高次生命体(仮)が人間に介入する理由を考察

この記事で扱う高次生命体(仮)とは主にバシャールのことを指す。
(仮)と付けたのは高次や低次の基準が曖昧だから。
個人的には異次元生命体という名が一番適していると思う。
(詳細は別記事「〇〇信者から自由人へ」を参照のこと)

さて、彼らはなにゆえ、人間に介入してくるのだろうか?
人間愛があるとはとてもじゃないが私には思えない。
個人的には、彼の言葉の端々から感じることは、私達人間が虫とか実験動物、細菌などに対して感じるものと似ている気がする。

つまり、もっとドライな理由があるはず。
人間に幸福になってほしい、とか世界の波動がどうとかという理由ではなく、もっとビジネス臭のような・・・。
だが、そのビジネス臭とは、チャネラーのダリルアンカの思惑ではない。
つまり、彼の金儲けのためではない。
バシャール自身に思惑がある、という意味だ。
これは、人間の活動自体が他の次元にも影響することを意味する。
彼らに何の影響もないなら、人間にちょっかいなんて出さないはず。
何かしらの理由はある、と考えるのが自然だ。

-イワシの頭も信心から-

昔から人間界で言われ続けていたことに「霊や妖(アヤカシ)、神などの類いは信じればこそ」という考えがある。
彼らは人間の「信じる」という行為の上に成り立つ存在である、と。
そこで、真っ先に思い浮かぶのが形を持たない生命体、バシャールだ。
その名前、バシャールとは”存在するもの”の意味であったと思う。

なぜ、彼がこんなふうに自身を名乗ったのかと言うと、それにはスピリット特有の事情があるのだろうと思う。
私は長いこと、呪術に携わっていた経験がある。
なので説明すると、霊というのは術者の主観によってその存在、そして姿形が影響する、という性質を持つ。

物理的な肉体というものや形を身に持たない異次元の生命体は、私達人間の主観によってその姿がだいたい決まる。固有の形を持たないため、鏡のように人の内面が投影されやすい、とも言える。
”水”を想像すればなんとなくわかると思う。

いわゆる霊能者たちの見解が人によって違う理由がここにある。
彼らは自分たちの信念体系などが、自らの見ている対象に投影されていることに、気づいているだろうか?
昔から先人たちはいわゆる霊視のたぐいを「ほとんどが誤謬」とのたまい、注意を促してきた。幻視や霊視は自己欺瞞に陥りやすいとも。

-バシャールの思惑-

バシャールには「これだけは押さえておきたい」ということがあるように、私には思える。

まず一つ目。
彼の名前の意味、その一つである「存在するもの」

そしてもう一つ、ことあるごとに彼が言うフレーズ、

「あなたも世界も確かに存在している」

というもの。
正確な文言は忘れたが、彼は常時、”存在”を強調する物言いを連呼する。
このフレーズが、前後の脈絡がまったくないまま、突然出てくることに違和感を覚えた人も多いはず。そして何度となく、彼はこのフレーズを持ち出してくる。

まるで人間たちに、自分もこの世界も存在していると思い込ませたいかのようだ。もちろん、そこにはバシャール自身も含まれるだろう。
なんせ、名前が「存在」なのだから。
「私は存在している」というアピールもそこには内在しているはず。

彼らはなにゆえに、それほどまでに人類に”存在”を主張するのだろう?
人間界には「世界そのものが幻想である」という者や「何も無い」、または「夢である」と唱える者もいる。
そもそもが、この世界が実在することを誰一人として証明できていない。

突然だが、ラブクラフトは知ってるだろうか?
彼は奇々怪々な世界を創作したが、その研究者の中に面白いことを言ってる人がいた。
「世界の中心はやはり、この地球、そして人類であり、そこから派生したものが、神々や妖魔のたぐい、宇宙や遠い銀河系などの世界である」と。
だから人間が想像したものはすべて、この宇宙のどこかに必ず存在していることになる。

ラブクラフトの作品もそうだが、不思議な現象は、人間の認識が遠く及ばない場所で起きやすい。
たとえば、日本昔話の原泉ともなっている岩手県の遠野郷。
今でこそ、通行が楽になったが、昔は山々に隔絶された未開領域だった。
つまり、そこで生活する人以外の情報が入って来にくい場所だったのだ。
だから、そういう閉鎖的な場所で「こんな不思議なことがあった」と村の誰かが言えば、その土地でそのことを疑う人はいなくなる。疑うことがないので他の村人も感化され、似たような不思議現象に遭遇する。村人たちの集合的無意識が、その土地に投影された良い例だと思う。

奇怪な現象が、”閉鎖領域”で起きやすいのは、多くの人がホラーものの映画やゲームなどでも実感していることと思う。幽霊の目撃例が夜中に集中しているのも、闇による人間の認識の衰え、が起因している。

他にも地球にはまだまだ未知の領域がたくさんある。
深海、地底、南極や北極などの未踏領域。
太陽系の惑星はおろか、壮大な銀河系の数々。そして宇宙。
人の無意識領域もそうだ。

人間が想像したものはすべからく、この世のどこかに存在しているのかもしれない。
バシャールが再三、人類に対して「創造者」というふうに呼んでいたことを考慮すれば、これは辻褄が合う話だ。つまり、宇宙も非物質次元もそれらが存在するかどうかは人間次第、ということになる。それなら、バシャールが人類に世界の”存在”を思い込ませようとした理由も納得がいく。
宇宙全体が存続を続ける命運が、人類の手にかかっているからだ。

-人間 VS 高次生命体-

私達の同胞、つまり人類の叡智であり、哲学者である中島義道氏は
「存在していないもの、もしくは”存在が証明されていないもの”を存在しているかのように言うのは、暴力である」と述べる。

彼の”大先生”という肩書きに間違いはないが、哲学者のサガなのか、常に思考の次元で話をする。(まあ、これはしょうがない。言葉自体が思考の領域内のため、伝えるには限界がある。ヴィトゲンシュタインのように「これ以上は語れない」などと言ってしまえば、もう何もできなくなる)

私に言わせれば、「存在している」とか「存在していない」とかの話は思考の次元、二元性の世界のみで有効な話だ。ひとたび、意識を思考から離してしまえば、それらが無味無臭の何の意味もない言葉遊びでしかないことがわかる。

私は別記事「自分以外のものになろうとすると…」でデカルトを引用し、偉そうに真似して言ってみたことがあった。
「我思う、ゆえに我ありやなしや」と。
思考が動いた時点で「私は存在するのかしないのか?」という問いが生じる、という意味である。
デカルトは「我思う」のあと、「ゆえに我あり」と断言してしまっている。白黒はっきりさせたがる欧米人らしい発想だ。
禅の息吹を肌で感じる事のできる、注意深い日本人(つまり私(笑)や…たぶんこの記事を読んでる奇特なあなた)もまた、軽々しく断言はしないはずだ。
その代わり、問いかけをするのだ。
「在るのか無いのか?」と。

が、突き詰めればその問いですら、意味をなさない。
このことは、しばらくの間、思考を止めてみればわかる。
”存在”も”無”も思考の次元の話なので、思考を止めれば2つとも”無い”と同じである。(正確には”無い”のではない。ただ単に、両方とも否定されただけだ)

中島氏の言うように「存在することに何か意味がある」という物言いにはやはり、私も暴力性を感じる。自分が存在し、そのことに意味があるなら、人は”自分というもの”にこだわり始める。
つまり、このバシャールの軽はずみな言葉は「自分へのこだわり」を強めるのが目的ではないか、と推察できる。

人が”自分”というものにこだわりを強めると、結果的に”執着すること”になる。執着が強まると「自分には価値があるはず」と思いたがる。
たいていの人は無価値であることを突きつけられることで、傷ついたり、落ち込んだりするが、それこそが確かな証拠だ。人は自分には価値がある、と思いたがるのだ。自分なんて価値がない、と思っている人もやはり、「あなたには価値がある」と言われれば嬉しいだろう。

だがこの”価値”こそ”苦しみ”の根源にある諸悪の権化である。

-「価値」がもたらすもの-

「価値」は人々がとても好きなものだ。
「自分には価値がある」と考えるだけで、生きる気力が湧いてくる。
なんでもチャレンジしてみたくなる。

そう、「価値」は人を元気にするのだ。
なんらかの「価値観」を得ると、エゴが喜ぶ。
それはエゴのエサになる。生きているという実感が得られる。
そして、逆の価値観を持つ連中と対立する。または統合したりする。
それらの二元対立が楽しいのだろう。
とにかく、価値を持つと人の精神活動は活性化される。

元気になると、人は活発に活動するようになる。
そしてたくさんエネルギーを放出する。
その放出されたエネルギーはどこへ向かい、誰が享受するのだろう?
物質的な形を持たない異次元の生命体だって、存続するのにエネルギーは必要のはずだが・・・

バシャールのワクワク論も人々を活発に活動させるのに貢献している。ワクワクというのは感情的な動きだ。
その感情が強いほど、人は活発に動く。

各地に残る意味不明なお祭りの数々。
あれらはたいてい、精霊や神様を喜ばせるために行われる。
にぎやかなほうが、霊も喜ぶからあんな大仰(おおぎょう)な馬鹿騒ぎをしてみせる。霊(スピリット)たちは人間が騒いだときのテンション、つまり感情の動きに引き寄せられるという確かな証拠だ。

八百万の最高神アマテラス大御神でさえ、洞穴にひきこもったあと、彼女を引きずり出すために何をしたか?知らない人はいるまい。

私は呪術経験があると先に述べたが、その呪術もまた、意識を感情中枢に合わせて行う。感情の強さが呪術の成功を約束するからだ。たいていは特定の霊を呼び出すことになるので、やはり、感情は霊を引き寄せるエネルギーといえる。

また、イタコなどの霊媒も同じことが言える。
イタコは女性が多いが、それは女性が感情をよく発達させていることが要因である。感情が発達していることと、霊媒体質であることは密接に関係している。感情が強いからこそ、霊を呼び寄せやすい。
女性が総じてスピリチュアル系に親和性が高いのも、その証左となっている。

以上、感情が強いほど、霊が寄って来やすいと言うことができるが、それは女性ばかりではない。
DQN、ヤンキーなどの連中を忘れてはならない。
彼らの心は荒れ果てているが、彼らはやたらと心霊スポットに出かけるのが好きだ。おそらく霊が呼んでるのか、彼らの中にうずまく負の感情が心霊スポットへと自然に導くのだろう。
どちらにしろ、感情と霊(スピリット)は密接な関係がある。

万能の科学者であり、9ヶ国語を話せた天才、スウェーデンボルグもまた、霊界探索をしたさいに”死んだ人と出会う秘訣”をこう述べている。
それは、その人の情熱いかんであると。
死んだ人はすでに霊体である。
ここでも霊は人の情熱、感情に引き寄せられるのがわかる。

人の怒りや憎しみという感情は大きく人を傷つけ、殺害に至ることもある。
加害者も被害者からも強力な感情のエネルギーを採取できるだろう。
逆に愛や感謝などは、人を癒やし、活かすものとなる。
これも人の心を大きく動かし、肯定的なエネルギーが得られそうだ。

前者は悪魔が、後者は天使が好きそうである。
人や生き物が苦しむのを見て喜びを得るタイプ、逆に人が喜ぶ姿を見て幸福感を得るタイプ。両者は互いにベクトルが向いてる方向が違うだけ。
どちらもワクワクした上の行為だ。

・・・・

そもそも、人間の感情が他の生物たちよりもずっと強い性質として備わっているのはなぜなのか?

バシャールの言うように、人の感情はまず、思考が先に動く。
思考が楽しいとか悲しいと判断したあとに、笑ったり、泣いたりと感情が動く仕組みになっている。
つまり、感情を強めたいなら思考を強めればいいわけだ。
人に備わっているこの2つの機能は、思考が感情を、そして感情が思考を、という相互に互いを強めていく関係にある。
男と女みたいに。

意識が思考に同化すれば、それはそれは強い感情が生まれるだろう。
そのほうが思考が活性化し、そこにより多くのエネルギーが注ぎ込まれるため、結果的に活動的になる。
ちなみに、意識が思考へ同一化した状態が”自我(エゴ)”である。
エゴイストであるほうが、人はより強い感情表現をすることになる。

イエスは生涯、笑うことがなかったという。
それは彼の人生が悲惨だったからではない。
意識が思考から切り離されていたために、感情が動かなかった、というそれだけのことだ。彼は笑わなかったが、泣くこともなかった、ということ。
思考が動かないから感情も動くことがない。
つまり、イエスは思考に同化したエゴイストではなく、一元的なあるがままの存在だった、といえる。まだ楽園にいたときのアダムに近い存在だったといえる。

-正体不明の生命体-

あなたはバシャールをどう思うだろうか?
彼のやり口を見てると、私はよく思うことがある。
「高次生命体と呼ばれる存在にはあれほどの知性があるのだ。そりゃあアダムもイブも騙されて禁断の果実を食うわけだ、と」

アダムをそそのかし、果実を食わせたのは、蛇(地上で最も賢いと創世記で言われる)なのだが、この蛇の正体は後にサタンである、ということが判明する。

禁断の果実とは”知恵の木の実”であり、神がエデンの楽園に植えたものだが、同時に「食うべからず」とアダムたちに念を押していたものでもある。
この知恵の木は別名”善悪を知る木”とも呼ばれる。
そう、思考を指している。
アダムとイブは、この木の実を食ったことで、思考に同一化し、分離を起こし、生と死を造り出してしまった。
(思考に同化する、とは簡単に言うと”自我に目覚める”という考えで良いと思う。”自我”とは思考が作り出したニセモノの”自分”を指す)

その後、二人は楽園から追放され、生きるために大変な労働という対価を支払わされることとなる。
(ちなみに旧約聖書は人類が楽園追放され、堕落して苦労する話だが、新約聖書はその答えになっている。イエスの生涯は、人が再び楽園に戻ること、そして創造された当初のアダムと同じ”本来あるべき人間の姿”に戻ろうとする過程を表している。)

蛇(サタン)が人間に例の忌まわしき果実を食わせたかったのは、思考に同化させることが目的だったといえる。結果的にそうなったのだから、そうとしかいいようがない。

楽園から追放された人類は独自の社会をつくるが、当然、その社会は問題だらけ。かくして、腐りに腐りきった現在の人間社会が構築されるに至る。

このサタンの思惑、誰かの思惑に似てないだろうか?

-ワクワクするなら何でもいいのか?-

Youtubeでバシャールを棒読みして息巻いているアホがいるが、彼によれば人は”強欲”でも全然構わないらしい(あそこはこんな奴らばっかだ)
使える知識だけ抽出すればいいものを、まるごと信じるから愚かになる。
(これだから信者は・・・)

ある人は盗撮したり、レイプしたり、幼女をさんざんもてあそんだ挙げ句になぶり殺したりするが、それもワクワクすればいいわけだ。世の中には、とんでもない凶悪犯罪が山程あるが、彼らのほとんどはワクワクしながらやったのだろう。楽しくないのにやるわけがない。

相変わらず、いじめ問題がたびたび取り上げられ、若い命が自ら死を選択するという痛ましい事件が起こるが、いじめをする者たちもみんな楽しそうに見える。当然、あれもワクワクだ。

だが、無害なワクワクもある中で、なぜ有害なものもあるのか?
それは、ワクワクそのものが思考がもたらす分離の影響下にあるからだ。
二元性の中にあるものなので、無害なものと有害なものに分かれる。
つまり、ワクワクが思考の次元の領域内の現象であるのは明白だ。
こんなのカエルだってわかる。

ワクワクを追求するということは、いつまでも人間を思考の領域内に居座らせ、留めてしまうのである。
これがバシャールの思惑だ。

私は「人間の本質は善を志向している」とあえて言う。
性善説を完全肯定する立場にある。
だが、その”善”は二元対立しない”善”だ。
完全無欠の”善”を指す。
クリシュナムルティが”愛”について語ったのと同じように。
彼曰く、
「”愛”の反対は憎しみや無関心ではない。愛に反対語はない。なぜなら”愛”は完全だから」
これとまったく同じ意味としての”善”である。

ではなにゆえ、人間は悪をなすのか?
それは思考に同化したことで、”善と悪”に分離を起こしたからである。
聖書で言えば、”善悪を知る木”の実を食ったからだ。

そしてその樹の実を食わせたのは、サタンとかいう、よくわからない正体不明の生命体である・・・
っ!?・・・
正体不明の・・・生命体・・・?
うーん・・・どこかで聞いたような・・・
ナントカ星という人間には認識できない星に拠点を置くという、集合意識の生命体・・・
認識できない以上、それは”正体不明”といえ・・・なくもない・・・?
ゴニョゴニョ・・・

とにかく、どこの馬の骨ともわからない、所在がはっきりしない者の言うことを盲信する信者たちには頭が下がる思いである。
だが、奴ら、異次元生命体たちは少々、人間を舐め過ぎではなかろうか?
アホの信者たちは騙せても、決して追及の手を止めない者を騙すには、さすがの高次(笑)生命体たちも骨が折れることだろう。
一般に、”信者”と言われる人たちは自ら問い続けることを放棄し、座礁した船の上で互いに手を取り合うという奇特な人たちの集まりなのでしょうがないと言えば、しょうがない。

・・・・・・・

だいたい、私は”ワクワクする気持ち”というものが好きではない。
あのそわそわする感じ、うずうずするあの感じは人々から落ち着きを失わせる。
私のお気に入りの状態は心も頭も静かなときだ。
エネルギーがどこからともなく流れ込み、それが流れ続けているのを感じているのが一番好きだ。あなたも昼下がりの午後ティーや疲れたときの一杯のお茶を飲んでいるときの至福のひとときは好きなはずだ。あの時間はとても心がほっとしているはず。
そこには、何の心配も不安もない。
ただただ、クラゲのように海を漂っているあの感じ。

人々の心が静かなら、この人間社会ももっと静かで穏やかなものになっていただろう。時間も緩やかに流れていたはずだ。
社会は人間が造ったのだから、社会がどうなるかは人間次第である。

いまだに戦争をやらかすバカな二足歩行、というのが私の人類に対する正直な見解だ。戦争をしなくても日々、誰かと論争したり、自分の中で”葛藤という戦争”をする者も同じだ。
それを助長するような事を言うバカ者共もうんざりだ。
タンスに足指ぶつけて悶絶すればいいと思う。
残念ながら、異次元生命体には足指なんてものはないが・・・

スピ系がなにかと敬遠される理由の一つには、彼らが簡単にモノを言いすぎることにある。思ったことが即実現する世界の住人には、人間の苦労がわからないのだろう。そして、その源たるスピリットたち自身、人間に生まれて人生を生きたことがないのではないか、とも思う。だからこそ、人ごとのように簡単に言ってのける。
やれ「手放せ」だの「引き寄せろ」だのと。

彼らはクリーミーマミを知らないのだろう。
人として地球の大地を踏んだことがない、ということだ。
彼女がポジとネガ、という相反する性質の猫を従えてることを。
ガクとリキというボーイフレンドの相反する性質を。

人間の感じる痛みに無頓着なのも気に障る。
地球から離れた位置から見れば、人間の姿は目には映らないだろうし、ただの蠢く微生物くらいにしか思わないのだろう。
人間に生まれ、一度、発狂寸前に至るくらいの痛みでも経験すれば、奴らも少しは物言いが変わるかもしれない。

そして、他の生き物たちへの配慮の欠如も癪に障る。
人間に比べ、動物や昆虫などは感情が希薄なのでまったく興味が持てないのかもしれない。これに関しても、人間のほうがはるかにマシだ。
他の生物への配慮を苦慮し、保護活動をする人たちが少なくないからだ。
人間は痛みを知っているので、他の生物の痛みや苦しみも理解できる。

だが、異次元生命体たちはとにかく、他人の迷惑お構いなしになんでもいいからワクワクをーーー強欲に生きろとのたまう。
こいつらも信者たちも、揃いも揃ってただのクズ集団じゃないだろうか?

-願望実現ビジネスで気を引こうとする者たちー

思ったことを実現させたいなら、まず、人は自分(自我)を否定する必要がある。自我は思考を土台にしているから、どうあっても迷ったり悩んだりするようにできている。抱いた願望に注ぐエネルギーはどうあっても、二元化した2つの方向に流れてしまう。
「叶う」と「叶わない」という2つの方向へ。
だから、仮に叶っても時間がかかる。

また、それだけではない。
「いつかきっと叶うはず」と思い続けることで、未来に投影された願望は未来に置かれたままになる、という事態が起きやすい。
鼻の前にぶらさげた人参を追い続けるお馬さん状態である。
こうした数ある問題を無視して願望実現などとは片腹痛い。

私が人々に、”エゴをやめて本質へ回帰すること”をしつこく口にするのは、本質的な衝動は一元的であるからだ。
魂は一元的である。だから人が本質的なら願望は簡単に実現する。
だが、それにはまず第一に”エゴを否定すること”が切っても切り離せないのだ。

結局のところ、自己否定を口にしない連中は全員もれなく、金のためにいいこと言ってるだけの商人か詐欺師でしかない。Youtubeなどに、これでもかといる輩がそうだ。

自己否定とは自分を拒否することではない。
自分が何者であるか?を正確に理解することである。
自分ではないものを自分である、という思い込みを断つことである。
ただたんに、本来あるべき自分に戻ることである。

だから、人々を思考に同化させ続ける、あのうっとおしい連中はみな有罪である。無論、異次元生命体たちもその中に、もれなく含まれる。

私が彼らを信用しないのはまさにその点にある。
真実を言葉で語ることくらい、いまどき、ナ○キマンだってできる。
キ○ンの被り物してる人だってできるだろう。

だが、自分を否定することだけは、みな、やりたがらない。
本来の自分ではない”自我(エゴ)”に「価値」を置きすぎたことが原因だ。自分に価値がある、という思いは人を気持ちよくさせる。
彼らは「あなたには価値がある」といえば、みんな喜んで付いてくるのを知っている。あることないこと言って肯定し、仲間づらしてればホイホイ寄ってくる。
そして、フォロワーが増えれば金も増える。
エゴなんてチョロいもんだ。

だが、思考に見切りをつけた者までは騙せまい。

この記事をここまで読んだあなたは、もう遅い。
あなたは、何も信じられなくなったかもしれない。
だが、それでいい。
あなたが信じるものはただ一つ、あなた自身だ。

”外側”に真実はない。
外にあるものは、すべて人の思考が投影されている。だから分離したものしか無い。
真実は人の中にある。
あなたの中に。
分離しない領域に。
ウィトゲンシュタインが沈黙した「語り得ぬもの」の中に。
言葉やイメージが無効となるエリアに。

否定に否定に否定を重ねた先に、それはある。

信じる信じないは人の自由だ。
だが、決して追求の手を止めないことを私は推奨する。

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