オーストリア旅行前メモ

Hola! あすぱれです。
明日から旅行に行くので、簡潔にその国の歴史を書いておきたいと思います。もう時間がなくて本当にメモのような形になっております。

オーストリア 墺
カール大帝が東方からの異民族侵入を防ぐ目的で置いたオストマルク辺境伯が起源
9-10世紀にかけてスラヴ人、マジャール人を撃退した
しかし、徐々に衰退していき、オーストリア辺境伯に改称後、ドイツ諸侯による争奪戦になる

13世紀半ば スイスを領有していたハプスブルク家が支配下におさめる
このときの当主はルドルフ一世
神聖ローマ帝国の首都がプラハからウィーンに移る

15世紀半ば 神聖ローマ帝国の皇帝位が世襲化される
スペインなども領有し、領地を増やす

17世紀 ドイツ三十年戦争
以降、絶対王政の基礎を築く

17世紀末 ハンガリーの大半、南ネーデルラント(現在のベルギー)、ミラノ公国、ナポリ王国を得る

18世紀半ば マリア・テレジアの時代
プロイセン国王 フリードリヒ二世と対立
(マリア・テレジアのシェーンブルン宮殿(ウィーン)とフリードリヒ二世のサンスーシ宮殿(ポツダム)からも張り合っているのがわかる。)

マリア・テレジアの息子はヨーゼフ二世で、西洋近代化に努めた。
娘は、マリー・アントワネットでフランス国王・ルイ十六世と結婚。
孫のフランツ二世はナポレオンと戦った。

19世紀にはドイツが統一された。オーストリアはプロイセン=オーストリア戦争に敗れ、ドイツ統一から排除された。ハンガリーとの同君連合を組む。

19世紀前半 ウィーン体制ができる。

19世紀後半 バルカン半島において、パン=スラブ主義を掲げるロシアとパン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアは対立。

1914年 サライェヴォ事件発生。第一次世界大戦のきっかけに。

歴史はこのへんで。

ウィーン会議は1814-1815年、シェーンブルン宮殿で行われた。
これは、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序回復を図る会議で、オーストリアのメッテルニヒが主催した。フランスのタレーランが、革命前の国境に戻すという正統主義を提唱し、会議はこの原則をもとに進められた。しかし、各国の代表は自国の利権を主張し、会議は進まず、舞踏会だけは毎日行われ、「会議は踊る、されど進まず」と風刺されてしまった。しかし、ナポレオンがエルバ島を脱出したという知らせを受け、会議は急激に進み、1815年、ウィーン議定書がまとめられた。これにしたがってできた国際秩序が「ウィーン体制」である。「ウィーン体制」とは、絶対王政の復活、自由主義とナショナリズムをおさえるもので、1848年に各地で起きた革命により崩壊した。

シェーンブルン宮殿の前で、風刺画のポーズをして写真を撮りたい。

Hasta luego!


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