ハッピーエンド
早稲田文学を読んでいる。
今日は、『ハッピーエンディングな話を聞かせてくれよ』という往復書簡を読んだ。
これは、イスラエルがガザへの地上侵攻を開始した数日後にアメリカへ脱出したイスラエル・パレスチナ人作家のサイイド・カシューアと、その友人のユダヤ系イスラエル作家・映画監督のエドガル・ケレットと国籍離脱者としての人生についてのやりとりである。
「え?イスラエル人とパレスチナ人が友人同士?」
と、単純な自分は思ってしまったのだけど、どんなにいがみ合っていようと日本人だって韓国人、中国人の友人がいる人はたくさんいるわけだから、それは当然のことなのだろう。
ただ、自分には一人もいないのだけど。
そもそも、サイイド・カシューアさんは、イスラエル国内にありながら圧倒的にアラブ人が多いティーラに生まれているのだから。
それでも、イスラエルの中ではアラブ人はアラブ人というだけで攻撃される可能性がある現実が時代の流れ?うねりの中にはある。
だからサイイドさんは『自分の中の小さな戦争に負けて』アメリカに、永遠の国外移住になるかもしれない研究休暇を過ごしている。
なんともやりきれない気持ちになる。
いくら国が争っても、そこに住んでいる人にはそれなりの人間関係があって、それは、月日とともに築かれたものなのに、大きな力は、小さな時間の積み重ねなんて、いとも簡単に引き離してしまう。
それでもこの二人は、「コート選びに妥協しない」とか、イスラエルに住む友人が「暴力と戦争機構に反対し、あえてイスラエルの世論とぶつかる意見を表明して、大変な目にあっているのは知っているけど、それでも僕は君に手紙を書くよ。」と気持ちを伝え合っている。
それを読んでいて、ものすごくくだらないことなのだけど、知り合いの夫婦の関係とよく似ていると勝手に感じてしまった。
傍目には『あまり仲のよくない夫婦』と映るその夫婦。
実際、奥さんの方は夫の暴言やときには暴力に怯える日々を過ごす。
でも、「どこにも行けないし、ここまできたら旦那が死ぬまで待つ。」なんてことを言いながら、半ば諦めたような目で話をしたりしている。
さらに、自営業を営んでいるため、ずっと二人は一緒にときを過ごしている。
夫の方も、彼に言わせれば『出来のよくない』奥さんや子供に腹を立て、「どうしてこんなこともできないんだ?」と日々葛藤している。
しかも彼は都内出身。なんの因果かこんな田舎に来て、奥さんと自営業を営んでいる。それは彼自身が決めたことではあるけれど、同じ日本語を話しているにもかかわらず、奥さんだけではなく地域の人間が話す言葉(それは方言であるだけではなく、その意味ですら)が全く理解できない。
「理論が破綻している。」
「理屈がおかしい。」
と、一刀両断している。
彼の考え方や言いたいことは自分としてはよくわかるのだが、そういうことが通用しないことがままあるのが、同じ日本の都心と地方ということになる。
自分自身、二世代くらい遡って考えれば理解できるようなことが山のようにあった。
とにかく、そういうことなのだ。
彼自身、それは理解はしているようなのだけど、気持ちが追いつかない。
そして、高学歴な彼は次第に地域の人間を馬鹿にするようになる。
それは自営業としては致命的だ。
しかし、彼は「俺の意見は時代に沿っている。だから正しい。」と言って、それを当然と思うようになった。
田舎の人間は、ダメだ。
特に年寄りはダメだ。
だから地方がダメになるんだ。
だから、差別されても当然だ。
努力をしない奴は、努力をしてきた人間、努力をしている人間より劣る人間だからだ。
結果、彼は自分の子供ですら蔑まなければならない。
それは彼自身とても辛いことではあるけれど、そうしなければ理屈が通らない。
そんな気持ちのすれ違いは、彼の家族と地域だけでなく、彼の家族自身も分断してしまった。
いきなり「そこに国を作ればいいさ。」と言われたユダヤ人に追い出されたパレスチナ人。その国に住むアラブ人を蔑まなければ国が維持できないイスラエル。
同じ国の人間なのに、暴力に怯えるアラブ人。
お互い理解できるところはあるはずなに、それをすんなり受け入れられない環境がそこにある。
戦わないと、攻撃しないと、いけない理由もある。
誰だってハッピーエンドを欲しがっている。
自分だって、ハッピーエンドを望んでいる。
だから考えるしかない。
今は、いくら無駄かもしれなくても、関係がなくても、考えるしかない。
当事者がもう諦めていたとしても。
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