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「変わっている人」が好きか嫌いか?
「変わっている」って、何だろうと思う。
私は子供の頃から家族や同級生に「変わっている」と言われてきた。
肯定的にそのセリフを言う人もいれば、否定的に言う人もいたため、なるべく普通に見えるように & 自分のことをあまり出さないようにしてきた。
それでも幾度となく言われるため (反応に) 困っていた。
「変わっている」発言にはどう反応しても不正解な気がするし、意図せず日常的に注目 (特に奇異な視線) を集めたいわけではないからだ。
自分が 20 歳くらいの時に、「'変わっている' と思われたい」と思っている人がいることを知り、衝撃を受けた。
確かにその人は「変わっている」かもしれない。
変わっている = 人と違う = マイノリティ
ということだ。
マイノリティ = 理解者がいない (少ない)
ということであり、それは決してラクなことではないはずなのに、その道を選びたがっている人がいるなんて!
個人的には「変わっている」認定されるたび、見えない境界線が引かれ、意図しない自発的な仲間はずれのような感覚を覚え、あまり居心地がいいとは言えなかった。
「変わっている」問題は、その (狭い) 世界の中ではマイノリティである状況でのみ表面化するため、別の世界に飛び込めば途端にマジョリティ側に回り、問題にすらならないこともある。
集団にて露呈しがちな「マイノリティ」は、「ある団体を構成する人員の抽出」が無作為におこなわれていればいるほど顕著に映りやすいのではないか。
たとえば (幼稚園は覚えていないが) 小・中・高は公立で、近い & 自分の学力に見合うところに行っただけだったため、「無作為に抽出された」という意味では大いに該当するだろう。
「似た嗜好」を共通項として選別されたわけではないのだ。
長らく、他者からの「変わっている」発言は私についてまわった。
しかしデザイン系の専門学校に進んだとき、およびファッション系のデザイナーに囲まれて仕事をしているとき、「変わっている」発言をされたことはなかった。
というか、私よりもっと (色んな意味で)「変わっている」人たちが多数いた。私レベルでは到底「普通」の域を出ない。
この時ばかりは「そうだよね? 私結構普通だよね?」と、一種の安心感を覚えた。
何かを表現することは好きでも、自分自身は目立ちたくないと思う人間もいるし、そんなことも意に介さず、突き抜けた才能を遺憾なく発揮する人というのもいるのだ。
現在、クリエイティブ系の人と関わる仕事ではなくなってしまったため、現職では自身の「変わっている」評価が戻ってきてしまった。
仕事はひとりではできないため、色んな人と関わる。
たまに、「なぜ?」ということも起こる。
それが頻繁に起こると、「???」と、自分の理解の範疇を超える。
人の脳の働きや思考回路が複雑に見える。
単純な脳の私は戸惑う。
このような集団に戻ってくると自分はなぜ人と違うのだろう? ということに改めて悩み (というよりは私主観なのでなぜ人は自分と違うのだろう? が転じた悩みなのだが)、実は WAIS-III すら受けたことがある (これは先日書いた「検査好き」も相まって)。
結果として特に問題はなかったのだが、なぜ自分がせっかちなのか、人の記憶と自分の記憶とに乖離があるのか、(いい意味でも悪い意味でも) 着眼点が違うのか、納得がいくところはあった。
物事にはやはりきちんと理由があるものだと思った。
すべてを「脳の (使い方の) 特性」で説明できるわけではないのかもしれないが、相関は小さくないのではないかと思う。
「変わっている」というのは、やはり「大多数 (またはそれを言う人の主観) からの乖離が大きい」と定義して問題なさそうだ。
「変わっていること」というのは、もちろん決して悪いことではない。
私は本も好きだが、漫画もかなり好きだった。特に「異色」と呼ばれる漫画家のものを好んで読んでいた。
小説も好きだが、文字だけで構成されているため、文章のみを読んで想起するイメージは自分の知識の範疇内でのみ形成される。
そうすると「予想外」に遭いにくいのである。
かたや漫画は作者の世界観そのものを、絵を遣い最大限に再現してくれている。
別の世界に連れていってくれる感じの作品が好きだった。
到底自分の頭の中からは出てきやしない言葉、概念。
人の脳の中を垣間見せてもらっているような、ヒトの思考の広さと深さを思い知らされるような。
その発想はなかったわ!
という刺激が快感なのだ。
全然話が変わるが、最近 (一部の間でなのか、全国的になのかは不明だが) ゆらゆら帝国がかなり評価されているということを知った。
当該のバンドは名前しか知らず、音楽を聴いたことは一度もなかった。
しかしそんなに評価が高いのなら、その理由を知りたいと思って何曲か動画を観てみたところ、
『タコ物語』
という曲に衝撃を覚えた。
好きか嫌いかというよりは、ただただ衝撃的。
多分、この感覚なのだろうと思う。
突き抜けてる人が作るものの衝撃って。
あんな曲聴いたことあったか?
ないよね、っていう。
私には 20 年以上ずーっとファンをやっているミュージシャンがいる。
彼らの曲は毎回テイストがかなり異なるが、それでいて毎回「新しさ」と「彼ららしさ」の融合をうまく果たしたものであり、聴き手としては飽きないし、都度新作が楽しみなのである。
しかしそれでも『タコ物語』のような音楽はないように思う。
ゆらゆら帝国を名前だけでも知っていたのは、学生時代の同学年の子が「好き」だと言っていたためだ。
彼とは入学式での座席が隣になったというだけのつながりであったが、多少話す仲ではあった。クラスは違ったため、彼の作る作品のことはよく知らなかった。
が、かなり「変わっている」人だな、とは思っていた。
特定されてもよろしくないだろうから詳細は記載しないが、紙・鉛筆・セロテープを使用して 10 秒くらいで自作したと思しき装飾品を身に付けていたこともあった。
変わっている人たちの集団の中でも、「変わっている」認定されてしまう人はいるものだ。
彼のパフォーマンスは同級生にも理解されがたく、講師陣にはことさらに不評だったように思う。
卒業製作の講評時、作品を見せただけで講師のひとりが「ふざけてる!」と激怒してしまった (それもそれで問題大アリだとは思うが)。
悪いと思いながら彼の様子を盗み見たが、ふざけたつもりなど全くないようだった。
講師が辛辣な言葉を重ねるたびに、彼の表情は凍りついていった。
その頃にはほとんど話すこともなくなっていたため、講評後に言葉をかけることはしなかったが、かなりつらかったのではないかなぁと思う。
自由にしていいはずの場所で、自由にしたら怒られる。
これはつらいよなぁ、と。
今思えば彼はデザイナー志向というよりはパフォーマー志向だったのだと思う。サービス精神が旺盛で、人を笑わせたかったのではなかったかと。
しかしそれを落とし込む先を平面のメディアにしてしまったがため、エディトリアル デザイン (だったかな?) としては評価されないものになってしまった。
そんな彼が好んだものがゆらゆら帝国で、そのバンドがどんなものだったかを少し知った時、理解されない気持ちを救ってくれる存在だったのかなぁと思った。
違うかもしれないけど。
今は私も大人になり、「変わっている」を否定的な意味で言う人はスルーでいいと理解している。
「私とは違うのね」という表現方法のひとつだから。人と人が違うのは当然のことだし、(コントロールしようとして言う場合もあるだろうが) 言いたいのなら言えば良い。
ただ、その真意は訝しがられる場合もあるだろう。人を断定することで、むしろ自分が断定されてしまうリスクもあるのだ。
私は (私から見て)「変わっている」人が好きだ。新しい、自分ではとても到達できない世界を見せてくれるから。
したがって「変わっている」と言われる人は、萎縮せずにどんどん突き抜けていって欲しいと思っているし、世界もそれを望んでいると思う。
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