底辺医師、「乳がんかもよ」と言われる

 運命の境目は、職場の健康診断の前夜だった。先延ばし癖のあるあざら子は、健診の問診票を無事前夜まで先延ばしにしていたのである。というか、問診票や尿検査容器など一式の入った封筒を、前夜まで開けなかった(※健康診断の直前は、食事禁止時間などの指定があるため、良い子のみんなはあらかじめ開けて確認しておこうね)。
 型通りの問診票を埋めていき、脳ドックの広告の紙をハイハイと紙ゴミ入れに放り込み、ふと女性がん検診の問診票で手を止めた。あざら子、30代前半でありながら、いまだに女性がん検診を受けていない。いやあ、オプション検査って、お金かかるし、ねえ。
 ただ、あざら子は実は最近入籍したばかりであった。こんな根暗コミュ障オタクでも、いい人が見つかれば人生の伴侶は得られるらしい。閑話休題。とにかく、独身の頃ならいざ知らず、現在のあざら子は大病をすると家族に負担と迷惑がかかる身となってしまった。そんなわけで、「まあ仕方ないか」と、オプション検査申込表の、マンモグラフィと子宮頸がん細胞診にチェックをつけたのである。これが運命の境目であった。
 ちなみに、乳がん検診にはエコー検査もある。マンモグラフィとエコー検査療法を行うことをお勧めされているが、あざら子は面倒なので受けなかった。自分を大切にしたいなら、両方受けたほうがいいとは思う。

初めてのマンモグラフィ

 マンモグラフィ、痛いと聞いていた。なにしろ乳房を引き延ばして押し潰してペシャンコにしてレントゲンで撮影するという、野蛮な検査である。なんで野蛮な検査がまだ残っているかって? 意外とこれが有用で、しかもレントゲン検査程度の放射線被曝だけで行えるから、患者への負担も少ないからだ。なお、痛みは度外視するものとする。
 あざら子はデブである。腹にも胸にも存分に脂肪がつき、乳房はEカップを手に入れてしまっている。どう考えても押し潰したら痛い。だが、怯えることは底辺でも医者としてのプライドが許さない。
 そんなわけで、表面上は何食わぬ顔をして検査に挑んだ。検査技師さんは親切で、こちらがマンモグラフィ初めてだと知ると、「引っ張ったり挟んだりしますから、辛かったら言ってくださいね」と微笑んでくれた。優しい。
 そしていざ挑んだマンモグラフィ。結論から言えば、そんなに痛くはなかった。思春期にホルモンバランスで胸が張った時の方がよっぽど痛かった気がする。右、左、それぞれ縦と横に乳房を押しつぶし、レントゲンをぱちり。これで全部だった。なーんだ簡単じゃん。これならまた受けてもいい気がする。

 ちなみに、健診が終わった後、絶食が辛くてベーカリーカフェで爆食いをした。美味しそうかつカロリーが高そうで血液検査に引っかかりそうなパンをほいほいとトレーに乗せてレジに行って、「イートインで」と宣言すると、店員さんが「これ全部イートインということでよろしいですね?」と確認してくれた。ええ全部食います。デブを舐めるでない。

そしてその日の午後のこと

 その日の午後である。当日のことである。
 あざら子は普通に出勤日の朝早くに健診を受けていた。健診が終わったら、存分に朝ごはんを楽しんだ後、遅刻して出勤して普通に勤務したわけである。そんなわけで、その日の午後は普通に職場にいた。うっかり血糖値スパイクで昼休みに沈みかけていたが、起きてからはちゃんと仕事をしていた。そんな時、デスクの片隅に置いていたスマホがぷるぷると震え出したのだ。見たことのない番号だった。まあ、あざら子のスマホの連絡先は10件くらいしか登録してないので、たいてい見たことのない番号である。
 その場で出ても良かったのかもしれないが、なにしろ一応は勤務中の身だったので、そのまま電話を見送った。その代わり、表示されていた電話番号をググってみた。すると出てくる出てくる、「検診センター」の文字。
 いやこれ絶対何かあったやん。
 体調不良で病院を受診する場合と違って、健康診断は基本的に病気を持っていない人が「今のところ大丈夫ですね」と確認するために受けるものだ。だから結果も急がない。なのに受けた当日に電話が鳴るというのは、ちょっと尋常ではない何かがあった場合だ。悲しいかな、その辺の時間感覚は医者として持ち合わせていたので、「検診センターから当日電話が来た」と認識した段階で察するものがあった。
 さすがにこれは無視してはならんと思い、同僚に断って通話可能エリアに行くと、折り返し電話をかけた。電話口は優しそうな女性で、検診センターの読影医(検査の画像を専門に読んでくれる医者)だという。「あざら子さんのマンモグラフィを拝見してですね」の段階で、話が読めてきた。これはある。しこりがある。

 とは言え、この段階ではあざら子はまだ舐めてかかっていた。「検診に引っかかる」という状況は、結構幅がある。「なんかちょっと心配だから一応精密検査受けておいて」から、「これもう本当にやべーから今すぐ病院行って!」まで、状況はさまざまなのだ。なので、「検診当日にマンモグラフィがですねと言われた」だけでは、「乳がんぽいものがあるかも」以上の情報は得られない。と思いながら話を聞いた。
 電話口の読影医の先生は、まさか電話相手の受診者が医者の端くれとは思うはずもなく、ごく平易な言葉で丁寧に説明してくれた。ちょこちょこ「こんな話をされて大変ショックかと思うのですが」が挟まるのが優しい。あざら子も、うっかり「医者です」なんて名乗って忘れかけている専門用語を多発されても藪蛇なので、うんうんと話を聞くことに徹した。そんな優しくて丁寧な読影医の先生の話を総括するとである。
「右乳房C領域にカテゴリー5の石灰化像があるのでとにかく今すぐ病院に行け、病院も個人クリニックじゃなくてチーム医療を提供してくれるやつに行け」
ということであった。さあて、話が変わってきたぞ。

マンモグラフィの所見について

 ぶっちゃけマンモグラフィの所見なんてだいぶ忘れてしまっていたので、改めて持っている教科書を引っ張り出した。ここに書いてあるのはざっくりした表現なので、詳しいことは大きい病院の解説サイトか、成書を参照してほしい。こういうブログとか、「医療情報ポータルサイト」みたいなのは、結構間違っている場合もけっこうあるので、話半分に読んでいた方がいい。

  • C領域ってなんぞや

 C領域というのは、乳房をA〜Eの五箇所(正確にいうと、C'とE'があるので七箇所)に分類した時のどこにしこりがあるのか、という話だ。
 乳房を、乳輪部分(乳首の周りの茶色のところ)が穴のドーナツみたいな形に見立てて、真ん中縦横の線で四分割する。そうすると、内側上、内側下、外側上、外側下の四つになる。これが順番にA〜D、乳輪部分をEとよぶ。頭の中で画像が思い描けなかったらググってほしい。多分たくさん出てくる。
 C領域というのはこの「外側上」の部分のことで、実はここは乳がんの好発部位だったりする。他のところにできないわけでもないのだが、乳がんといえばC領域だよね、というのは乳腺外科を知らない医者でも知っている。
 私は右乳房のC領域だったので、右胸の脇の下に近い領域にしこりがある、ということになる。

  • カテゴリー5ってなんぞや

 「カテゴリー」というのは、マンモグラフィでしこりを見つけてしまった時、それがどのくらい悪性腫瘍(=がん)っぽいのか、あるいは良性腫瘍(=がんではないしこり)っぽいのか、というのを指す分類である。1〜5まであって、数字が大きいほど悪性っぽい。
 表現としてはざっくり、

カテゴリー1:異常なし
カテゴリー2:良性
カテゴリー3:良性、しかし悪性を否定できず
カテゴリー4:悪性の疑い
カテゴリー5:悪性

year note 2019

となる。カテゴリー3以上の場合は、悪性腫瘍でないか精査をしなければならない。
 じゃあこのカテゴリーはどう決まるのかという話になると、途端に専門ぽくややこしい話になってくる。具体的にはしこりの境界部分や石灰化の形態、分布などを見るのだが、こういうのは医者を志す人以外はあんまり関わらなくていい話なのでほっといていいと思う。
 まあとにかく、私はカテゴリー5と診断されてしまった。画像だけでは確定診断にならないのだが、まあつまり、「マンモグラフィ的にはほぼ間違いなく乳がんですよ」という話である。


 だいぶ笑い事では済まない話になってきたのだが、宣告された時の素直な感想を述べれば、「これは一大イベントが発生したぞ!?」という興奮だった。
 あざら子は医者で、初期研修中に乳腺外科を垣間見ることもあった。だから、ごく軽くさっくり手術して元気になっていく初期の人から、転移だらけで根治は望めない末期の人まで、たくさんの乳がん患者を知っている。だから、「ほぼ乳がんです」という宣告をされても、よく想像されるような「がん!?私死ぬんですか!?」みたいなショックはなかった。がんの場合、「がんであること」より、「どのくらい進行しているか」が重要なのだ。
 また、今まで見てきた乳がん患者にはあざら子と同じアラサーの人たちも一定数いたので、「なんでまだ30代前半なのにがんなの!?」というショックもなかった。がんの情報に詳しい人は「AYA世代のがん」なんていう表現を見かけたことがあるかもしれないが、数が少ないなりに若いうちからがんを発病してしまう人はいる。もちろんレアケースであるのは事実だが、たまたま自分がそれに該当してしまっただけのことである。
 そんなわけで、読影医の先生が心配してくれたような悲壮感はあんまりなかったのだが、非日常のイベントであることは間違いなかった。なので、多分興奮していた。

 興奮はともかく、とりあえずはまずは重大情報なので家族に共有せねばならないと思った。なので夫にLINEを入れた。夫は医療関係の仕事ではないので、いきなり「乳がんになりました!」と言うと夫の方が動揺するかもしれないと思い、「検査に引っかかった」「わりとやばそう」という表現にとどめ、病院で精査するという情報共有だけした。これは我ながら理性的な対応ができたと思う。
 ただ、こんな理性的な情報共有だけでは、「非日常!非日常!一大イベント!」と不謹慎に興奮している私の気持ちは落ち着かない。そこで、大学時代からの友人で、本人も医者をやっている人間に洗いざらいぶちまけることにした。彼女なら、友人が乳がんと診断されたらびっくりするだろうが、「ステージが決まるまでなんともいえない」という医者の感覚も共有できるし、私が元気よく笑っていれば、落ち込んでいないから大丈夫そうだなと察してくれると思ったからである。そんなわけで、「告知された本人だから許される、不謹慎なまでのハイテンションLINE」を送りまくった。このあたりで、私自身、自分でもようやく「興奮しているな? 平常心ではないな?」と気付いた。いやだって非日常なので。

送りつけたLINEのスクショ。テンションが異常

 そんなわけで、底辺医師、乳がんかもと言われました。ここからどう転ぶのか、不謹慎ながらちょっとワクワクしているところがある。
 この先は、専門の病院で改めて検査、確定診断、ステージ判断、治療方針決定となっていくはずだ。そのくらいは底辺あざら子でもわかる。なので、また精査が進んだら記事を書きます。

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