戦わなければ勝てない
杉田水脈論文が話題になったとき、実は新潮45を購入して読んでみた。
確かに「生産性がない」という表現はないんじゃないかという気はしたけど、全体的にはそれほど突拍子も無いことが書かれているとは正直思わなかった。
もちろん「生産性がない」という言葉尻を捕まえてしまえば、いくらでも批判はできるとは思う。子供を作ることだけが人間の生産性ではないわけだから。
彼女のオウンゴールは、この点だけだったような気がする。
数年前、多分5年くらい前にネット上でこんな話題をみつけたことがある。
「トランスジェンダーの人は、公衆浴場でどちらのお風呂に入るべきか?」
確か漫画で描かれていたような気がする。
あるトランスジェンダーの男性が性転換手術後に男風呂に入るというものだった。
自分は戸籍上は男だから男湯に入る。
そして、そこでみつけた自分の好みの男性と・・・。
というようなものだった。それを読んで、「?」と思った。
手術をしてあればその手術後の性のお風呂に入るべきではないか?
いや、でも、元男性という人が女湯に入るというのは、どうなのか?
また、同じ頃、知恵袋的なところだったかな?これは文章で書いてあったのだけど、こんなこともあったようだ。
大学でトランスジェンダーという男の子と仲良くなった。彼は身体こそ男性ではあったけど、話すことや趣味嗜好など、全部女の子と言っていいほど女性らしかった。
そういうことで差別をする気持ちは私たちには全くなかったので、彼とは女友達としてサークルの中の女性みんなが付き合っていた。
もちろんトイレも女性用を使っていた。
それに関して男友達は、「いい加減にしろ!」と怒ったこともあったけれど、トランスジェンダーの彼は悲しそうな顔をしてその男友達を見るだけだったので、私たちはそんな彼を庇ったりしていた。
そんなとき、サークルの合宿で温泉に泊まることがあった。もちろん彼は私たちと同じ部屋。
そして、お風呂も女性用に入ろうとした。
流石に身体は男性の彼が一緒にお風呂に入ることに少し抵抗があったけれど、
「〇〇君は心が女の子なんだから!」
と言われ、そういう気持ちは差別なのかと思って一緒に女風呂に入ることになった。
するとある女の子が悲鳴をあげた。
彼は股間を大きくしていた。
それをみた女の子たちは皆悲鳴をあげ、バスタオル一枚で脱衣場を飛び出し、悲鳴を聞いた男子部員が彼をお風呂から引きずり出した。
「お前らが甘い顔するから、こういうことになるんだ!」
と、その男子部員に言われた女子部員は、恥ずかしさと信頼を裏切られた悔しさで涙が止まらなかった。
なんていうような話だったと思う。
ネットで探せば出てくるかもしれない。今はそんな気力はないけれど。
もしかしたらこのトランスジェンダーを名乗った彼は、トランスジェンダーのレズビアンだったかもしれない。もしかしたら、バイセクシャルだったかもしれない。
そもそも、トランスジェンダーであるということが嘘だったかもしれない。
彼の股間がそういう状態になるということは、そういうことだと想像しかできないけれど、自分としては嘘をついてまで女風呂に入ろうとは思わないし、そのあとのことを考えると、とても恐ろしくてできないとしか思えない。
何が言いたいのかというと、杉田水脈論文にあるように、セクシャリティの多様性を追求していけば、すべての性に合致するような施設を作らなければならなくなるし、そんなことは社会インフラとして到底無理ということになりかねない。ということに帰結してしまう。
それでもそれを整えるために、少なくとも公共機関のトイレくらいは整備をして欲しいということなのだろうか?
自分の友人にとても背の高い女性がいる。
彼女は大概誰でもトイレ(いわゆる多機能トイレ)に入るという。理由はただ一つ。
「よく、男性に間違われるから。」らしい。
そんなことないよと口で言うのは簡単だが、彼女の話だと、そう言うわけにもいかないらしい。
もちろん彼女はトランスジェンダーではなく、子供も2人育てている立派は母親でもある女性である。育児のため長い髪の毛を切り、普段作業着を着て働いている。
そんな屋外作業が仕事の彼女だから、仕事の間利用するトイレは公衆トイレがほとんどだそうだ。トイレに入ろうとすると、まずそこにいる女性から
「ちょっと!女性用ですよ!」
と注意され、用を足して手を洗っていると、
「あ、すみません間違えました。」と入ってきた女性に謝られ、
時々悲鳴をあげられることもあるそうだ。
しかし、だからと言って男性用のトイレに入ることはためらわれるし、何より「汚くて嫌」らしいのだ。
そう言う彼女は、健常者ではあるけれど、多機能トイレがあればそこに入ると言う。
健常者が多機能トイレを利用することに対しても非難はあるらしいが、多機能トイレを使うことで、怒られることも、悲鳴をあげられることも、意味もなく謝られることもないと彼女は言う。
そう言う意味で「多機能トイレ」の普及と、それを利用する人への理解というものは、ヘテロセクシャルの人も理解していかなければならないとは思う。
だが、トランスジェンダー用のお風呂とか、ゲイ用のお風呂とか、ビアン用のとか、そんなものまでは正直無理だと思う。
温泉施設にしても無理だろう。
もしそんな法律が施行されたら、全部の入浴施設は混浴にでもするしかない。
それはそれで、いいような悪いような気もしないでもないけれど。
ただ、LGBT当事者の方はそんなことに反論したいわけじゃないだろう。
「生産性がない」と言われたことに対するショックのあまり、ヒステリックになってしまった部分があったのではないだろうか?
もしそうであったら、それは十分理解できるし、子供のいない夫婦や独身の人も同じようにショックを受けたことだと思う。
そう言う部分では、彼女は軽率だったし、国会議員として書く文章にしてはあまりにも配慮がたりなかったとしか言えない。
ただ、それとは別に新潮45が廃刊になってしまったと言うことに関してはどうなのか?
もちろん「差別」と言うことに対して声を上げるなと言うことではない。そして、炎上したからといって30年以上続いた雑誌を実質上の廃刊にしてしまう会社の体制というものに対しても疑問がある。しかし何よりも、一つの事象に対してその事実をきちんと知りもしないで大騒ぎをしてしまう民衆や、内容をきちんと報道をしないマスコミに対して一番疑問を感じてしまう。
「生産性がない」と言われてしまった性的マイノリティーの人の気持ちがわからないわけではない。そういう差別はいけないとも思う。
だけど、まだまだその偏見は拭えないような気もしないでもない。
実際、そのあとの小川榮太郎氏が書いた文章から性的マイノリティーに対する理解不足としか言いようのない表現が多数あった。
これに対しては件の小川氏よりもちろん反論はあるだろうけれど、やはり理解はできていないと思う。
けれども、例えばそういう差別の歴史というと大袈裟だけれども、一つの差別の例をとってみたら、それは当たり前なのかと思える部分もあったりする。
例えば、女性差別。
こんな長い差別の中にある差別もないかもしれない。LGBTに対する差別よりも、黒人に対する差別よりも、宗教に対する差別よりも、身分制度に対する差別よりも、もしかしたら長い間差別されていたかもしれない。
元始女性は太陽であった。
けれども、そこから現代に至るまでずっと差別の歴史は続いているし、男性から理解されることだってありえないのかもしれない。それでも、だいぶマシにはなっている。
奥さんを競売にかける制度はもうないし、女の人が財産を持てるようにもなっているし、選挙権も被選挙権もあるし、男と同じ仕事に就くことだってできる。
平塚らいてうが戦ったから今があるのかもしれない。もちろんそのほかの女性の活動が今の社会を作っているのかもしれない。あるいは田嶋陽子さんとか。
ただ二つの性という理論の片一方の性ですら、これだけ長く戦わなければいけなかったし、これだけ戦ってもまだまだ本当に平等なのかと言われたら、そうではないという人も少なくはないだろう。
人類の半分近くいる女性の差別ですらその程度だということは、性的マイノリティーの戦いは、始まったばかりだし、数的にはとても不利とは言えないだろうか?
だから女性運動よりも、もっともっと戦わなければならない。
それなのに、結果的にその戦える場所が一つなくなってしまった。
性的マイノリティーに対する理解への戦いは、多分女の人がここまでの権利を獲得するまでに流した血と同じくらいの血を流して戦わなければ、今の女性と同じだけの理解は得られないだろうと想像する。
そうであれば、あえていうと、血を流す場所は必要ということになる。
その血を流す場所が戦場であるのならば、戦場の一つであった新潮45の廃刊は、実質的にはLGBT側の敗戦と言えるかもしれない。さらにこういう前例があれば、あえて
「うちを戦場に使ってください。」
という場所を提供する人もいないのではないかと、危惧してしまう。
ネットの世界は多種多様ではあるが、やはり人は選ぶ。
そして、そこに選ばれない側に大勢の偏見を持つ人間がいる。
多様性を理解できない人間がいる。
人は生まれたら、異性と結婚して、子供を3人作る。
それが一人前なんだ。
それが偏見と思えない人がまだまだ世の中にはたくさんいる。
そういう人が死ぬまで待つという持久戦しかできなくなってしまったような気がするので、新潮45の実質的な廃刊が本当に残念でならない。
戦い方、いわゆる戦術を少し見直さなければ、偏見の克服は遠くなってしまうのかもしれない。
今回の件で、マスコミを味方につけるのは、本当に危険なことだと実感してしまった。
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