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暗い森の少女 第四章 ④ 闇に呼応する呪詛

闇に呼応する呪詛


村の男が鐘を鳴らす。
ひび割れた低い音は葬式の終わりを告げていた。
上の叔父の遺体が治まった棺桶は霊柩車に飲み込まれていく。
もはや乱れた喪服を直すこともしない祖母は、下の叔父と親戚に支えられてマイクロバスに乗せられた。
もう泣き疲れたのか、焦点の合わない目をさまよわせた祖母は、「息子を亡くした哀れな母」という役割を演じている役者のようである。
普段は祖母やその家族のことを軽んじている村人もその姿に沈痛な面持ちを作っていた。
マイクロバスに乗ろうとした花衣は、その村人の中から夏木を見つける。
傘を差しているが雨に前髪が濡れている様子は、水から現れた精霊のような神秘的で読み取りづらい表情を浮かべていた。
(おかあさんにそっくりだ)
谷からやってきた男の台詞を思い出す。
花衣は村のひとの顔が識別できないので、家族の顔もまたよく見えない。
目の色や笑っている口元などはわかるが、霧に隠されたように全体像は分からないのだ。
(私のおかあさんに似ているの?)
聞き返した花衣に、男ははっとして、バツが悪そうに咳払いをした。
(いえいえ、花衣さんのおかあさんと同じ年くらいの女性で喪服姿だったので、似ているように感じたんでしょう。私も年のせいか目が悪くなって)
はぐらかした男を問いただしたかったが、ちょうど夏木が親戚を伴って戻ってきたので話は宙ぶらりんのままなし崩し的に終わったのだ。
そして今更、この葬儀の異常さに気がついた。
母がいない。
いくら普段、家に寄りつかなくても、すでに葛木の姓を名乗っているとしても、弟の葬儀に姉である母が参列しないことがあるのか?
そして、上の叔父の死に我を失っている祖母はともかく、下の叔父も親戚、村のひとも、母の不在を疑問に思っていないらしいことにもやっと思い至った。
(おかあさん)
その面影を追うことすらできない重苦しい空気の中、火葬場についた上の叔父の体は白く脆い砂のかけらになるで燃やされたのだ。
骨拾いが終わり夜も更けた頃、下の叔父の幼なじみが集まって、改めて酒宴が始まった。
村の女はみな帰ったが、夏木だけは残ってくれて、酒やつまみの補充にこまめに動いてくれる。
「今日は大丈夫と思うけれど、お酒を飲んだおじさんがいる家の花衣さんを残しては帰れないわ」
祖母は葬儀の時に村の女が総出で作った精進料理にも、夏木が作ってくれたおかゆにも手をつけず、上の叔父の遺骨を抱いて部屋にこもってしまっていた。
「花衣さん、もう少しなにか食べる?」
「ううん」
夏木が花衣のために作ってくれた干しぶどう入りのパンプディングを食べてお腹は満たされている。
柔らかい舌触り、甘い香りに混ざる洋酒の苦みが心を落ち着かした。
「……愛子ちゃんのことだけど」
食器を片付けていた花衣はびくりと震える。
「この雨が止んだら山狩りをしようかと話が出ているみたいだわ」
その言葉は思いがけないことだった。
下の叔父は葬儀の準備に追われているし、都会から来た親戚もなにも言い出さない、祖母ともまともに話せないでいたので、徐々に花衣は「愛子」のいう幼女がこの家に暮らしていていたことさえ自分の妄想なのだと思い始めていたのだ。
花衣の表情を見て、夏木は悲しそうに眉をひそめた。
「もしかしたら、亡くなったおじさんの車から愛子ちゃんが飛び出してしまって、それが見つかっていないだけかとも思ったんだけど、どうもそういうことはないようなの」
夏木は花衣から食器を受け取り洗い始める。
「おばあさんが用事があって出かけられた日、愛子ちゃんのことは花衣さんに任せて出かけたっておばあさんは仰っているの」
「え」
花衣は驚いた。
そんなはずはない。花衣がこの家に帰ったときにはすでに祖母の姿はなく、愛子は上の叔父と一緒にいたのだ。
言葉を失った花衣を、夏木は洗い物の手を止めてまっすぐに見つめてきた。
「分かっているわ。花衣さんがこの家に帰ったのは17時過ぎだったはず。直之さんも同じ頃帰ってきたもの」
「私」
「落ち着いてね。その日はたまたま瀬尾の奥さんが夜まで出かけてらして、花衣さんは瀬尾の家に17時までいたことになっているの……直之さんも承知しているわ。そして、その日の16時、おばあさんをバス停で見かけたひとがいるのよ」
祖母は綺麗な余所行きを来て薄化粧をしていた。
スカートをはいているだけで「商売女」と吐き捨てられるこの村では目立ったことだろう。
「そしてその日、亡くなったおじさんは仕事を早退しているのね、母親の具合が悪いって」そうだ。叔父は花衣が帰ったときにはもう自宅にいたが、17時に仕事が終わる叔父がいたこと自体がおかしいのだ。
夏木はため息をついた。
「おばあさんに、なんの用事だったか誰と会っていたのか聞いても要領が得なくて。今は亡くなったおじさんのことで混乱してらっしゃるでしょうからあまり強くは聞き出せないけれど、愛子ちゃんのことを聞いたときだけ、花衣さんに預けたと仰ったのよ」
「違う」
「分かっているわ、少なくとも花衣さんは17時過ぎまではこの家に帰ってなかったことは直之さんが証明してくれる。そして、16時におばあさんがこの村を出たのなら、その1時間誰が愛子ちゃんの世話をしていたのかという謎ができるわね? まさか、愛子ちゃんは1時間大人しく留守番ができる子供だった?」
「ううん」
この頃の愛子は、自由に動ける体が嬉しいのか家中を走り回り、棚という棚を開けては荷物を散らかし、ひとときも目を離すことができなかったのだ。
「そうよね……。そうなるとおばあさんの具合が悪くて早退した亡くなったおじさんが愛子ちゃんの面倒をみていたと思うのが自然なのだけど、なぜおばあさんは、そのことを隠しているのか」
夏木は言葉を切った。
雨はまた強まって、台所の窓を激しく叩いている。
花衣は雨の真下に立っているような痛みと寒気を感じた。
愛子の存在は、花衣の妄想ではない。
祖母の愛情は自分の息子たちにだけ向けられて、花衣も、そして可愛がられていると嫉妬した愛子ですら、思惑があり養育しているだけだった。
上の叔父は、幼女によこしまな欲望を抱いている。
しかしどれも花衣の憶測にしか過ぎない。
だが、花衣がのぞき穴から見た光景。あの時叔父はおぞましい手で愛子の体をなで回していた……
「花衣さん、顔色がよくないわ」
夏木が心配げに言う。
あの場面を見たことを夏木に告白すると、その後の花衣の妄想なのか現実なのか分からない「愛子殺害」も話すしかない。
自分が愛子の柔らかい首に指を食い込ませ、水の中に押し込んだ生々しい感覚、水に溶けるように広がった髪の毛、ゆらりゆらりと動くスカート。
夏木は思った以上に花衣のことを知っている。その上で花衣の味方でいてくれているのは理解ししていたが、全てを話す勇気が花衣にはなかった。
「無理して話さなくていいの」
小さく夏木は囁いた。
「この家にはひともたくさんいるしね……。雨が止む前に、一度直之さんの家の遊びにいらっしゃい。直之さんのおかあさんがまた実家に帰られるのよ」
12月、クリスマスや正月もあるというのに、瀬尾家を預かる主婦である母親が不在になるということに驚いてしまう。
愛子がいなくなったあの日、瀬尾から聞いた話を考えると、母親もこの村にはなじめないでいるのかも知れなかった。
「さあ、牛乳を温めてあげる。飲んだら寝なさい」
夏木は花衣の頭を撫でた。まるで絵本で読んだ母親のようだとうっとりしたてしまう自分を情けなく感じてしまったのだ。

「おい」
聞き慣れた粗暴な声が花衣を呼び止める。
振り返ると学生服の上に赤いジャンパーをだらしなく身につけた大柄な男子が立っていた。
上の叔父が亡くなってからしばらく学校を休んでいたが、下の叔父や親戚が家から去ると、亡くなった叔父の遺骨を抱き泣き暮らす祖母との生活が息苦しく、花衣は通学を再開した。
普段からいてもいなくてもいい存在の花衣のことを気にかける生徒はいなかったが、瀬尾だけが優しさ溢れた目で見てくれたのが救いだ。
瀬尾の母親が帰省する土曜日の午後、花衣は家にいたくなくて傘をさしてぼんやりと川沿いを歩いていた。
数日続く雨に、いつもはちょろちょろとした流れの川が濁流となっている。
折れた木や草を巻き込みながらうねる茶色い水を、花衣は自分を取り囲む運命そのもののようだと感じる。
木や草はただそこにあっただけなのに、罪もなく突然手折られて汚辱に散られていく。
(森に行こうか)
12月の長雨ですっかり森の地面はぬかるみ、落ち葉からは湿った腐臭がするだろう。
いつも鈍い緑色を放っていたため池は色を変えているだろうか?
その水底に、愛子は沈んでいるのかもしれない。
ふらふらと方向を変えた花衣を、乱暴に止めた声の主は不機嫌に続けた。
「どこに行く気だよ、ずっと雨なんだぜ? ちょっと山に入ったらすべってこけるだけじゃすまないぜ?」
イライラとした口調に花衣は萎縮してしまう。
森に行くには山の方向に歩いて行かないといけない。だれも村の境界線の「踏み入れたら呪われる」という噂のある森に、大雨の中、女の子が行くとは思わないのだろう。
「どうせあのガキを探しにいくつもりなんだろ?」
男子は言葉を吐き出す。
苛立ちと、かすかな恐れがその声に含まれているのを不思議に感じる。
「お前があのガキを探しに山に行かなくても、雨がやめば男衆が山狩りをするさ。……見つかるかはわかんないけど」
乾いた笑い声を聞こえたが、本心から笑っているようではなかった。
「お前」
いきなり手を掴んで自分の傘の中に花衣を引き入れる。花衣が持っていた傘は道に転がり、風に揺れながら泥にまみれていく。
(あれはおかあさんが買ってくれた傘)
深紅の傘をぼんやり見ている花衣に、男子は焦燥感をあらわに怒鳴った。
「俺を見ろよ!」
大きな声に花衣は肩をすくめてしまう。
雨の中、野良仕事をするひともいない季節とはいえ、人目のあるところで妙なことはしないと思ったが、余裕のない男子の様子に怯えが走る。
男子の黒い大きな傘の中で、花衣は唇を塞がれた。
生温いものが口中に入ってきて、思わず強く噛んだ。
血の味が広がり、男子は花衣から離れる。
口元をぬぐいながら、悔しそうに言った。
「お前、俺のことが見えているのかよ」
「……」
「お前が納屋に連れ込んでいるのが俺だけじゃないのは知ってた。でも」
花衣の防衛本能が悲鳴をあげる。
男子は花衣を引きずるように歩いて行く。誰かに見られるかもしれない、何をされるか分からない、いや分かっている。
(座敷牢の女)
花衣は心の底にある鏡の部屋にいる女を呼んだ。
長い髪を背に流し、淫蕩な笑みを浮かべる女の姿を探したが、女の体はシワだらけの老人の手で戒められ花衣の意識にあがることはできない。
老人の細い枯れ枝のような腕にどんな力が眠っているのか、女は花衣を見据えながら痛みにのたうっていた。
馴染んだ藁の匂いがする。荒々しささくれだった板の壁に押しつけられた花衣は恐怖で震えるしかできない。
今までなにをされても意識を座敷牢の女が支配し、花衣自身は鏡の部屋で縮こまっていればよかった。どんな痛みや屈辱も、遠い記憶のようにしか思い出すことができなかったのに、今日は逃げ場がない。
男子は、腕の力や手の荒々しさとは裏腹に、まるで泣いているような声で花衣の耳元で叫んだ。
「じいさんが、お前を本家にやってしまえって言うから!」
誰のことだろう。
「お前を本家に送り込んで、お前がやって来たことをネタに脅してやろうって言っていたんだ。お前がいくつの時から男を誘っていたかって」
ぞくりと強い悪寒が走る。
誰にも知られてはいけない秘密を村のひとに知られている。
「怖いのか?」
男子は花衣をのぞき込んでいるようだ。
「大丈夫だ、俺がそんなことをさせない」
熱をもった腕を抱きすくめられる。花衣は抵抗することもできない。
「これをじいさんに教えたのは、おまえのばあさんだ。あいつら、最初からお前を食い物にするつもりだったんだ。お前がずっと男にやられていることをネタに、いつか本家を継いだお前を脅迫するって」
「いや……」
思いがけずもれた声は震えている。
知らない。いや分かっていた。いや、知りたくない。
(私が今まで何をされていたのか知っていて黙っていたのか……!)
祖母に対する無条件の思慕はいつしか潰えていた。しかし、この事実はあまりに衝撃的だった。
花衣の目から涙がこぼれた。自分では制御することができない感情が花衣を包み込み、ただ泣くしかできなかったのだ。
「あのガキを連れてきたのも、お前が「使えなくなった」時の保険だったんだよ。あいつも、お前の本家筋の血を引いてるんだ」
「え……」
『あのガキ』は愛子なのだろうか。
しかし、愛子は村の誰かの親戚筋の子供ではないのか。
(女には使い道がある)
花衣の奥底から低い呪いの声がする。
それは、今まで話したこともない、シワに埋もれた口をもつ老人が声であった。
(手入らずじゃないなら、いい加減男を狂わす手管を覚えてもらわんとね)
怖い。
座敷牢の女にも感じたことのない恐怖と嫌悪感が頭の芯まで貫いた。
老人が自分にも手を伸ばしてきそうで、花衣は暴れた。しかし、老人に手も足も当たることはなく、目の前の男子をいたずらに殴り蹴っていたのだ。
「俺を嫌いにならないでくれよ」
男子の声は切実だった。
「そんなに瀬尾のことが好きなのかよ」
瀬尾の名前を出された花衣の体は硬直する。
「そうかよ、そうなのかよ」
男子は絶望がにじんだ声で笑った。その笑い声には狂気も含んでいるようだ。
「お前、俺の名前がわかるか?」
不意の質問に花衣は目を見開く。
目の前にあるのは、白い仮面のようなものをかぶった顔だ。
「そうだよな、俺のことなんて他の男と一緒だよな。……瀬尾以外は、どうだっていいんだよな!」
男子は激昂したように花衣の肩を強く揺さぶった。視界がぼやけ、痛みしか感じない。
「俺の名前は三好だよ! 三好隆介だ! 俺の名前を呼べよ!!」
そのまま男子は花衣の体に覆い被さってきた。
むなしくあがき抗う花衣に、男子は言う。
「お前のために、お前にために、俺は殺したんだ……あのガキを」
「え」
疑問の形に薄く開いた唇を再び塞がれる。
陵辱の時間は始まったばかりだった。

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