反対の価値観でバランスを取る、というやり方は大抵失敗する
ある価値観が世間でまかり通ってる場合に、それとは反対の価値観によって
均衡を保とうとする働きが生まれることが多々ある。
例えば「結婚」。
「結婚は当然するべき」「して当たり前」という価値が横行しているならば、それに対し
「結婚は人生の墓場」「子供や家庭だけが人生ではない」
などと反対の価値が浮上してくる。
天秤の片方の皿に重りを乗せれば、反対の皿が浮上する、ということだ。
いかにも二元性にまみれた人間社会の特徴と言える。
それが「結婚」のような形式的なものなら、それでいいのかもしれない。
法律上の形式だからいつでも離婚はできるし、未婚で独身でも、周りからうるさく言われなくなったことは間違いない。
だが、人の心の動きとなるとそうはいかない。
ある人が真面目すぎる場合「もう少し肩の力を抜く」ことを示唆される。
つまり「もっと不真面目に生きろ」と言われたりすることがある(もちろんYOUTUBEだ)
だが、もとが真面目な人間に「不真面目に生きろ」と言ったら、その人は本当に”不真面目に”生きようとしてしまうだろう。そして周りからひんしゅくを買う。
「もっと真面目にやれ」と。
この「不真面目に生きる」という言葉を思考が捉えてしまうと当然偏る。
思考という機能自体が偏るようにできた、いわば天秤そのものだから。
思考は何を言われてもバランスを取るようには出来ていない。
思考は計ることができるだけだ。
天秤を扱ってバランスを取るには、”人が天秤であってはならない”ということ。この言葉を言い換えると”人は思考であってはならない”となる。
あたり前のことだが、人は人、天秤は天秤、と切り離されてないと、人は天秤を使うことが出来ない。均衡を保てない。
つまり、人の意識が思考に同化してる場合、正しく”思考”という天秤を扱えないのである。
天秤自体は天秤を扱えない、ということだ。
あなたは自分の考えがどれだけ偏ってるか、理解してるだろうか?
ほとんどの人が「わからない」と言うだろう。
それは、あなたが天秤だからだ。
つまり思考だから。
意識が思考から離れ、客観視できてはじめて、人は「思考という天秤」を扱えるようになる。
そしていかに、自分が偏っていたかを知ることができる。
ネットでいろいろな見解を見たりして、自分がいかに偏った見解を持っていたか、痛感する人は多いだろう。ネットは、他人という天秤(思考)が織りなす見解や思想をつぶさに見ることができる場所だから。そこで、人は他人の天秤がいかにアンバランスかを知り、同時に自分の天秤の不均衡も見るのである。他人は己を映し出す鏡ということだ。
今回はYOUTUBEの動画で上記の「不真面目に生きろ」的な事を言っていた輩がいたので、気になって書いてみた。その動画を上げていたのは精神科医だった。本人は心のバランスを取ろうとして言ったことかも知れない。が、ただの再生数を上げるための、よくある「意図的に偏ったタイトル」を使っただけかもしれない。本業の心を扱う医者がこのザマである。
Youtubeはどのサムネを見ても、そのほとんどが三流のB級雑誌のタイトルみたいなものばかりで見る気も失せるが、視聴者は若年層が多いのだろうか?
なんにしても、反対の価値観を掲げてドヤ顔してる詐欺師の言う言葉には十分気をつけてほしい。
こういう逆の視点を持ってることが知性ではない。
反対の価値観など「プラスに対するマイナス」というだけのことでしかない。つまり、どちらも二元性の枠の中にある。
「善に対する悪」「光に対する闇」というただそれだけのこと。
それら、二元性の枠から意識が外れたときに、真の知性は生まれる。