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少年の日の思い出 アクリル樹脂封入標本編
あらゆる点で模範少年だったエーミールは、非の打ち所のない完璧な少年だったので、学校の誰もが取り組んでいた昆虫標本づくりにも、最新の方法 ーー樹脂封入標本を採用していた。
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手順としては、通常の乾燥標本のように展翅板の上に固定し、羽や足、触覚の形を丁寧に整えていくところまでは一緒なのだが、その後脱脂 ーー虫体の表面の油をアセトンで取り除くのだ。
あらかじめ一層のアクリル樹脂を固めておいたタッパーのなかに標本をそっと移してから、アクリル樹脂と固化材の混合液を決められた比率で作り、それを慎重に、気泡が入らないように、何日かに分けて何層にも注いで行き、最終的にはアクリル樹脂の中央に昆虫が「浮かぶ」ように固定するのである。
透明な樹脂が完全に固化したのち、アセトンやアルコールでぬめりをとってから、周囲の余分な部分を金のこぎりで切断して立方体に整形し、水ヤスリや磨き粉で表面を磨き、完成である。
とても手間がかかる高度な手順であるが、エーミールは非の打ちどころのない模範少年なので、この細かい作業にも長けていた。
彼は作業に必要な道具類もすべてホームセンターでそろえていた。
しかし、ぼくの両親は立派な道具なんかくれなかったから、ぼくは自分の収集を、古いつぶれたボール紙の箱にしまっておかねばならなかった。ビンの栓から切りぬいた丸いコルクを底に貼り付けピンでそれを留めた。
ある時、ぼくは、ぼくらのところでは珍しい青いコムラサキを捕らえた。それを展翅し、すっかり有頂天になったぼくは、せめて隣のエーミールにだけは見せよう、という気になった。
この少年はコムラサキを見た。彼は専門家らしくそれを眺め、二十ペニヒくらいの値打ちはある、と値踏みした。しかしそれから、彼は難癖をつけ始め、展翅のしかたが悪いとか、右の触覚が曲がっているとか言い、そのうえ、足が二本欠けているという、もっともな欠陥を発見した。
「樹脂封入標本ならばこうはならないのに」エーミールは見下すように批評を続けた。「丈夫で手に持っても壊れないし、四方八方から観察することもできる。長期間劣化しないし、生身の昆虫が苦手な人でも観察が容易だ。もちろん幼児にもね。こんなにいいことはないよ」
エーミールは見下すように続けた。ぼくが他の標本も見せようか、と提案すると、エーミールは「結構だよ。ぼくはきみの集めたやつはもう知っている。そのうえ、今日また、きみがチョウをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ」と言った。
エーミールはまるで世界のおきてを代表するかのように、冷然と、正義をたてに、あなどるように、ぼくの前に立っていた。彼はののしりさえしなかった。ただぼくを眺めて、軽蔑していた。
ぼくはその欠点をたいしたものとは考えなかったが、こっぴどい批評家のため、ぼくの獲物に対する喜びはかなり傷つけられた。それでぼくは二度と彼に獲物を見せなかった。
ぼくは内心とても不満で、エーミールと別れた後に、こころの中で樹脂封入標本の欠点をあげつらった。
確かに作成は難しいだろう。手に取れて、あちこちから眺められるメリットもわかる。だけど、それは水槽の向こう側にいる生き物のような、清潔で臭いも手触りもない無機物、アート作品を眺めるようなもので、本当の昆虫好きのなす所業ではないのではないか。
確かに樹脂に閉じ込める作業には高度な手技が追加で必要になるが、一旦樹脂に封入すれば、壊れにくくはなるものの、触覚や複眼の細かな構造をルーペで観察するのには不向きだし、全長をノギスで測ることすら不可能だ。
見栄えの良さや丈夫さと引き換えに、学術的な標本の価値は大きく落ちてしまうじゃないか。
そして、樹脂封入標本は、アクリルのきらきらした宝石感が、封じ込められた昆虫の情報量を上回っているような気さえするのだ。
昆虫をアートコレクションのように集めるのは、まっぴらだ。
それ以降、ぼくはエーミールの標本に興味を示すことはなかった。
そんなある日、あのエーミールがヤママユガをさなぎからかえしたといううわさが広まった。
ぼくたちの仲間で、ヤママユガを捕らえたものはまだいなかった。名前を知っていながら自分の箱にまだないチョウの中で、ヤママユガほどぼくが熱烈に欲しがっていたものはなかった。
友人の一人はぼくにこう語った。「とび色のこのチョウが、木の幹や岩に止まって休んでいるところを、鳥やほかの敵が攻撃しようとすると、チョウは畳んでいる黒みががった前羽を広げ、美しい後ろ羽を見せるだけだが、その大きな光る斑点は非情に不思議な思いがけぬ外観を呈するので、鳥は恐れをなして、手出しをやめてしまう」と。
エーミールがこの不思議なチョウを持っているということを聞くと、ぼくはすっかり興奮してしまって、それが見られる時が来るのが待ちきれなくなって、食後、外出ができるようになると、隣の家の四階に上がっていった。途中は、誰にも会わなかった。
上にたどり着いて、部屋の戸をノックしたが、返事はなかった。エーミールはいなかったのだ。ドアのハンドルを回してみると、入り口は開いていることが分かった。
せめて例のチョウを見たいと、ぼくは中に入った。ヤママユガは、アクリル樹脂に包まれた状態で、エーミールの机の上にあった。とび色の羽をきれいに張り伸ばされた状態で、透明な樹脂の中に留められていた。
ぼくはその上にかがんで、毛の生えた赤茶色の触覚や、優雅で、果てしなく微妙な色をした羽根の縁や、下羽の内側の縁にある細い羊毛のような毛などを、残らず間近から眺めた。
胸をどきどきさせながら、ぼくは誘惑に負けて、標本を手に取った。すると、4つの大きな不思議な斑点が、挿し絵それよりはずっと美しく、ずっと素晴らしく、ぼくを見つめた。それを見ると、この宝を手に入れたいという逆らいがたい欲望を感じて、ぼくは生まれて初めて盗みを犯した。アクリルはもう乾いていて、形はくずれなかった。ぼくはそれをそっと手のひらに載せて、エーミールの部屋から出た。その時、さしずめぼくは、大きな満足感のほか何も感じていなかった。
チョウを右手に隠して、ぼくは階段を下りた。その時だ。下の方からだれかぼくのほうに上がってくるのが聞こえた。
その瞬間にぼくの良心は目覚めた。ぼくは突然、自分は盗みをした、下劣なやつだという事を悟った。同時に、見つかりはしないかという恐ろしい不安に襲われて、ぼくは本能的に、獲物を隠していた手を、上着のポケットに突っこんだ。ゆっくりとぼくは歩き続けたが、大それた恥ずべきことをしたという、冷たい気持ちに震えていた。上がってきたお手伝いさんと、びくびくしながらすれ違ってから、ぼくは胸をどきどきさせ、額に汗をかき、落ち着きを失い、自分自身におびえながら、家の入り口に立ち止まった。
すぐにぼくは、このチョウを持っていることはできない、持っていてはならない、もとに返して、できるならばなにごともなかったようにしておかなければならない、と悟った。
そこで、人に出くわして見つかりはしないか、ということを極度に恐れながらも、急いで引き返し、階段を駆け上がり、一分の後にはまたエーミールの部屋の中に立っていた。僕はポケットから手を出し、チョウを机の上に置いた。透明なアクリルに包まれたチョウはすっかりもとのままで、ぼくは急いで家に戻った。
アクリル樹脂封入標本でよかった。ぼくはどきどきしながら、心の底からそう思った。
もし通常の展翅標本であったならな、ヤママユガはつぶれて、取り返しのつかないくらいばらばらになり、ぼくはエーミールに激しく軽蔑され、罪の意識にさいなまれ、一生消えない心の傷を負っていただろう。
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なにごともなく数日が過ぎ、エーミールは磨き上げたヤママユガのアクリル樹脂封入標本を持って学校にやってきた。彼の周りには人だかりができていて、あの模範少年も得意そうな笑みを浮かべていた。教師までもがその標本の出来栄えと珍しさをほめていた。
ぼくは人波に加わり、順番が来ると、ヤママユガの標本を手に載せてもらった。初めて見るようなそぶりをして、この珍しい昆虫のことと、アクリル樹脂封入標本は丈夫で素晴らしい、という旨を彼に伝えると、エーミールは笑って答えた。
「そうか、そうか。つまり君は、そんないい奴なんだな」
おしまい。