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【大人のファンタジー小説】マッチ売りの女の子(第五話)

Part5 ハイウェイ・スター

 元のビルとビルの隙間に辿り着き、慣れた手つきでマッチを壁に擦ると、今度は目の前に見るからに上質なスーツを着た50がらみの男性が現れました。ところがビジネスマンらしからぬ肩にかかるほどのボサボサの長髪で、シワの目立つ顔には無精髭まで生えているではありませんか。
「若林さん?」不審げに梨々子が尋ねると男性は、指でピストル型を作って梨々子を指して「ビンゴ!」と笑いながら答えました。
「そのリアクション、やっぱり若林さんだ。変わってないわね」
 梨々子を見下ろすようになる目線の高さもそのままで「会社の金を横領したのがバレちゃってさ。これからバンコクに高飛びするんだけど、一緒に行こうぜ」と悪戯っぽく笑うのでした。
「そういうシーン、松本清張の小説で読んだことがあった気がする。山崎豊子だったかな。どっちだっけ?」
 梨々子がそう返すと今度は真剣な表情で
「くすねた金の半分の3億は茉莉花の名義にしてあるから茉莉花と息子は大丈夫。俺はバンコクで好きにやるつもり。少なくとも捕まるまではね」と言ったかと思うと「まぁ、とにかく来いよ」と梨々子の腕を強く掴んで、ビルとビルの雪が吹き溜まった隙間から梨々子を連れ出して、福富町仲通りに停めてあったトヨタのスープラ RZの助手席に放り込みました。
 雪が降り積もった道路を滑走する目の覚めるようなライトニングイエローのスープラのなかで梨々子は「歳を取ってもスープラなんだ」と笑いました。男は、「フン」と鼻を鳴らした後でハンドルを切って左折しました。
「カーブを直角で曲がるのもそのままなのね。あまりに久々の乱暴運転で、心臓が止まるかと思ったわ。どうしていつまで経ってもアールを描くように緩やかに曲がれないわけ?」
「梨々子の地味な格好も相変わらずじゃないか。なんだよそのコート。バッグもトートバッグって、ガキか近所のおばさんだよ。この足で横浜そうごうに寄ろう。洋服でもバッグでもなんでも買えよ。好きなものを買っていいけど派手なの選べよ。その方が梨々子は似合うんだよ、絶対」とハンドルを切りながらチラリと梨々子を見て言いました。
 まるで箒星のように夜の道を滑走する黄色いスープラは、新横浜通りを通り過ぎ湾岸沿いの道まで進んでやはり直角に近い角度で左折しました。するとどうでしょう、いきなり梨々子の目の前に、横浜ランドマークタワー、大観覧車、インターコンチネンタルホテル、横浜赤レンガ倉庫が織りなすパノラマの夜景が広がりました。
「何これ!わざわざ遠回りして20代のカップルのデートみたいな景色見せちゃって」と梨々子がケラケラ笑うと、男は下りの坂道でアクセルを踏み込んで、ジェットコースターの急降下のときのようなフワッと浮く無重力状態を車のなかに作り出したのでした。
「きゃー」と梨々子が叫び声を上げると今度は男がゲラゲラ声を立てて笑います。
 梨々子が再び窓の外に目をやると、みなとみらいのパノラマの夜景が、窓にぶつかる雪で滲みはじめました。段々と煌めきが弱くなり、ついには漆黒の景色に変わり、あたりはビルとビルの隙間の掃き溜めのような場所へと変わったのでした。
 
 かつて自分を捨てた男が、最後に選んだのは自分であった。甘美な優越感に梨々子は陶酔しました。
「いつも会社にいるんだね」
それは若林琢磨がはじめて梨々子に話しかけた言葉でした。専門学校を卒業して入社した中小印刷会社の上中里特殊印刷株式会社で組版の仕事をしていた梨々子。琢磨はその印刷会社に仕事を出してくれる大手印刷会社の営業マンでした。大企業である自社では割りに合わない細かい仕事や、機械ではできない特殊な折り加工、組み立て加工、シール貼り加工などの内職作業が必要な印刷物を梨々子の会社に発注してくれるのでした。
 入社して4年経ち、組版の仕事をこなせるようになっていた梨々子は、毎晩終電で帰り、朝も誰より早く出勤して受け持った作業をやり遂げていました。会社に泊まり込んで担当した仕事を仕上げることもしばしばありました。文章や写真をフォーマット化された雑誌や書籍のレイアウトに流し込んで印刷データを仕上げる地味な組版の仕事は、ポスターやパッケージ、ロゴなどの華やかなグラフィックデザインの仕事よりも梨々子の性分に合っていました。朝一番で上中里特殊印刷来た時も、夜遅くに立ち寄った時もいつも会社にいる梨々子に琢磨は半ば呆れ顔で「いつも会社にいるんだね」と話しかけたのでした。
 梨々子が勤める上中里特殊印刷は、琢磨のプレゼンの段階から無償で協力をしていました。もちろんそれは、プレゼンが通った時の売り上げを期待してのことでしたし、敏腕営業マンを囲い込んで大手印刷会社と太いパイプを維持しておきたいという狙いもありました。ですから印刷見本を作ったり、小学生向け雑誌の付録の試作品を作ったり、束見本といわれる冊子の完成形態のサンプルを作ったりして琢磨のプレゼンを後押ししました。琢磨は、プレゼンの日には新調したコムデギャルソンのスーツを着て臨むのが習慣で、プレゼンの当日にはギリギリで仕上がったサンプルを受け取りに新調したスーツを着込んで梨々子の会社に顔を出していました。
 
 琢磨が営業を担当して、梨々子が組版を受け持った大手ハンカチメーカーの会長回顧録が完成し、その会社の100周年記念パーティーで来場者に記念品として回顧録が無事配布されたあとで、琢磨は梨々子を食事に誘いました。たった150部の印刷でしたが、オーナー企業の会長回顧録らしく、ハードカバー付き、クロス貼り、タイトル箔押しの上製本で、上中里特殊印刷にとって粗利率の高いよい仕事でした。琢磨の会社にとっても、大手ハンカチメーカーは逃したくないVIPクライアントでした。とはいえ、会長からの直しは朝令暮改、三校まで出しても校正紙が赤ペンで真っ赤になるくらいめちゃくちゃな修正が入るという有様で、間に入った編集プロダクションの編集者は根を上げて2回も担当者が変わったほどでした。梨々子は、どんなに理不尽な直しでも丁寧に赤字を反映させ、次の提出までにはきちんと校正出しを間に合わせて、タイトなスケジュールのなか、記念式典までに印刷を間に合わせたのでした。恵比寿にオープンしたばかりのイタリアンレストランで琢磨は「梨々子ちゃんのおかげ、今回のMVPだよ。これであのハンカチ会社に取り込むことができれば、パッケージとかラッピング材とかデカイ案件が入ってくるからね」と、何度か“梨々子ちゃん”と言いました。
 その後も何度か食事とドライブを重ね、次にもしお泊まりに誘われたなら応えようと梨々子が意を決したときに、琢磨はその年に上中里特殊印刷株式会社に入社してきた小路茉莉花(しょうじまりか)と交際を始めたのでした。
 
 茉莉花は美大を卒業してグラフィックデザイナーとして入社してきましたが、プライベートでのアート制作を続けたいからと残業や休日出勤が多いグラフィックデザインの部署ではなく、経理部への配属を志願しました。新人にしては、ずいぶんと身勝手な部署異動の要望でしたが、社内で批判の声が上がらなかったのは、多分に憎めないその容貌もプラスにはたらいたようでした。茉莉花はいつもニコニコしていて、体型がふっくらしていたことから小路(しょうじ)という名字をもじってコロちゃんと呼ばれていました。「コロちゃんがそう言うなら仕方ないね。泣く子とコロちゃんには勝てないってか」とおじさん幹部たちはコロちゃんの希望をすんなりと飲んだのでした。
 そんなコロちゃんが給湯室で「琢磨さんってかっこいいですよね」とまるで独り言のように呟いたとき、加工部で内職作業のパートをしている馬内さんが色めき立ちました。馬内さんは内職のパートのおばちゃんたちのリーダー的存在で、内職のパートを常駐させている加工部門があることが上中里特殊印刷株式会社のウリでしたから、馬内さんはパートの立場とはいえ会社にも顔が利く存在でした。その馬内さんを味方につけたということは、内職のパートのおばちゃんはもとよりお局女子社員をも味方につけたということで、社内の中堅・ベテランの女性たちは一丸となって、コロちゃんの恋心の成就を応援したのでした。
 コロちゃん入社1年目のバレンタインデーの日、社内の熟女たちは緊張していました。その日は少女漫画雑誌の付録の件で琢磨が会社に来ることがわかっていたからです。朝から何度もコロちゃんは「いい?今日チョコを渡さなかったら、コロちゃんと一生口を聞かないからね、とにかく勇気を出して渡すのよ」、そんな風に葉っぱをかけられ、コロちゃんは引き出しの中に入れてあるゴディバのチョコレートを何度も見直すのでした。
 梨々子の引き出しにもアンテプリマのチョコレートが入っていること、琢磨とは何度か食事やドライブに出かけていることは誰も知りませんでした。いや、ひょっとすると知っていた人もいたのかもしれませんが、無かったことになっていました。
 
 茉莉花がいつもニコニコ笑っていられるのは育ちのよさからくるものだと知ったのは。茉莉花と琢磨の結婚式の席でした。親族のテーブルに座っている父親は大手広告代理店の部長職で、梨々子の印刷会社の社長とは懇意の仲であったようです。茉莉花の経理課配属への希望がすんなりと通ったのはコロちゃんのキャラクターも大きかったのでしょうが、少なからずそんなコネクションも影響したのでしょう。
 プール付きの邸宅風結婚式場で、馬内さんをはじめとする会社のお局たちは、まるで自分たちの手柄であるように心の底から茉莉花の幸せを喜びました。
「何があってもコロちゃんのようにニコニコしていよう。そうして私も人に応援される人になろう」、披露宴の席でミカドシルクをたっぷり使用したプリンセスラインのドレスを纏った茉莉花を眺めながら、梨々子はそんなことを決意したのでした。
 
「あれからずっとニコニコしてきたな」と苦笑しながら梨々子はマッチ箱から二本目のマッチを取り出しました。慣れた手つきで壁に擦ると、シュッと音を立てて炎が現れました。その炎はすぐさま、横浜そごうの2階にあるプレステージブランドブティックに陳列されている宝飾品が放つキラキラとした光に姿を変えました。
 最初に琢磨が選んでくれたのは、ヴァンクリーフ&アーペルのアルハンブラのネックレス、リング、ブレスレットの3点セットでした。イエローゴールドで描いた四葉のクローバーモチーフの枠の中にマラカイトの目の覚めるようなグリーンが映えます。
「昔、コロちゃんがこれの白いのを会社につけてきたことがあったわね」
「茉莉花はちゃっかり可愛いいところがあってさ、バレンタインのお返しにホワイトオパールのアルハンブラが欲しいって言うから奮発したんだよね。息子が生まれた時にはご褒美にショーメ、スイートテンはハリーウィンストンだったんだぜ。梨々子はスイートテンに旦那さんに何をもらったの?」
 そんな琢磨の無邪気な質問に、梨々子は力なく笑って何も答えませんでした。子どもがいない家庭になってしまった申し訳なさや、共稼ぎなのに稼ぎが悪い後ろめたさに、何か欲しいと声に出して伝えることがいつのまにかできないようになっていたのでした。夫の雅紀は雅紀で、それを「物欲がないうちの奥さん」と解釈し、アニバーサリーにはハーゲンダッツのクリスピーサンド一箱を買って帰るのが習慣になっていました。
 ヴァンクリフ&アーペルの店を出ると左手にミュウミュウやプラダ、前方にはグッチやシャネル、エルメスといった梨々子がこれまで一度も入ったことないプレステージブランドのブティックが並んでいます。
「明日にはバンコクに飛ぶんだから服を持っていかなきゃいけないな。ここのフロアのショップで買えよ。あとヴィトンでスーツケースも。服も靴も詰めるだけ詰めて行こう」
「向こうに到着してからTシャツとパンツでも買うわ。バンコクならユニクロもZARAもH&Mもあるでしょ?」
「当分はマンダリン・オリエンタルのホテル暮らしだから、それなりの服装をして場に溶け込むのが逃亡者の鉄則だぜ」
 琢磨はジャケットの内ポケットに入れたカードケースからアメリカン・エキスプレスのクレジットカードを取り出すと梨々子に渡して「これで、スーツケースに入るだけ、好きなものなんでも買えよ。女の買い物につきあうのは茉莉花でこりごりだから、俺、6階のカフェでお茶してる。閉店までには来いよ。迷っている時間はないんだから、欲しいと思ったらさっさと買うんだぞ」と言いました。
 アメックスのブラックカードを見つめながら梨々子が戸惑っていると琢磨はケラケラ笑いながら「カードはちゃんと使えるよ。会社の金を横領したっていっても、クライアントからバックマージンをもらっていただけで、会社は刑事告発してないし、逮捕状も出てない。会社は一部返金と依願退職でうやむやにしたいんだけど、俺はビタ一文渡したくないから、このままばっくれちまおうと思っただけ。梨々子は何の心配もいらないから、大丈夫だから。バッグも、グッチでもシャネルでもエルメスでも、なんでも好きなものを買っていいんだよ」
 そう言い残すと琢磨はエスカレーターで上の階へと上がって行きました。梨々子はとりあえず目の前にあったエルメスの店舗に入ってみました。目の前には壁一面が棚になっている什器があって、手の届くすぐそこに、エルメスの新作バッグの数々が並んでいます。グレーのバーキン、ターコイズブルーのケリー、オレンジのエブリン、ピンクのピコタンロック、色とりどりのバッグがまるで美術館の展示のように整然と並んでいます。
「そのクロコダイルのバーキンを見せてくださらない?」、端正な顔立ちの男性店員にそう告げたとき、バッグを浮かび上がらせるように照らしていた照明が一斉に消えて、目の前にはビルの外壁の薄汚いレンガが現れました。華やかなイセザキ・モールとは対照的に、イルミネーションの彩りのない福富町仲通りには、クリスマスに浮かれた酔っ払いさえもいません。ビルとビルの狭間にできた闇間で、誰に気づかれることもなく、梨々子は一人うずくまっていました。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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