ドラマティックな演出について
「セッション」という映画が話題のようですね。
こんな田舎に住んでいるので、観るのは当分先になりそうなのですが、ネット社会の悲しさか、情報だけは入ってきてすっかり耳年増?のような気持ちになっています。
かなり話題になっているので、観ていない私がネタバレ的なことを今更書いてもどうってことないと思いますが、要はスポ根サイコ音楽映画というところなのだろうな・・・。と、想像を巡らせています。
しかし、そういう世界を知っている人、または、そういう世界に実際にいる人から見ると、かなりの拒絶反応があるようですね。
そりゃそうでしょ。
と、思うところは多々あります。
というのも、私自身、ある組織に以前は籍を置いていて、その世界ことは、テレビ番組やら映画やらにてくそ山ほどエンターティメント化されていまして、それを観ると、
こんなのありっこねーよ。
と、思わず言ってしまうからなのです。
そんなに我を張る人間は、その世界にはいないし、そんな部署もないし、そんなイケメンも美女もいないし(笑)
(もちろん、全くいないわけじゃないと思うけど)
文句たらたらというよりも、嫌悪感を感じてしまうくらいだったので、その世界から足を洗って20年くらいは、テレビドラマですら観ることを拒否していました。
そういうことってあるのです。
だから、「セッション」を観たその世界の当事者のような人が、それをエンターティメントの世界の話とは捉えられないで、「ちがう。こんなのは違うんだ。」という気持ちは痛いほどよくわかります。
だけど、一方で、「しょうがないよ。こういうドラマを人は求めているんだし、本当のことがエンターティメントとして成り立たないなんてことは、わかりきっていることじゃないか。」と、思っている自分もいるわけです。
こういうのって、本当に難しい。
もちろんどんなドラマだって、全視聴者に理解してもらって、楽しんでもらえるわけがないという大前提に立って作る人間は作っているんでしょうけど、それを悪意のように捉えてしまいがちになる現実を知る人間がいるというのも、避けられない現実なのではないでしょうか。
だから、映画を観る前にこういう頭でっかちの議論が出てくると、話題作りにはいいのかもしれないけど、自分としてはちょっと興ざめのような気がしてなりません。
ちょうど、村上春樹の「女のいない男たち」に収録された「ドライブ・マイ・カー」という作品が文藝春秋に掲載された時、作品の中で、実際の北海道中頓別町を地名として出したところ、作中のタバコのポイ捨ての表現が現実と違うとして町議から抗議されたのと同じように。
でも、やっぱりあれだよなぁ。
上十二滝町よりは、中頓別町の方がいいような気がしないでもないのだけどなぁ。
これは、自分が中頓別町に住んでいないからきっと思うところなんでしょう。だから、エンターティメントの世界にリアルを求めるのは無粋というものなのかもしれないと、そんな風に感じるのです。
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