その日から死にはじめる
「〈動物行動学入門〉ソロモンの指輪」という古典的名著がある。この分野の学生なら読んだことがない人がいないくらいの名著である。著者は動物行動学の分野で初のノーベル賞を受賞した3人のうちの一人、オーストリアのコンラート・ローレンツ(1903~1989)である。
有名な研究例では、ガンやカモのふ化したヒナが生まれて初めて目にする動くものについて歩く行動「刷り込み」がある。白いひげを蓄えた老科学者について歩く子ガモの群れ、という写真を見たことがないだろうか。彼がローレンツである。
余談だがちなみにノーベル医学生理学賞を共同受賞したあとの二人は、「どうぶつの言葉」で有名なニコ・ティンバーゲンと、ミツバチの8の字ダンスを発見したカール・フォン・フリッシュである。
さらに余談だが、「ソロモンの指輪」を和訳した翻訳者は、こちらも日本を代表する動物行動学者、日高敏隆氏である。
話を「ソロモンの指輪」の内容に戻す。
この本は動物と動物研究の魅力に溢れていて、あがない難い魔力を持つとまで言われる。私は高校2年生の夏休みに富山東高校の図書室でこの本に出合い、将来の進路を動物学に定めた。
その第8章に「なにを飼ったらいいか!」という内容がある。
ペットに適した動物は何か。この問いにローレンツはいくつもの実例を出して答えている。アクアリウム、ウソのつがい、犬、ホシムクドリ、マヒワなどが推奨種として挙げられている。
しかしそれと並行して、「飼いにくい動物」あるいは「飼うべきではない動物」についての記述もある。
これが、かなりぎくりとする内容である。
以下、引用する。
============
「飼いやすい」という性質は、「飼える」とか、「抵抗力がある」とかいう概念とはまったくきりはなして考えるべきものである。われわれが科学的な意味で生物を「飼う」といったならば、それは、狭いあるいは広い檻の中で、その動物の全生活環をわれわれの前で展開させる試みをさすのである。けれどもじつに困ったことに、たんに抵抗力が強くて死ににくい動物、もっとはっきりいうならば、死ぬまでに長い時間がかかるにすぎない動物を「飼える」というのがふつうである。実際には死ににくいだけで、けっして手数のかからぬものでもなんでもない「飼える」動物の典型的な例は、ギリシャリクガメである。無知な飼い主がしつらえた不十分な条件のもとでも、このあわれな生き物は三年、五年、あるいはもっと長い間生きている。そしてもはや回復のしようもないほどにまいって死ぬ。だが正確に言えば、彼女は「飼われだした」その日から死にはじめるのである。
(引用終わり)
============
文字通り動物飼育に関する論考なのだが、この「その日から死にはじめる」という言葉が、同時16歳だった私の心に深く突き刺さった。
自分は今、生きているのか、それとも死にはじめているのか。
「生きている」と「死にはじめている」は、状態の差なのか、運動の差なのか。
それは明確に区別されるものなのか。
より良く生きることと、死を遅延させることの違いは何なのか。
人間にとっての「全生活環を展開させる試み」とは何なのか。
若いながらに(若いからこそでもあるが)色々と考えさせられた。
飼育動物を「ゆっくりと死なせる」のではなく「きちんと生かす」ことを考えると同時に、自分自身もゆっくりと死にはじめていないかどうかに気をつけながら、また新たな年度を迎えたいと思います。