ツナボール vs ミートボール
いま振り返ると昭和という時代は日本の高度経済成長と共に海外から衣食住のさまざまな異文化が入ってくる刺激的な時代だったように思う。普段使いの国産品に対して外国製のモノは“舶来品”と呼ばれ、ただ持っているだけで自慢だった。とにかく“舶来品”は偉いのである。
庶民にとって海外旅行などは夢のまた夢、ドラマの最後にヒロインが海外に旅立つ設定がよくあったが、手の届かない海外へ行かせて強引に話を終わらせるということでもある。また、舶来のハイブランドの服や靴も然り。ウィスキーやタバコも桁違いの値段だった。ちなみに最近ではあまり話題にならないが、うどん一杯が50円ぐらいの時代に、ウィスキーといえばジョニ黒(1万円)、タバコといえばラーク(280円)が定番。ワンパターンの価値観でもそれなりに楽しかった昭和である。
そんな庶民とは殆ど縁がない舶来品を、一緒に暮らしている叔母がたまに仕事先から持って帰ることがあった。叔母は家政婦として働いており、仕事先は芦屋の六麓荘にある大手カーディーラーの社長さん宅。要らなくなった物を捨てるのがもったいないから貰っていたようだ。とはいえ捨てるほど傷んでもいなかった。
後によく云われていた“芦屋の粗大ゴミ”と同じ感覚だろう。その時代には今のようなリサイクル業者はないので、お金持ちさんは部屋の模様替えをしたければすべてではないにしろ粗大ゴミとして出すパターン。どこに? 粗大ゴミの日に道端に出すのである。もともとインテリアに合うような高級品しか買わないのだから捨てる物も当然ながら高級品。それを分かっている業者というか誰か知らない人たちが、朝からトラックで回収するという話だ。
話を戻すと、叔母はモノクロの格子模様の丈夫そうな紙袋でうどんのパックやいろいろな惣菜を買って帰ってくることもしばしば。ただ、そのいずれもが食べたことのない美味しさであり、はずれのモノは100%なかった。どうやらそれは芦屋のいかりスーパーというところで買っているということだった。
中でも小生にとって衝撃的だったのがミートボールだ。小生が知っていたのは母が作ってくれるこげ茶色のカラッと揚がったミートボールであり、3回目ぐらいの油で揚げるから必然的に色が濃くなっていた。数あるおかずでも食卓に並ぶのが楽しみな一品だった。だが、叔母が買ってくるミートボールは味も食感もまったくの別物。さらに甘酢あんかけのそれは至福の時を子供たちに与えてくれるのである。
では母の作ってくれたミートボールと一体なにが違うのか…。それはシンプルに素材の違いであり、実は我が家のミートボールはツナ缶を用いた“ツナボール”なのであった。家計をやりくりする母にとって6人分の食費は大変で、育ち盛りの子供が3人となると余計のこと。量的にクリアするには肉ではなくツナ缶なのであった。
ところでいかりスーパーといえば、いわゆる高級スーパーの先駆け的存在であり、阪神間ではいかりの買い物バッグは一世を風靡したデザインだった。しかも丈夫で雨にも強いので芦屋に限らず奥様方はそのいかりのバッグを愛用し、ちょっとしたファッションというかステイタスみたいな感じもあった。
いかり専用の駐車場には高級外車が居並び、奥様方が大型のカートで食材を積み込む様子はまさに「これが日本の明るい未来ざます!」と言わんばかり。ただ、大人になって驚かされたのが、なんとそのいかりの創業者の息子が中学のときの同級生だったのだ。「くそッ、あいつはこんな美味いもんばっかり食べていたのか!」と嫉妬はするが、それをまったく自慢しなかったあいつは大した者だとも思った。