〇〇信者から自由人へ

”信じる”ってそんなに大切?
もちろん?
ただし、何を信じるか、という条件がある。

自分を信じる、ことは生きるうえでかなりのウエイトを占める。
だが、それ以外の何か、とくに思想とか誰かの言ったこととかを信じることには問題がある。
人が誰かの思想を信じるとき、それは自分自身ではなく、その思想そのものを信じている。思想とは言葉の集合体、そして意味。それらが、自分の本質そのものではない、ということに気づいているだろうか?

ずっと言い続けているように、自我(エゴ)とは思考であり、言葉やイメージも思考の領域にある。だから、自我は言葉とイメージでできている、とも言える。
では、言葉の集合体である思想は?
そう。それも思考の領域にある。
そして思考の領域にあるのは自我。
つまり、思想を信じることは、自我を信じることであり、自分の本質を信じているのではない、ということ。この繊細な違いは、ぜひとも理解しておくことが望ましい。なぜなら、思想はあなた自身ではないのだから。

クリシュナムルティはたびたび、次の言葉を発していた。
「誰かの言うことがどんなに正しく聞こえようが、絶対に追従してはならない」と。
この説明は、神学者の八木誠一氏の話がわかりやすい。

あなたはリンゴは好きだろうか?
その「リンゴ」という言葉は、リンゴそのものではない、ということは容易にわかるはず。「リンゴ」という言葉、または「リンゴの絵」が好きなのではない。食べられる「本物のリンゴ」が好きなのだ。

これはつまり、”真実”という言葉と「真実そのもの」は違う、ということにもなる。だから、どんなに正しく真実を説明しても、それは「真実そのもの」ではない。ただの言葉の集合体でしかない。その言葉の集合体を信じてしまっている状態になっているのが、俗にいう〇〇信者である。

-仏にあいては仏を殺せ-

この言葉がすべてを物語っている。
日本には禅があり、それが残っているのは本当にありがたい。

禅問答では、禅師は弟子に阿吽の呼吸で返答を求める。
弟子は即座に自己の本質から出た言葉を言えれば合格となる。
だが、そこで「仏の教え」を出してしまっては不合格となる。
なぜなら「仏の教え」は弟子自身ではないから。
それは、ただの知識、ただの言葉でしかない。
だから禅では「仏にあいては仏を殺す」のだ。

〇〇信者は、ある話を読み聞きすると自分の本質、魂の言葉ではなく、
自分が信じている思想や考えを自分の脳内で検索し、答え合わせをしようとする。自分の本質がどう感じているか、を完全に無視している。
だから、彼らの最大の特徴は「賛同」か「否定」しかしない。

Youtubeなどでよく見かける、とくに面倒くさいのが、この〇〇信者である。まあひどいコトこの上ない。他人の言ったことを棒読みしているだけのくせに、大先生気取りである。
ただ単に「紹介するだけの動画」なら朗読も無害なのだが。
そうでないから、うっとおしいことこの上ない。
何が「再教育」だ。

具体的に誰とは言わないが、ハゲール・・・だったかな?
バザールだっけ?いや、ゴザール・・・?
チャネラーは確か・・・ダレダ・アンタだったと思う。
うん、これは間違いない。
とにかくこの信者・・・・・・

・・・まあ、なんでもいいや。
例の高次生命体・・・
何を持って高次元なのか、私にはさっぱりわからない。
彼らは何を基準に、高いとか低いとか言ってるのだろう?
せめて高次生命体(仮)くらいにしたらどうだろうか?

宇宙では上も下もないはずだ。
地上で暮らすことを義務付けられ、空を飛べない人類の劣等意識でも投影されてるのだろうか?ニーチェも「人類のすべての苦しみの原因は重力にある」と述べているが、地上にしばれている生物特有の思考「上にいるヤツのほうが偉い」みたいな考えに汚染されまくっているのかもしれない。

それとも、
「体を持たないから波動が軽い」
だから偉いんだろうか?
波動の軽い重いも「上と下」の理屈と同じだ。
「上がそうであるように下もそうである」ことは、先人によってすでに語られている。

人体は小宇宙という考えが昔から、そして今に至ってもある。
それは、どうしたのだろう?我々、人類は宇宙のミクロモデルではなかったのか?世界の神話の中には、「神は自分に似せて人を造った」という伝承が散見されるが、その話はどうなったのか?人体のチャクラと神秘主義が示す「宇宙の階層」は対応しているのではなかったのか?

話を戻そう。

-言葉は言葉、説明は説明でしかない-

もうわかったと思う。
各自の見解、思想などはすべて、その人自身ではない、ということが。
それはどこまで行っても言葉、イメージであり、思考の領域である。それにこだわっている限り、その人は思考の次元、物理次元にとどまる。分離と対立、迷いが起きる次元に。そして本質を見誤る。
言葉やイメージが自己欺瞞を引き起こすのである。このことも、あらゆる先人たちが注意を促してきた。その中でもクリシュナムルティは最も信頼がおける。なぜなら、彼はさんざんあれこれ言っておきながら、最後は人々を突き放すのだから(笑)先にも述べた「絶対に誰にも追従するな」である。
そこには彼自身も含まれている。

彼は瞑想の技術などを一切明示しなかった。
私の覚えている限りでは、彼は「瞑想とは思考を観察すること---思考を観察する、ということは文字通り、思考を見ることである」くらいのことしか言っていない。
人々に技術を提供しても、いずれ、手段が目的になってしまうことをしっかり洞察していたのだ。

彼がバグワンを犯罪者呼ばわりしたのもうなづける。そしてバグワンが弟子に毒殺されたのも。一部の弟子たちは「鼻の前にぶら下げた人参を置い続ける馬」のように、自分たちを感じてしまったのかもしれない。
詳細はわからないが、私はバグワンは好きだった。

〇〇信者は結局のところ、教義が行動の基準になってしまっているため、各自の解釈が異なってしまい、信者の中に不満や対立が起きる羽目になってしまう。そして、〇〇派などと一つの母体から分離が起き、対立し、血が流れる。今も続く宗教戦争、その理由、憎悪や怒りの念は破滅に向かっている。

-思想からの自由-

思想はあなた自身ではない。
思想は思想であり、言葉の集合体でしかない。あなたの見解であっても、自分自身の本質からはしっかり切り離して置いたほうがいい。
もし、あなたの見解が否定され、あなたが傷つくなら、あなたはその思想が自分の一部になっていることに気づく必要がある。
それがあなたの思想であっても、思想そのものはあなた自身ではないのだ。
それをしっかり心に留めておこう。

そうなれば、もう人は自由の第一歩を踏み出したのも同じといえる。
言葉や意味、価値観からの自由は人の意識を自由にする。

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