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暗い森の少女 第二章 ⑨ 絆の誓い

絆の誓い


黎明はまだだ。
冷たい腐臭のする水の中で花衣は溺れた。
助けを呼ぶこともできないまま、花衣は暗い水の底に沈んでいった。
見上げる水面には、鏡の中の4人が花衣を見下ろしている。
肉体を共有する存在の座敷牢の女、10代の無愛想な少年、3歳くらいの幼い女の子、そして、しわくちゃで目も鼻も口も分別できないような老人。
いつも感じる恐怖感はなかった。
このまま自分は死んで消えてしまえばいい。
自分が望んだことではないとは言え、何度、男たちの醜い欲望の対象になってきただろう。
今までもうっすらとした記憶はあったが、まざまざと幼児の頃から繰り返された行為を思い出した花衣は、自分の体がひどく汚く厭わしいものに思えた。
『ふしだらな娘』なのだ。
どこかに男たちを誘うよこしまさが、花衣の中にはあるのだ。
叔父たちはきっとそれに気がついていたのだろう。花衣への暴言や暴力は、花衣を『ふしだらな娘』にしないための行為だったに違いない。
祖母の疑惑は本当だった。花衣は淫らなことをしていた。誰にも話すことのできない『普通の子供』はしないことを。
(あの母の子供だから)
未婚のまま花衣を産んだ母は「ふしだらな女」なのだから。
血筋だ。
淫蕩な血が流れているのだ、この体には。
座敷牢の女は、光がまったく届くことのない水底に花衣が沈んでしまうのを今か今かと待ちわびているように、狂おしい目で見下ろしている。
3歳くらいの女の子は、嬉しそうに顔を輝かせている。
(早く死んじゃえばいいのに)
そんな声が聞こえてきそうだ。
老人はしわにまみれた顔をぴくりとも動かさない。
心の中に住む4人すら、花衣を不要だと思っているのだ。
どんどん、その顔も遠くなる。
二度と水面に上がることができない深い水の底に辿り着く寸前、今まで無表情に花衣を見ていた少年がいきなり手を差し伸べたのだ。
波紋が広がり、花衣の現在見ているもの、過去の記憶が混ざり合って、万華鏡のように形を変えていった。

気がつくと、そこは森の中だった。
高い木々に囲まれて、今が昼なのか夜なのか分からない。
ここ数日雨は降っていなかったが、光の届かないここは乾く間もなかったのだろう、湿った土の匂いがする。
鳥も虫もいない。かたわらにあるだろうため池には魚もいない。
静寂が場を満たし、そのことが花衣を安心させた。
「葛木さん」
誰もいないと思っていた花衣は、驚愕のあまり本当に飛び上がってしまった。
起き上がった目の先に、ほっそりとした姿が闇の中でかすかに発光しているようだ。
白いシャツに黒い半ズボン姿の瀬尾は、ここがまるでいつもの教室か、それとも応接室であるかのように、朗らかな笑みを浮かべている。
「お腹が空かない? チョコレートを持ってきたんだ」
色とりどりの銀紙で包まれたチョコレートを手のひらに並べてみせた。
いつから瀬尾はここにいたんだろう。
いや、自分はなぜ、ここにいるのか。
混乱した花衣の表情に気がついたのか、瀬尾は首をかしげ微笑む。
「約束したじゃない、今日ここで会おうって」
「でも」
ここに来たくはなかった。しかし、瀬尾との約束をたがえることができなくて、祖母に行き先を告げないまま、家を出たところであの中学生に捕まってしまった。
あのとき行われた行為のほとんどを、花衣自身ははっきり覚えているわけでない。座敷牢の女が体を支配して、花衣の意識は心の底で眠ってしまったのだ。
だが、肉体に残る嫌な感触に、なにが行われたのかもう花衣は分かっていた。
そっと手を胸元に当てる。
服装に乱れはないようだったが、あんなことのあったあと、瀬尾に会うことはたまらなく恥ずかしく惨めだった。
瀬尾の真っ白で清潔な白いシャツから目をそらし、花衣は涙ぐんだ。
「大丈夫だよ」
瀬尾は花衣の手のひらに、ピンクの包み紙でくるまれたチョコレートを握らせる。
「僕はあんなことで葛木さんを嫌いになんてならないよ」
『あんなこと』。
花衣はその言葉の意味を一瞬で悟った。
無意識に体ががたがたと震え出す。
今までどんなに殴られて戒められ陵辱を受けても、感じたことのない深い絶望が嵐のように襲う。
誰にも知られてはならない秘密。
まして、瀬尾には一番知られたくはなかった。
頬を冷たく涙が落ちていったとき、花衣は今更気がついたのだ。
瀬尾が好きだ。
憧れや友情ではない、甘いが少しだけ毒のある感情は、物語でしか知らなかった恋なのだろう。
瀬尾の優しさに戸惑いながら、花衣にしか見せない瀬尾の姿に、他の子供たちに密かな優越感を覚えていたし、森の中で見せてきた瀬尾の闇に怯えながら、どうしても離れがたい執着。一緒に図鑑を眺めるとき、ふれあった手にときめきを感じたり、教室で誰にも気がつかれないよう目を合わせて微笑み合う、そんな時間も限りなく大切ではあったけれど、花衣の心に生まれ育った恋はほの暗く苦い。
瀬尾は花衣の涙を指でたどった。
「きれい」
そんな言葉に涙は止まらない。
瀬尾は本当に全てを知っているのか。
花衣の体がどのように扱われたのか、開かれ折られた姿を見ているなら、そんな言葉は出てこないはずだ。
嗚咽する花衣に瀬尾は言った。
「ごめんね、すぐに助けてあげられなくて。もっと早く気がついてあげたかった」
震える花衣の手を握りしめる。ふたりの熱でチョコレートがゆるく溶けていく。
「自分が望んでいないことをされたのに、どうして僕たちが責められないといけないんだろう」
淡々と瀬尾は続ける。
「汚いのはあいつらだ。大人も、大人の言うことを鵜呑みにして葛木さんを好きにしていいと思っている三好さんたちだ。知ったかぶりをして、僕たちにも心があると想像することもしないで、あいつらの『正しさ』を押しつけてくることの方が、僕には汚く感じるんだよ」
まだ幼さの残る瀬尾の顔に薄い笑みが浮かんでいるが、それは奇妙に大人びた冷酷な色があった。
村の分限者である瀬尾家の跡取りの彼を誰が責めるのだろうか。
(あいつの秘密を教えてやるよ)
耳元で熱い息と共に囁かれた声を思い出す。
あのあと座敷牢の女に体の所有権を譲ってしまった花衣は、その先がよく分からない。
瀬尾はため息をつくと、もう一度花衣の手を握り直す。
「僕は葛木さんの味方だよ」
花衣はまた泣いた。
ふたりともまだ10歳で、どれほど『正しさ』に抗おうとしても無駄なこと、この森の中で誓い合った言葉も大人たちの力であっさり壊されてしまうことを、花衣は知っている。
そして、花衣を見つめる瀬尾の目も、そのことをよく分かっているように感じたのだ。

家に帰ったのは、17時前だった。
雨こそ降っていないが雲の多かった午後、森の中は生い茂った木々で暗かったので真夜中になっているのではと心配した花衣は、少し拍子抜けをした。
家の前についたとき、花衣は思わず顔をしかめる。
ふたりの叔父の車が庭にある。
最近、ふたりとも滅多に帰ってこなかったのにと、花衣はまた陰鬱な気持ちになった。
もう一度服装を確認する。
髪についていた枯れ葉も瀬尾が綺麗に取ってくれた筈だが、何度も手ですいてから、重く感じる玄関の引き戸を開いた。
家の中は下の叔父の笑い声が響いている。
また酒を飲んでいるのだろうか、花衣は怯えつつ、気を引き締めて居間に入った。
「おかえりなさい」
このところ見たことない優しい笑顔で、祖母は花衣を出迎える。
「早かったな、今時分ならもっと外で遊んでもいいだろう」
「学校では夕方5時までと決まってるのよ」
「夏休みになったら6時までになるだろ、毎年」
祖母と叔父たちが、どうでもいいようなことを話している間、花衣は祖母の腕の中にあるものから目が離せないでいたのだ。
最初は人形なのだと思った。
ピンク色の服、まだ生えそろってないよに薄い髪は頭皮に張り付いている、痩せた手を口元に持っていき、指をしゃぶる姿に、生きている本物の赤ん坊だとわかる。
千佳と同じくらいだろうか?
少しこの赤ん坊の方が年上に見えるが、とても痩せていて、そして泣きも笑いもしないで祖母に抱かれている姿は、やはり作り物のようである。
視線に気がついたのか、祖母は腕の中の赤ん坊がよく見えるように花衣にさしだした。
「知り合いの子供さんなの」
祖母は言いつつ、愛しそうに赤ん坊を見つめる。
「今日からしばらくうちで預かることになったのよ」
「お前もおねえちゃんだな、花衣」
下の叔父が笑って花衣の背中を叩いた。
戸惑いで何も返せない花衣に誰も気づかない。
「愛子ちゃんって言うのよ」
祖母は赤ん坊をあやしながら言う。
なにも感じていないように、赤ん坊は時分の指をしゃぶり続ける。
「今年、3歳になるんですって」

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