非常にモヤモヤする地球生活の意義
地球にうんざりした人達、こんにちわ。
今日も空しい一日が終わりました(棒読み)
ソロモン王曰く
「空の空、空の空なるかな、すべて空なり。日の下で働くことの何の意味かあらん」
これは聖書の言葉。
すべてを手にしたソロモン王もこのありさまである。
一方、東の国では、
「世の中は、食うて稼いで寝て起きて、その後は死ぬるばかり・・・」
こちらは、我が国の禅僧、一休の有名な歌。
もはや説明不要。
西も東も、人間が思うことは皆同じ。
誰も彼もが、うんざり警報、絶賛発令中である。
今夜も多くの人が、仕事の後、一杯ひっかけたのだろうが、
酒がうまいのは、労働という労苦があるからで、いずれ、アルコールが体に与える影響を考えると、やはり、良いことだとは思えない。
適量を守って飲んでる人もそうそういないだろう。
しかし、その原因は何なのか?
一つは、まず、何のための労働か?という問いに明確な答えがない、ことが原因ではないだろうか?
労働とはもちろん「生活のため」なのだが、じゃあ生活のため、とは?
そう、生きるためである。
そして、生きるためとは死なないためである。
この、「死なないため」というものが、実はかなり根が深い。
生物にとって、死への恐怖は大きな意味を持っているはずだから。
ここでは一応「労働とは死なないためにすること」ということにしておこう。
そこには、死への心理的恐怖が多分に含まれる。
我々は死なないためだけに、労働という労苦を背負わされる。
これは他の生物たちも条件は同じだ。
つまり、地球に生まれた時点で強制労働は死ぬまでついてまわる、ということになる。
まあ、ここらへんが思考で突き詰めた場合の限界だろう。
労働を進化のためとか、人間的な成長のためとか、いろいろ言うことはできるが、「それじゃあ進化や成長なんて、何でしなきゃいけないの?」という問いには納得いく答えがない。
この場合、進化の頂点で滅亡した文明を題材に考えてみよう。
物質文明の頂点で崩壊したのがムー大陸、魔法文明の暴走による崩壊がアトランティス・・・だったっけ、三上さん?
そうなると、現代はムーの時代ということになるだろうか?
どちらにしてもバランスが極端に偏った際に起こっている。
巷にはびこる奇特な2つの勢力、科学信者とオカルト信者の絶対数を見ても、物質文明が優勢なのは一目瞭然のように思う。
人間の進化はバランスの偏りしか起こさない。
それは、人間の意識を占めているのがエゴで、エゴは思考だからである。
思考は分離を起こす。
エゴは思考そのもので、ゆえに自身を客観視できないため、自らのバランスも見えていない。
エゴとは天秤そのものであり、自分で測りを調整することができない。
そもそも、アンバランスかどうかもわかってないだろう。
あなたは自分がバランスが取れているか、アンバランスか、理解しているだろうか?
だから、私はエゴイストをやめることを推奨している。
天秤であることをやめ、天秤を使う側の視点に立つ。
そうすれば、バランスはたちどころに修正される。
これはつまり、エゴをやめて本質へ戻る、ということである。
➖バカげた世界で生きることの意味➖
このバカらしい地球の人類が織りなす、バカげたドラマはいったいいつまで続くのか?
気がついたら、人間に生まれ、
気がついたら、自分というものがあり、
気がついたら、社会貢献をさせられ、
気がついたら、しょうもない名誉や野心を追求し、
気がついたら、クソの役にも立たないユートピアを求め、
気がついたら、白髪だらけになっており、
そして、気がつけば棺桶に入っている・・・(そのときに気がつくことはもうないが)
いったい、これらは、「何 の た め」 なのか?
何のために、人は勉強し、労働し、争いあい、何かを作り、壊し、生み出すのか?
誰も彼もがその本当のところの謎を知らないまま、社会がそういうシステムだから、で納得している。
正確には自分に納得させようとしている。
そうなんだから仕方ない、というのが本音だろう。
答えが見えないので、追求する気が起きないのもわかる。
また、教育や娯楽を次から次へと投入することで、人々から優良な探究心を削ぎ落としているという事実。
私は陰謀論に詳しくはないが、おそらく、陰謀論界隈ではすでに、指摘されているのではと思う。
名誉や野心を煽るような風潮にし、どの分野でもヒーローがもてはやされるようにすれば、子どもたちも、成長の過程でそれらを求めるようになる。
その際は、ちゃんと国民なんちゃら賞という御大層なものを作り、しっかりと報奨も出す。
多数の人々から称賛を受け、物質的にも精神的にも豊かになれる。
これらを否定したのは、イチロー選手くらいだろうか?
「モチベが下がるから」という理由だったと思う。
国は何よりも、税金を欲しているので、いかに税金を払うことに喜びや使命を見出す税金奴隷を造れるか、に国の手腕がかかっている。
そのために多大な教育システムを作り、そのための法律を彼らは自分らに都合よく作る。
子供の内から社会貢献を頭に叩き込み、余計なことを追求させないために大量の学問や宿題をやりこませ、できなければ、バカという屈辱的な称号を与えられる仕組みを作る。
子供ならこのくらいで十分だろう。
優秀者には報酬が、劣等者には悲しい現実が待っている。
こういう体験を子供の頃にさせておけば、社会に出る頃くらいまでには何とか自分の生きるすべを涙ぐましい努力で補おうとするだろう。
優秀な税金奴隷がたくさんいること、それが、そのまま国の利益につながる。
生産、という苦労も知らずに、増税するしか脳のない国のエリート様たちには、本当に頭が下がる。
「金が足んねーな…そうだ、税金あげよ!」
なんて、チンパンジーでもできる。
さすが国の最高峰、お国のエリート様たちである。
「そうだ、京都へ行こう」のノリで増税するから笑うしかない。
増やしはするが、決して下げないのも彼らのやり口で、一度とった税金ルートは絶対に手放さない。
何が何でも減らさない。何が起きてもビタ一文減らす気はない。
自分らは生産力を持たず、要は金儲けが下手くそなので、他の誰か、国民にやらせるしかないのだろう。
思えば、かわいそうな人達なのかもしれない。
➖社会がおかしいのは、当然、それを作った者たちがおかしいから➖
この狂った社会構造を見ても、人間がいかに自然界から逸脱しているかがわかる。
そもそも、自然界に適応できない人類がなぜ、地球に生存しているのか?
そこからして不自然極まりない。
勉強したり、ものを作ったりするのは人類だけだ。
他の生き物たちは、全部、自然の中で生まれたままの、裸のまんまで生きている、というのに。
人間だけが、道具やら服やら家やら、なんやらかんやらと必要になり、そのために資源を掘り、便利ツールをこさえ、時間が空けば、暇つぶしの娯楽に興じたりする。
日々、動物たちの何倍もの無駄な活動を行っている。
無駄、というのは生命活動に必要ない行動が多すぎる、という意味。
これもエゴの特徴の一つである。
エゴというちっぽけな器は満足感も小さく、満たしてもすぐに枯れる。
だから、すぐにまた、刺激や満足感を求め、動き出す。
感情を動かされるのも好きなので、感動できる作品を求めては、見たり聞いたり、感想を言い合ったり、ネットサーフィンしたりする。
夜遅くまで。
人はいつ休むのだろうか?
どう考えても、人間がもともと、この地球に属していたとは思えない。
ツッコミどころ満載の進化論などは論外である。
あんなもの、ただの推測、推論の域を出ないもので、科学でもなんでもない。
つまり、人類は何かの目的で地球に来た、もしくは、地球に放り込まれた、
と考えるほうがよっぽど自然である。
まあ、この話はあまり重要ではないので、これ以上の深堀りは避けよう。
人類のルーツがわかったところで、何も変わることはないだろうから。
問題は、何も知らされていない状態で、どうして、この宇宙の隅っこの辺境の星で毎日毎日、労働や生活というバカみたいな苦労をさせられなければならないのか?である。
さっき、国の政(まつりごと)にたずさわるバカ者共の愚行を例に上げたが、実は、あれは誰がやってもほとんど変わらない。
問題はもっと根が深い。
水俣病だったと思うが、家族が被害をうけ、ずっと裁判で戦い続けていた、という人がいる。
確か、裁判は数十年にも及んだと記憶する。
そんなに古くない昔、テレビで放映してたので見た人も多いはず。
彼は、来る日も来る日も責任の所在がはっきりしないこと、そして家族の悲惨な状態を見ては、怒りと憎しみにかられながらも戦い続けるのをやめなかった。
責任の所在が不明ということは、被害者からしたら、当事者たちの責任逃れにしか映らないわけだから、当然と言えよう。
こんな事例は今でも山程あるだろう。
だが、そんなある日、彼からふと、憎しみの心が落ちた。
それは、責任の所在がシステムそのものにある、ことに気づいたから、と彼は述べる。
目には見えないその動き「システム」というものが、人や集団、組織にいろいろな作用や方向性を与え、最悪の結果をもたらした、ということを理解したのだ。
映像は彼の背中を最期に閉じられるが、その後ろ姿は今でも印象深い。
(メディアは煽るようなネガキャンばかりで、いい加減、そのことに人々も気づきはじめ、テレビ離れが進み、いい気味だが、この放送だけはメディア史上、唯一価値のある報道であったと思う)
じゃあ、そのシステムはいかにして出来上がったのか?
答えは簡単。
この社会を作った者が元凶である。
つまり、答えは私達、人間。
人間が作った社会なのだから、このシステムも人間が作ったのは当然である。
そういうわけで、私達、人間一人一人、すべてが元凶である。
ある宗教では、人はすべて罪人である、という教義があるが、まったくそれは的を得ている。
つまり、私達一人ひとりが変われば社会は変わる。
一部の連中が世界を牛耳っている、という考えは、結局、自分には責任がないし、変わる必要もないという責任転嫁でしかない。
陰謀論はある程度まで、調子に乗った権力者たちを黙らせるにはいい手法だが、行きすぎると人々を怠惰にする。
すべてが「あいつらのせい」で済んでしまうから。
一人ひとりが変わること、が社会を変えるには一番早く、もっとも効率が良い。
だいたい、歴史を見ても他人や社会を変えようとした人達は、いつも戦いを余儀なくされるため、必ずと言っていいほど、血が流れた。
戦うことでは何も変わらない、とは言わないが、新たな戦いを生み出すだけなのは明らかだ。
そして、常に根本的な解決にはなってない。
必ず何かしらの問題、しこりが残る。
何度倒しても、魔王はいつでも復活するのが世の常だ。
そのたびに、いったい何人の勇者が駆り出されただろう?
何度、同じことを繰り返すば気が済むのか?
堀井雄二もいい加減、飽きてるのではないだろうか?
「終わりのないことをすることは、賢いことなのか?」
と、かのスナドリネコも言っているが、まったくそのとおりである。
スナドリネコさんが言うんだから間違いない。
やはり、最後に言うべきことは本質への回帰である。
ひとりひとり、エゴをやめて本質に戻ることが、この人間社会を、そして自然や美しい生きものたちと地球を救うことができる、唯一の手段だと私は思う。
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