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暗い森の少女 第三章 ⑤ 襖の影

襖の影


秋の冷たい雨が赤い傘をつたい花衣の肩を濡らした。
10月ももう終わる。
稲刈りもすみ、田には藁でできた家に見えるわらぐろがならんでいた。
牧歌的に見えるはずの景色も、まだ昼過ぎなのに暗い雲と雨のせいで、陰鬱として見える。
いや、それだけではなく、花衣は自己嫌悪で、雨の下で一緒に泣き出してしまいたかったのだ。
学校で給食の時間、食べ終わるのが一番最後になる。家での食事は叔父たちが飲酒する時間でもあり、花衣には緊張と怯えが混じった複雑な気持ちがある。食事自体が苦手になってしまった。
他の生徒は校庭や体育館に飛び出していってしまう中、瀬尾は何気ないように本を机に広げて残っていてくれる。
担任の先生も出て行った後、ようやく食べ終えた花衣は立ち上がって食器を片づけていた。
「葛木さん」
背後で、瀬尾が戸惑ったように声をかけてくる。
振り向くと、夏の日焼けが嘘のように真っ白い肌を取り戻した頬を、うっすら染めている。
「あの」
言いにくそうに瀬尾は指摘した。
「……スカートが汚れているよ」
最初、何を言われているか分からなかったが、意味に気がついて花衣は思わずしゃがみ込んだ。
夏に初潮を迎えていたが、視聴覚室で教わった話と違って毎月必ず30日の間隔をあけて来るわけでもない生理に、花衣は振り回されていた。
今月はまだだと思っていたのに生理が始まり、薄いクリーム色のワンピースにシミを作ってしまっているのだろう。
それを瀬尾に見られたことがたまらなく恥ずかしい。
だが、花衣の姿にかえって瀬尾は落ち着きを取り戻したようだ。
「大丈夫だよ、ほんの少しの汚れだから。今ならみんな校庭だし、保健室に行こう?」
優しい声をかけてくれるのに、とても顔を見ることもできない。
しかし、ここですくんでいても状態はよくなることはないのだ。
瀬尾はさりげなく花衣の後ろに回り、花衣の腰元が人目につくことがないように歩いてくれた。
保健室の前で黙って見つめ合い、瀬尾は安心させるように頷いて、そのまま校庭へと向かって行く。
そろそろと保健室のドアを開けると、若い養護教諭がなにか書類を書いていた。
「葛木さん、どうしたの?」
他の生徒は擦り傷などの小さな怪我でよく保健室を利用しているようだったが、大人しい花衣は多少の怪我や頭痛は我慢してしまうので保健室に来るのは健康診断の時くらいだ。
人なつっこい笑顔で教諭は花衣を招く。
椅子に座ることができない花衣をしばらく不思議そうに見ていたが、やがて気がついたのか、あっと小さく声をあげた。
「ああ、もしかして……生理かな?」
「……はい」
小さく答える花衣に、教諭はすぐに棚から生理用品を取り出す。
「使い方、わかるかな?」
「視聴覚室でならったから……」
「初めての生理なのね、体は辛くない?」
はじめてではない。
しかし、確かに生理用品を使うのははじめてだったのだ。
「スカートがちょっと汚れてるね、着替えある?」
「ないです」
今日は体育がなかったので、体操服も持ってきていない。
「そこまで目立つシミじゃないけど、色が薄いスカートだから、近くだと分かっちゃうかもしれないな」
貸し出し用の下着と、着替えの代わりのバスタオルを渡されて、ベッドのカーテンの影で花衣は服を脱ぎ、ワンピースを教諭に渡す。
下着には、べっとりとした粘膜が血にまみれて張り付いている。
内臓がはみ出したようだ。
タオルにくるまりベッドに腰をかけていると、教諭が声をかけてくる。
「シミはだいたい落ちたわ」
カーテンを開け、教諭は花衣の額に手を当てた。
その行為はたんに熱があるか確認しているだけなのだと知っているが、密かに花衣を不快にさせる。
大人というのはどうして許可もなく体に触ってくるのか。
「少し熱っぽいな。お腹は痛くない?」
花衣の気持ちに気づくはずもなく、教諭は花衣に聞いてくる。
「少しぼーっとします。お腹は、痛くないです」
「そうか。どうしようかな」
教諭は唇を尖らせてなにか考えているようだ。
ワンピースに着替え終わると、教諭は断定的に言った。
「今日は早退しようね」
「え」
「はじめての生理で葛木さんもびっくりしちゃっただろうし、熱もあるしね。生理の時にお腹が痛くなるだけじゃなくて、熱が出たりぼーっとしたりすることも多いから、今日はおうちでゆっくりする方がいいと思う」
確かに妙に頭が痛いしぼんやりしている。
「大人になったんだね、おめでとう」
教諭が担任に話を通してきてくれる間、花衣は誰もいない教室でそそくさと帰る用意をした。
窓から見える雲は落ちてきそうに低く、重く今にも雨が降り出しそうだ。
校庭からは盛んに男子の声が聞こえていたが、花衣が教室を出た頃に、とうとう雨粒は落ちだした。
生理のためなのか、雨のためなのか、花衣の足取りは重い。
花衣は、家族の誰にも自分が初潮を迎えたことを告げていなかった。
これまでも生理のときはちり紙を厚く重ねてしのいでいたのだ。
自分の体が「大人」になったことを知られるのは怖い。
羞恥心と嫌悪感が混じり合った複雑な感情とこれまで犯してきた罪が花衣の下腹に貯まり、それがとうとう決壊してあふれ出しているようだ。
めでたいことなど何もない。
ゆるゆると歩いていたが、とうとう自宅についてしまった。
この時間は、愛子は昼寝の時間だろうか。
この頃は言葉もはっきりとしてきて、とうとう寮を出て家に戻ってきた上の叔父が、読んで聞かせる絵本の台詞をまねて喋っている。
背も伸びふっくらとしてきた姿は、数ヶ月前の痩せて壊れた人形のようだったら愛子からは想像もできない。
花衣が帰宅するとまとわりついて離れないので、昼寝してくれていることを祈って花衣はそっと勝手口から家に入る。
いつもは普通に玄関から入るのだが、玄関から一番近い部屋が祖母と愛子の寝室で、帰宅した気配をなるべく消したかったのだ。
足音を立てないように家の中に入る。台所には誰もいない。
来客用の茶葉が入っている茶筒が出ていた。
誰か来ていたのだろうか。
しんと静まりかえった家には、人の気配がない。
花衣は自分の部屋でシミ抜きをしてもらったワンピースを脱いで、黒いトレーナーとスカートに着替える。
ワンピースは普通に洗濯物に出せばいいが、汚れが染みついた下着をどうしようと思った。
洗っても血の跡が消えないかも知れない。捨ててしまった方がいいのか。
一度手洗いしてみようと洗面所に向かった時、愛子が寝ているはずの部屋の隣の客室で低い声が聞こえて花衣はびくりと立ち止まった。
祖母の部屋には仏壇がある6畳間だったが、その隣は花衣の部屋と同じ4畳半の和室で、祖父が生きていたときは書斎のように使っていた部屋だ。
祖父が亡くなった後は物置になっていたのを最近片付けて客間にしたが、机があるだけの殺風景な空間である。
葛木本家の人間はこの家には来ることはないし、村の人間が訪れるわけでもないのに、客間が必要なのだろうと思っていたが、本当に来客があったようだ。
ぼそぼそ低い声で話しているのは、多分隣で昼寝をしている愛子を起こさないための配慮だろう。
よく見ると襖が細く開いている。
なんとなく花衣はその隙間に顔をよせた。
祖母の背中が見える。相変わらず白い割烹着を上からかぶっているが、下はよそゆきの着物だ。
ちいさなテーブルの向こう側にいるのは誰だろう?
村人の顔は霞がかかったようなのっぺらぼうに見える花衣には分別がつかないが、年配の男ということはわかった。
祖母は小さく笑い声を立てているようだ。
ぞくりとした。
笑っている祖母の姿など珍しいものではないはずなのに、声音に微妙な違和感を感じたのだ。
「お前んとこもえらいのはわかっているが」
ちびた煙草を吸いながら男はしわがれた声で言う。
「わしのほうもな……相手があんながんこだと思わんかった」
「ですよねぇ。先代が生きていたら早かったんだと思うんですが」
「頭がかてーは、あれは」
祖母はまた忍び笑う。
「私のほうから言うのも変な話かと思っているんですよ。このことはあっちは知らないんですから」
なんの話だろうか?
花衣は頭をひねったが、急にひらめいた。
もしかしたら瀬尾の言っていた「愛子の養育費が滞っているかもか」という件に関係することでなないだろうか。
瀬尾はその話を持ち出したものの確信が持てなかったようで、深くは教えてくれなかったのだ。
愛子はなぜわが家に引き取られたのか?
花衣が思わず身を乗り出したとき、祖母が立ち上がった。
部屋から出てくるのかと驚いたが、祖母は男の隣に座り直しただけだ。
机を見ると、茶飲みや茶菓子の用意もあったが、とっくりも置いてあり、祖母は男に酌をする。
「最近は娘もすっかりしぶくて……息子も帰ってきたけれど、家にお金をいれようなんて思いつきもしないんですよ」
「あんたの子にしちゃみんな愛想がないな。親父似だ」
「そうですねぇ」
ふと、男が祖母の肩を抱いていることに気がついた。
なにが起こっているのか理解するまで時間がかかる。
老いた男のしわの深いしみだらけの手が、祖母の着物の襟の中に忍び込む。
(あの手は)
3歳の時、使われていない納屋に連れ込んでふしだらな行為をした老人の手に似ている。
この村の老人はみんなあのような手を持っているので、同一人物かはわからない。
反対の手が祖父の着物の裾を開いた。
異常に白く見える脛を見た瞬間、花衣は家を飛び出した。

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