模しているのだろう。
曾祖母が『無くしてしまったおぞましい記憶』すら飲み込み、ぬらぬらと妄執は膨らんでいった。
憎しみ、悲しみ、希望が混ざり合った不思議な存在が、なぜ花衣の中に宿ったのか、それも突き止めなければいけない。
「あ……」
急に突風が吹く。
屋敷の奥から門をすり抜けるように、風は渦を巻いた。
「この家には、病人がいますか?」
夏木の凜とした声に、当主は青ざめる。
「腐肉の匂いがする……もう、助からない命の人が、この家にはいますね?」
花衣と瀬尾は、夏木の視線を追った。
そこには、白い壁でまわりを拒絶しているような、大きな蔵がある。
(ひいおじいさんが、閉じ込められた蔵)
花衣の目の前に、ちらちらと氷の結晶が舞い始めた。
淡雪は地上に届くと、儚く消えていく。
あの蔵に、すべての謎を解く鍵があるのだ。
花衣の体は細かく震えたが、それは怯えや恐れのせいではなかった。