この「感じ」を大事にしたい~私が学校をやめた理由~
ワークショップに参加しているとき、あるいは何らかの活動をしている時、突如として、場のなかに、こんな色のうずがおこって、ふわふわした、なんともいえない暖かい雰囲気を感じることがある。私はそれがとても好きだ。そのときはたいてい、そこにいる人はみな、体の力がぬけ、なんともいえない、いい表情になっている。その風景を眺めるのも大好きだ。居心地のいい場というのはそういう色になる場面がちょこちょこある場なんじゃないかと思っている。
ただ、ずっと、その「感じ」を言葉にできないもどかしさを感じてきた。
とかく、今年はそうだった。
学校の授業の中で、ちょっとしたシアターゲームや活動をしたときに、こういう色のうずがおきることがある。私は喜びいさんで、同僚のところへ行き、伝えようとするが、なかなかわかってもらえないことが重なった。
「それで?」と言われたり、「楽しいだけじゃ・・」と言われたり、そして、最後には、私が何か発案するたびに、学校側から、それはどういった力をつけようとするものなのか、CANDO指標にもとづいて説明をすることを逐一求められるようになった。
この「感じ」をわかってもらえない、理解してもらえない、認めてもらえない、価値をおいてもらえない・・わかってもらえないくやしさを抱えていた。
けれど、ついに、それを言葉にしてくれている本に出会った。
笠原広一『子どものワークショップと体験理解ー感性的な視点からの実践研究のアプローチ』(2017 九州大学出版会)だ。
この本の中で、その「感じ」は、スターンのVitality Affectという概念をもとにして、こう説明されている。「相互にかかわり合う情動的な触れ合いの中で感じられる情動の力動感であり、生き生きとした参加者の姿に満ちている生命力」「それは具体的な相互行為と同時に存在している体験の質感であり、共にあるという対人コミュニオンの実態にあたるもの」(p.73)。また「言葉のニュアンスや身振り、表情や仕草に思わず表出される「感じ」として、いつも何か間主観的に感受される相互浸透的(transaction)な体験の位相」と(p.60)
「間主観的」「相互浸透的」結構むずかしい概念。
私の理解では、「間主観的に感受される」とは、相手の思いを受け止めつつ、自分の思いを表現し相手に伝える、自分の思いを表現しつつ、相手の思いを受け止める・・そういうことをしている間に、何か実感をもって感じられるということ。「相互浸透的」というのは、人と人、人と環境との間のへだたりが溶けてなくなっていくこと。
そして、その「感じ」は学校教育のねらいとは別の次元にあることも指摘されている。学校教育では、明確な目的やねらいに即して学習者に働きかけて、望ましい状態へと変化させていこうという狙いがある。だから、授業によって、学習者がどのような変化をとげて目的を達成することができたのかが一番大事なポイントになる。一方、その目的志向のベクトルの中では、この「人間相互の感性的体験」とか「力動感」とかいうものは、ほとんど意味をもたないし、価値をおかれない。
あ、だからか。私が、学生同士がこんなふうに生き生きと語り合ったりする、いい雰囲気になったんですよ、と興奮気味に話しても、「それで?」と言われたのか、「楽しいだけじゃ・・・」といわれたのか、今、やっとわかった!!
今、そのことがようやくわかって、とてもうれしい。
学校側から、「〇〇先生(私)が一生懸命に走って行く方向と学校が求める方向とは違います」と言われて、やめる決心がついたのだが、本当にそのとおり、方向が違っていたのだ。価値をおくところがちがっていたのだ。
それがわかって、今はとてもすっきりした気分で、次の一歩を踏み出せそうだ。