経験はギフト
経験を自分にとってどんなモノにするかは自分次第。
あんなことしたからこんなことになってるんだ・・・と経験を後悔するのも自分だし、
これをしたからこんなことが分かった、と経験を意味のあるものに変えられるのも自分。
それで言えば、経験をして後悔を感じたことを意味のあるものに変えられるのも自分。
抽象的すぎたので私の経験を基にして振り返ってみる。
12歳の中学受験
担任の先生の薦めによって受けた中学受験。
小学校から中学校へ上がる時はほとんど同じメンバー。
つまり、仲の良い子はみんな同じ中学校へ。
なんか受験ってすごいな。受けてみて受かったら行くのもアリかも。
なんて思いがあったけど9割はみんなと同じ中学校に行きたい思いが強かった。
だから勉強らしい勉強なんてしなかったからもちろん落ちた。
けど、落ちても良い気持ちが大半だったと思う。
私はそこでみんなと同じが良い、と言う選択をした。
そこにはみんなと一緒が良い、と言う思いと同時にみんなと違うのは嫌だ(私だけ違う)と言う思いがあったと思う。
この感情は、みんなと一緒が正しいと言う思いから来ていたなぁと今は感じる。
みんなと同じ形のカバンが良い
みんなと同じような服装をしたい
みんなと違うことをしたいけど、それによって目立つのは嫌だったから
同じにするのが当時の私にとってはベストだったんだなぁ。
高校の3年間
当時の私は、みんなと同じ地元の高校には行きたくない気持ちがあって
高校を推薦で受けて地元の子がいない高校へ行った。
でも、そこで私はある意味初めての挫折をする。
中学では大体成績上位にいたのだけど、高校では下の中くらい
私よりはるかに頭の良い子たちがたくさんいて
自分の勉強のできなさに落胆した。
私は自分を過剰評価していたんだなぁ。
地元のみんなにすごいねって言われることが当たり前で、それを言われる自分であり続けることが私にとっては一つのステータスになっていたのかも。
その一つとしてみんなとは違う高校を選び、また私は地元のみんなにすごいねって言われる存在であり続けたいと思った。
けど理想と現実のギャップに私自身が追いつけなくて。
結果として私はそのギャップをうまく埋められず、
高校の3年間は正直楽しくなかった。
そこで私はなんでうまくいかなかったのかなって振り替えられたら良かったのだろうけど、それを引きずったまま大学生になったものだから、結果として大学生活も楽しいものではなかった。
そのまま就職活動を始めようとしていた大学3年生の冬。
なんか、私全然ダメだなって始めて気づいた。
そこで自己PRの文章とか考えたりしたときに、全然誇れるものというか、そういうものが浮かばなくて。私このまま社会人になったらなんかダメな気がする、って気持ちが浮かんで選んだのが留学だった。
私が今思うのは小学校〜大学までに自分と向き合うような時間が全くなかったなということ。
学校生活ではみんなと同じことが正しいとされ、何をするにも順位をつけられ、1位が褒められて最下位は怒られたり、注意を受ける。同じ制服、同じ髪型。
、、、かと思えば就職活動が始まると自分の色を出せと言う。
自己PRは?自分が人より秀でているところは?と言われ、みんなと違う部分をアピールしろと言われる。
今まで同じが良いと言われてきたのに急にそんなこと言われてもわからんよ、、と思っていた。。
私は7年間の学生生活を通して、自分を押し殺して周りの求める理想の自分であり続けることがどれだけ自分を苦しめていたのかを知った。
何をするにも周りの目を伺って、出来るだけ気配を消して小さく小さく生きていたように思う。当時の私はすごく寂しかったなぁ。うん、辛かったなぁ。
今、こうやって振り返りながら昔の自分を理解し、うんうん、わかるよってうなづいてあげられる自分が今いることがすごく嬉しい。
過去は変えられないけど、過去の自分を癒してあげられるんだ。
癒してあげられたら過去の記憶ってそんなに嫌なものとして残らない。
想いをどう昇華してあげられるか。
それは他人じゃできないことで、自分が自分にしてあげられる何よりも大切なこと。
だからこそ、経験はギフト。
経験をしたからこそ、得たギフトがあり、そのギフトによって私はまた新たな自分を見つけられる。
振り返りって思ったよりも時間がかかるけど、かければかけるほど自分を知る大事な時間となる。
ゆっくりと、振り返ってみようと思う。
これも一つのターニングポイントかもしれない。