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親あざら子、降臨する

 どうも、2回目のMRIも無事スヤスヤし、MRI居眠り率100%を維持し続けている底辺医師あざら子です。MRI絶対催眠波か何か出てるよ(出ていません)。

 さて、今回の外来は、MRIの結果説明と、先日行った遺伝子検査の結果説明、今後の方針決定の三本立てである。ようやく今後の方向性が決まりそうで、オタ活のスケジュールが立たなくて憤懣やる方ないあざら子としては大歓迎の日だ。夫氏は今日も元気に出かけているので、いつもの通りあざら子ひとりで病院に行く。
 つもりだったのだが、ここでとある人が立ち塞がった。何を隠そう、あざら子の母親である。
 立ち塞がると言っても、何も治療を妨げようとしているわけではない。母あざら子はそれは愛情深い人で、あざら子は母からの愛情を一身に受けすくすくと育った自覚がある。ただ、強いて欠点を挙げるとすれば、愛情深すぎて子供のトラブルでパニックになりがちなところだろうか。
 なにしろがんなどという大仰な病気になってしまったので、最低限の情報共有は親にも行っていた。そこで、あざら子本人に全然足りていない悲壮感やパニックを一身に背負い、「がん!?!?!?!?!?」と衝撃を受けてくれたのが母あざら子である。そのパニックたるや、「がんになったの誰だっけ?」レベルではあったが、あざら子も伊達に三十云年娘をやってはいないので、母がパニクることは予想の範疇ではあった。なので、取り急ぎの速報はLINEで送りつつ、文字だけだと母が無駄に心配するだろうと後日改めて電話をかけて、こんなに元気だよ、と声を聞かせたつもりであった。
 それでも納得できないのが親心というものらしい。外来の数日前に、「受診についていかなくて大丈夫?」という連絡が入り、なんやかんやとやりとりをして、結局今回は母あざら子同伴での受診となったのである。

 病院の最寄駅で落ち合い、散歩がてら病院まで歩く。もちろん開口一番「大丈夫?」と聞かれたのだが、あざら子があまりにけろりとしているので、母もどうやら杞憂だったと察したらしく、だいぶ表情はやわらいでいた。
 病院への道中の話題は、先日あざら子が行った旅行の話である。がんの話をしてもいいのだが、なにしろまだ何も決まっていないから話す内容もないし、母あざら子は医療関係者ではないので、医者あるあるネタみたいなので盛り上がるわけにはいかない。つまり無難な他の近況報告をする以外にやることがない。平常運転の娘の顔を見た母あざら子もだいぶ落ち着いていて、特に悲壮感を再発させることなく病院に到着することができた。
 外来では、もう流石に顔馴染みになったベテランドクターといつもの看護師さんが出迎えてくれた。二人がおや、という顔をする前に、母あざら子が「母です」と挨拶する。あざら子が紹介しなくても勝手に名乗ってくれるのは面倒でなくてありがたい。ベテランドクターは、一応「お話しする内容が全部お母様に伝わる形になりますが、よろしいですか?」と確認を入れてくれた。昔は「本人には病名を伏せつつ、家族と方針を相談」というのががん治療の主流だった時代もあるらしいが、今は「本人にはきちんと告知、病名や治療方針は個人情報でもあるので、家族といえど伝えていいかは本人に確認を取る」というのが基本スタンスである。本人が連れてきた付き添いとはいえ、きちんと確認を入れてくれるところが、さすがベテランといった感じだ。
 ドクターは新顔の母あざら子に対して、もう一度ここまでの検査の経過を説明してくれた。もう話を聞いているあざら子は、画面に出てくる病理検査報告書をぼんやり眺めておく。ここで気づいたが、よく見たらきちんと「浸潤性乳がん」と書いてある。「浸潤」というのは、乳がんの細胞が、乳管組織を食い破ってその外側まで広がっていることを指している。非浸潤がんならば、他への転移などのリスクはかなり小さいのだが、浸潤がんとなると、食い破った細胞が際限なく転移してしまうリスクが発生し始めるので、少々用心が必要になってくる。ここは普通に見落としていた。あざら子の目が節穴なだけである。
 母あざら子向けのここまでの復習が終わったところで、あざら子がそれは気持ちよく寝た受けたMRIの結果説明となる。全身のMRIでは、あきらかな転移はなさそうとのこと。乳房MRIでは、乳管内進展が疑われるという話であった。この辺の話はあざら子も初耳の話のはずなのだが、あまりに淡々としているあざら子なんかよりも、こまめに相槌を打ってリアクションの大きい母あざら子の方が話しやすいのかなんなのか、なんかドクターが母あざら子に丁寧に説明をし始めてしまったので、あざら子は横でうんうん頷く係に徹することにした。もちろん気になったところは質問するつもりであったのだが、多少なりとも国試で蓄えた知識があるので、あんまり質問したいところがないのである。

遠隔転移のあるなし

 がんの転移というのはよく聞く言葉だと思うが、がん細胞はいろいろな経路を辿って全身に転移をする。血液に乗って転移する血行性転移、リンパ管を介して転移していくリンパ行性転移、物理的に近くにバラバラと散らばる播種など。どの形態を取りやすいかは、がんの種類によって違うので省略するが、いずれにせよ、がんというものは総じて、放っておくと最終的に全身に転移していくと思っていい。
 この転移があるかどうかが、実は治療方針を決める上でかなり大きい項目になってくる。結論から言えば、転移があったら手術はほぼ不可能になることが多い。
 がんの手術というのは、基本的に「原発巣(元々がんが発生したところ)」を取り除く手術になる。転移がなければ、原発巣さえ切除してしまえば、がん細胞がまるっと身体から取り除けると期待できるので、手術を行う。ところが、転移が起きていると、身体の他の部位にがん細胞が広がっているということになる。これでは、どこを切り取ったら良いのかがわからない。
 直感的には、「転移したところも切ってしまえばいいのでは?」という意見も出てくると思うのだが、これがそうもいかない。がんというのは、当たり前だが「がん細胞の塊」であり、一つひとつのがん細胞自体は目に見えない小さいものになる。「転移している」とわかる場所は、がん細胞が目に見えるサイズの塊を作っているということだが、じゃあ「転移していないように見える場所」に本当にがん細胞が一個も残っていないと証明できるだろうか? 答えは否である。「転移が起きている」ということは、「全身のどこにがん細胞があっても不思議ではない」つまり「目に見えないがん細胞が身体の中に隠れている可能性が高い」となる。こうなってくると、わざわざ麻酔をかけてがんの塊を切ったって、他にもがん細胞が残ってしまえば、いたずらに身体に負担を強いるだけになってしまう。だから、転移がある場合は原則手術は行わない(がんの種類と転移の場所によっては、がんの転移で起きる症状を和らげる目的などで、手術を行うケースはある)。
 今回あざら子はあきらかな転移はなさそうなので、ひとまずは手術で切っちゃおう!という方向性が取れる。もちろんこの場合でも、目に見えないがん細胞が広がっている可能性はあるのだが、手術で取り去れる期待も十分できる。

乳管内進展

 まずそもそもの話なのだが、乳腺組織というのは、母乳を作る小葉と、できた母乳を運ぶ乳管でできている。このどこかにできるのが乳がんであり、「乳管を食い破ると浸潤がん」という話は上でちらっと触れた。
 乳管内進展というのは、逆に乳管を食い破らず、管の中を這うように広がることを指す。管を食い破っていない分いいやつにも思えるのだが、これはこれでちょっと厄介だったりする。なぜなら、管伝いにいくらでも広がりやすいので、「具体的にどこまでがん細胞が広がっているのか」が読みづらいからだ。
 上で書いた通り、がん細胞の一つひとつは目に見えないので、手術の際には、がんの塊の周りも、「このくらい余裕があれば、はみ出したがん細胞も取り切れるだろう」と思われるくらい広めの範囲を切除する。乳管内進展があると、この「このくらいの余裕」がかなり必要になるので、切除範囲がどうしても大きくなりやすい。乳がんは、状況に応じて、「がんとその周りの余裕部分だけを取り除く」というスタンスの部分切除と、「片方の乳棒を丸ごと取る」というスタンスの全切除があるが、乳管内進展がある場合は全切除が選ばれる可能性が高い。取りきれなかったがん細胞が残るのは困るからだ。

 そして、MRIに加え、今回の山場は遺伝子検査である。以前の記事で触れたHBOCであれば、もうやること山積みで大変面倒になる。しかもあざら子はまあまあ役満の匂いがしている。
 果たして運命の結果はというと、なんと陰性であった。てっきりHBOCで予防切除〜なんて話になるのかと思っていたが、遺伝性乳がんでないのであれば、将来のリスクはあまり悩まず、今あるがんをどうにかすることに集中すればいい。なんでこの歳で乳がんになったかだって? そんなもんなるときゃなるのだ。
(正確なことを言うと、乳がんを起こしやすくなる遺伝子はBRCA1/2だけではないので、調べれば他の原因遺伝子が見つかる可能性はある。ただ、2024年11月現在、他の遺伝子を気軽に調べるのは難しいし、保険適応でもないのに調べる気はあざら子にはない。なので、調べられないものは考えないことにする)

 そんなわけで、あざら子は今後右乳がんの治療に一本化して取り組むことになった。前述した通り、遠隔転移はないので手術可能な乳がんである。
 手術をする場合、併せて薬物療法を行うかどうかは、乳がんのサブタイプや進行具合で変わってくる。「手術だけで終わる場合」や「手術をしてホルモン剤を使う場合」、「術後に抗がん剤を使う場合」、「手術の前に抗がん剤を一旦使ってから、手術に踏み切る場合」などなど、状況に応じて様々な治療法が考えられる。このあたり、どの乳がんにどの治療法が推奨されるか、という話になってくると、医師御用達の「乳がん診療ガイドライン」の内容に入ってきて、あまり患者向けの内容にはなってこないので省略する。

 こういう診療ガイドラインは、これまでの乳がんの患者の治療や経過の論文をまとめて、「こういう場合にはこういう治療が一番効果が見込めそうだ」ということが書いてある。こうしたガイドラインに則って診療している限り、「現在の医学で考えられる、この患者に対する最善と思われる治療」が行われることになる。こういうのを「標準治療」と呼ぶ。「標準」と聞くと「上級もあるの!?」みたいな気持ちになりがちだが、この場合の「標準」は「みんながこの治療を受けてほしい」という意味の「標準」なので、感覚としては「現在の医学界における至高医療」といっても過言ではない。上級医療なんてないのでご留意いただきたい。標準治療がベストである。

 ともかく、現在のあざら子の乳がんは、遠隔転移なし、ホルモン受容体陽性、HER2陰性乳がんとなる。今回あざら子は、ガイドラインに則り、まず手術、その後薬物治療を行う方針になった。


そもそもサブタイプとは

 ここまで書いたところで、これまでの記事で1ミリも乳がんのサブタイプに触れていなかったのに気付いたので、大変反省している底辺医師です。系統だって予定を立てずに毎回気ままに書いているからこういうことになる。悪い例である。閑話休題。

 乳がんには、いくつかの項目で分類される「サブタイプ」という概念があって、これが実は治療方針を立てるためにとんでもなく重要な情報になってくる。サブタイプによって効く治療が全然違ってくるからだ。なので、ここからは(乳がん経験者はさすがに知っていると思うが)専門性マシマシの単語がホイコラ出てくるのをお許しいただきたい。

 乳がんのサブタイプを分けるには、大きく3項目の情報が必要になる。この3つとは、「ホルモン受容体」「HER2タンパク」「Ki-67」という3項目で、これは生検でとってきた組織で調べることができるので、乳がんの診断がついた段階で基本的にはこれらの情報は出揃っていると思われる。
 「ホルモン受容体」というのは、女性ホルモンの一種であるエストロゲンを受け止める受容体タンパクがあるかどうかである。ホルモン受容体陽性乳がんというのは、エストロゲンを刺激として受け取ることができ、このエストロゲンの刺激で増殖が活発化する。そのため、エストロゲンを遮断する治療を行うことで、がんの増殖を抑えることができる。
 「HER2タンパク」というのは、human epithelial growth factor receptor type 2という長ったらしい名前のあるタンパクなのだが、細胞の増殖に関わるタンパク質の一種であり、一部の乳がんではこのHER2タンパクが異常に増えており、それががんの増殖の原因になっていることが知られている。このHER2タンパクには、このタンパク質を攻撃する分子標的薬という薬ができているので、この薬でHER2タンパクをボコボコにすると、がんの増殖を抑えることができる。
 最後の「Ki-67」というのは、がんの増殖スピードを表す指標の一つで、これは指標なので陽性/陰性ではなく高値/低値で表される。これが高値だと、増殖スピードが速いということで、がん界隈の独特の表現でいくと「顔つきが悪い」と言われるやつである。つまりは高いと嫌なやつ度が高いと思っていればたぶんいい。
 この3つの指標により、乳がんは大きく5つのサブタイプに分けられる。理系の諸君は「3項目あって5つに分けられるのは気持ち悪い」と思われるかもしれないが、Ki-67はあくまでも増殖スピードの指標なので、一部の分類のみで使っているので5タイプになる。
 具体的にいうと、

  1. ホルモン受容体陽性/HER2陰性/Ki-67低値→luminalA

  2. ホルモン受容体陽性/HER2陰性/Ki-67高値→luminalB

  3. ホルモン受容体陽性/HER2陽性

  4. ホルモン受容体陰性/HER2陽性

  5. ホルモン受容体陰性/HER2陰性→トリプルネガティブ

と、こんなふうに分けられる。前述したように、ホルモン受容体が陽性ならエストロゲンに対する治療、HER2タンパク陽性ならそれに対する治療、といったように、サブタイプによって治療法が全然違うので、自分がどのサブタイプの乳がんなのかわかっていると、なんの治療を受けているのかわかりやすいかもしれない。名前や用語がややこしいのは諦めてほしい。

 あざら子はこのなかでluminalBにあたると診断されている。そのため、この後は手術とエストロゲンを遮断する治療を行っていく見込みとなる。当初は「すわ抗がん剤か!?」と覚悟を決めていたのだが、抗がん剤は使わなくてもよさそうな見込みになった。
 とはいえ、以前記事にしたことのある妊孕性温存の話は、実はこのエストロゲンに対するホルモン療法と呼ばれる治療でも必要になってくる場合がある。なので、今後はがん治療と並行して妊孕性温存のことも考えていかなければならない。やることがいっぱいである。餌いっぱい食べたら褒めてもらえるアザラシになりたい。

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