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日記 20220728
旅先からこれを書いている。Bluetoothキーボードを家に忘れてきたのでまた単なる雑記である。二年前なら旅なんてけしからんということになるのだろうが、行動制限はしないという方針を真正面から受けとった。密は避けて平日に出かけているなど最低限の配慮はしているつもりだ。大人だけなら我慢もしようが、子供が家にいると、こんなことで能力・情緒的成長の機会が失われてしまうことがどうしても気にかかる。
そう、私にとってコロナは結局「こんなこと」なのだ。コロナ発生当初からうっすら考えていたのだが、大体、このような疾病ごときで右往左往するのが間違っている。人類だけが尊いという考えのもと、自分たちが生き延びたいがために騒いでいるが、地球全体からみたら人類は少し思い切って数を減らしたほうがいいし、本来ならコロナは自然が用意した、その絶好の機会だったのではないか。こんな考えは非常識で冷酷すぎるだろうから現実世界では言えないが、なにかの本で新井素子がパンデミックや人類移住計画の推進によって「たくさん死ぬなんて素敵」と発言していたので、物書き、あるいは一部の夢想家はこんな思考をしてしまうどうしようもない種族なのだと諦めている。
家族が寝たあと大浴場に行った。久しぶりに夕食で日本酒を飲んだが、これから仕事をしたいので酒を抜こうと思ったのだ。二十代のころ、どんなに酔っ払っても、日付を超えての帰宅になっても、風呂に入って酒を抜くのがならいだった。良くない習慣だとは知っていたが、最低でもシャワーを浴びないと翌朝確実に酒が残る感覚があったのだ。
酔っ払って新幹線のホームから線路に落ちても死ななかった、私と同じ習慣を持っていた伯父が自宅の風呂場で亡くなってから、その習慣は本当に危ないのだと知って止めた。しかし久しぶりに飲酒風呂をしてみると、やはり独特の心地良さがあるように思ってしまう。それはただ、過去の記憶の残滓が甘く感じられるだけなのかもしれないけれど。
ちなみに、その伯父が新幹線の線路に落ちたのに死ななかった訳は、器用にも新幹線のレールの合間に転がってぐーぐー寝ていたのでかすり傷で済んだということであった。
午前中高速を運転していて、最近の私の生活は降りられない高速に乗っているようだと思った。一旦乗るとすぐには方向転換できず、判断のタイミングが難しい上に、すぐ判断せねば好機は過ぎ去ってしまう。左右の景色を見る余裕はほとんどなくて、主に前に(たまにミラーという不完全な道具で後にも)注意していないといけなくて、その場しのぎの判断を重ねながら、なんとか目的地らしき場所に向かうしかない。道にずっと乗っていなければならないのだとしても、せめて一般道、あるいはパーキングエリアに入る余裕が欲しい。パーキングエリアの役目を果たしていたのが創作だった、などとうまいことを言うつもりはない。敢えて喩えるなら、創作は、停車すると思っていた駅が謎ルールで通過になってしまって降りられなかったり、降りても路頭に迷う駅ばかりだったりするような、降りられない、慣れない田舎のワンマン鈍行列車であったはずだ。
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