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18 言い残していたこと

この巡礼記もだんだんと終わりが近づいているようだ。すでに前回、旅の途中の記述やサンチャゴ到着の話をぶっ飛ばして、サンチャゴの先、スペイン最果ての岬フィステーラまで来てしまった。(前回、その話を思いついたからではあるが。)

サンチャゴ到着あたりの話は後に回したい。忘れないうちに書きたいことから先に書こう。(笑)

繰り返しになるが、この巡礼は2005年の4月末から5月末に行ったもので、その細部については全然記憶に残っていない。残っているものはやはり心に深く刻まれたものであり、きれいに折り畳まれてぼくだけの人生訓のようなものになっているのだと、文字に書き起こして見て、あらためて思った。

今日はそれを以下に簡単にまとめたい。

・巡礼は人生の縮図

     巡礼では、巡礼者がそれまでにやっていたありよう、生き方が、そのまま吐き出されてくる。それまで生きてきた社会のしがらみが取っ払われて、人として最低限のマナーを守れば、あとは好き勝手できる。その好き勝手さが表出してくる。特に日本人にとってはその人の自由なありようが許されるのはここスペインのサンチャゴ巡礼ではないだろうか。

・人生でのこだわりが凝縮して出てくる

     ぼくの例だが。規則的なのが好き。朝5時半におきて軽く朝食をとり、まだ暗い6時に出発。一人で薄暗い道を歩くのが楽しいと言うよりなんだかうれしい。まだ人の意識が寝静まっている時間の古い巡礼路を歩くと昼間とは違う雲の上を歩くようなふわふわとした感触が伝わってくる。そして、足が痛くなるときの休息以外は、大体2時間で8キロ余り歩いてはコーヒータイムにしてスナックをとり、このパターンを2回(16キロ)、3回(24キロ)、4回(32キロ)繰り返してその日の歩きを止める。日によって距離はさまざま。最後に村や町の宿を探してチェックインし、シャワー、洗濯、買い物、夕飯をとる。日が暮れる頃にはその日の作業は終わりにして、巡礼路で会った人たちと会話したり、お茶したりする。9時ごろには就寝して明日に備える。この繰り返し。こんな調子であるのは、自分の心配事が、ご飯食べられるか。今夜寝るところはあるのか、といういたって単純な恐怖心から来ているからだろう。後から考えるとそこかよ、と思ってしまう。人生そのままではないか。

・無意識にやっていたことが他人事のように意識化される

     巡礼を振り返って面白いなと思ったことがある。それは自分がやっていることで、無意識のうちに人生の障害になっていたり、逆に人生のはずみになっている生活における癖のようなものがあって、普段は無意識なのだが、異国の地というシチュエーションもあり、それが映画のシーンを見ているように意識化されるそんな瞬間があるのだ。それは、一人で歩いて、他人とのおしゃべりを止め、心の中での一人おしゃべりも止まったその瞬間に訪れやすい。(また、そういう無心の心理状態と歩行状態は結びついて、舗装路でもやわらかい大地を滑走していくような心地を感じる。歩行瞑想である。)

・巡礼はその人を浄化し再生させる

     人生では特異な人間関係、職場環境などによって自分の意識や行動に制約を受けて苦しい思いをすることが多々ある。自分が悪いのか、他人が悪いのか、はっきりしないので混乱して苦しさは増す。ところが巡礼では、そんな制約が一挙に取っ払われて、地元の人や巡礼仲間との交流で基本的なマナーを守れば、あとは自由勝手に非常に自分らしくいられる。誰も干渉しない。毎日やっているのは、歩いて、休んで、食べて、飲んで、しゃべって。そんな単純なことの繰り返しだ。だんだん自分がいた社会(家庭、学校、職場、仲間)の意識や行動への特異な重石が取っ払われて、心が解放され、体も歩くことでだんだん元気になってくる。1ヶ月、長くても2ヶ月の短期であるが、野っ原や、泥道や、舗装路をずんずんと歩くことで、巡礼者は本来の自分を取り戻すことができそうだ。ほんとうは無理していたんだ、合わない環境に自分を押しこめていたんだ、なんてこともフレッシュになった頭にははっきりしてくる。

・現代人にとって巡礼は新しい自省の流儀

     巡礼中にどれだけ自分の意識を以前と同じような他人との交流に費やすかで違ってくるだろうが、巡礼は先に述べた「歩行瞑想」のようにも思える。ただ黙々と歩くという行為によって乱れた心は鎮まり、平静さを取り戻す。静かになった心は、まわりで起こる事象、自分の心象までも写し込む鏡となる。普段、自分が自分と信じ込んでいたものがその自己主張をやめた瞬間から見えてくるものが違ってくる。見え方が違ってくるとも言えるだろう。(そして、その心理状態は体のありようまで変えてしまう。バックパックの重みが消えて、ふわふわと巡礼路を滑っていく感じが出てくる。同じようなマジック歩行をやっている巡礼者を何度か見たものだ。)

・「巡礼は苦労してしなさい」

     今回、2005年の巡礼を思い出そうと、最近の巡礼者のブログをいくつか読んでみた。写真も豊富。地図情報を使って距離や行程や時間もばっちり記録されている。プロ並みに綺麗にまとまっているものもある。2005年ごろと違いネットで情報が増えただけでなく、GPSでナビゲーションまでできる時代になっていた。カミーノ・フランシスのような有名でたくさんの巡礼者がやってくる巡礼路沿いには、新しくたくさんのカフェ、バー、巡礼宿、荷物送迎サービスまでできている。2005年ごろから巡礼者は3倍に膨れあがっている。巡礼の商業化が進み、いたりつくせりの感がある。17年前の巡礼よりもはるかに簡単に、ハイキングをするように、オリエンテーリングをやるように、ゲームのように巡礼が行われるようになってしまったと感じる。ぼくのように何の準備もせず、いきなり歩き始めるのもどうかと反省しているが、あまりに単純化され、苦労のいらない巡礼は、巡礼の価値をおとしめる可能性を含んでいるだろう。マニュアル化され、お金を払えば何でも自由になり、何でもトコロテン式になった今の日本の社会がたどり着いた閉塞感を思い出そうではないか。戦後の日本人がたどり着いた先が砂を噛んで暮らすような無縁社会になった理由を考えてみようではないか。

     ぼくはある心の導師から「巡礼は苦労してしなさい」と言われたことがある。実際に800キロ余りのスペイン巡礼を2度行うことで何となくその意味が推察できた。そして巡礼の根幹は「重荷を背負って歩く」ことなのだと知った。それは十字架を背負ってゴルゴダの丘へ登ったイエスの姿にだぶる。今のハイキング巡礼が最後の命脈を保っていられるのは、まだ数百キロの道のりを重いバックパックを背負って歩き切ろうとする巡礼者が残っているからだろう。もう、そこにしか巡礼の苦労は残っていないから。

つづく