「ドキュメント」について、サカナクションを語る。
「愛の歌 歌ってもいいかなって思い始めてる」という一節は一見すると陳腐に思える。
そもそも世の中は甘ったるい愛を歌ったポップスだらけなので、好きなだけ歌ったらいいのだが、東日本大震災を受けて苦しみ悩んだ末に生まれたDocumentaLyの結びとして「愛の歌~」という一節が、いろんなわだかまりを山口一郎さんの中で昇華できたということを象徴する言葉として、特別な高揚感がある。
最近のサカナクションについて 歌物に寄っている気がする
最近のサカナクションは歌物に寄っている気がする。ポップスに寄っているのだ。
昔は「なんてったって春」のように、言葉のリズムをビートにのせて、曲の一部としてノれるようにしていたと思う。
これは本当に高度なことで、なんとなく聞いていれば音楽的で、歌詞カードを眺めていれば文学的という、サカナクションの二つの面を同時に実現させている。「ロックと本」を完璧に混ぜ合わせた結果だと思う。
そもそもの話、文学的な歌詞にしたところで、ただ聞いているだけではそこまで深く読み解けない。これは純文学をBPM120のテンポで朗読させても、まったく浸る間がないということと同じである。
なので、ただ聞いているだけなら音楽的、歌詞カードを読み込むと文学的、というのが実際の落としどころである。
そして、最近のは「気になりダンス!気になりダンス!」みたいにキャッチ―さと音楽性を組み合わせていて、こちらも十分にテーマを実現できている気がするのだが、やっぱり全体の印象としては歌物ポップスに寄せている気がする。
これはしょうがないというか、今までの流れを汲むと当たり前のことである。
カラオケで歌えるほうが売れる
日本ではカラオケで歌いやすい曲のほうが売れる。サカナクションの曲はカラオケでは歌いづらい。
ここらへんの問題を話すと長くなる。ぶっちゃけるとサカナクションの音楽シーンでの悪戦苦闘のすべては常にこういった問題に突き当たると言っても過言ではないからだ。
そもそもNo.1ヒットになった「新宝島」でさえも、売れるのを狙って作った結果だ。
宝島の物語
6thのsakanactionでランキング一位になり、紅白にも出場し、バンドが文句なしに国民的な知名度を得ていく最中で、バンドメンバーも含めておかしくなっていったと、山口一郎さんは当時のインタビューで語っていた。
かといって、内省的に全振りしたグッドバイ/ユリイカは完成度とは裏腹にセールス的にはあまり売れず、「あれで売れていたらサカナクションの方向性は違っていたと思う」とまで漏らす結果になった。
山口一郎さん的に会心の出来だった曲は「目が明く藍色」と「グッドバイ」だったらしく、これ以上の曲は作れる気がしないから解散まで考えたらしいが、結果的には今もサカナクションは続いている。
そういった色々な葛藤の末に、映画タイアップという形であえて売れ線の曲を全力で作った結果が「新宝島」だ。
山口一郎さんは一流のアーティストなので、別に売れようと思えばいくらでも売れるのだ。売れそうな作りで沢山テレビに出れば売れるが、飽きられるのも早い。
ここらへんは哲学者のタレスがあえて商売っ気を出さずに哲学ばかりをし、その貧乏を非難された時には占星術によってオリーブの豊作を予測し、オリーブ用の圧搾機械を借り占めておいて莫大な利益を得た逸話と同じである。金より音楽。
サカナクションが売れるためにやったこと
実際、深い文学性を持っていてファンからの支持も厚い1stと2ndは、セールス的にはあまり売れなかった。そこで「音楽フェスで勝つため」に生み出されたのがシンシロだ。
「セントレイ」はわかりやすい売れ筋の歌物で、当時はメンバー内でもかなり意見が分かれたらしい。「ライトダンス」もギターが前に出てギターソロをするための「溜め」と「開放」のパートが明らかだ。
個人的に3rdで大好きなのがライトダンスで、「花曇り 夢の街 でも明日が見えなくて」と、大好きな故郷を歌いながらも出ていった情緒が完璧に表されている。最後の嘆くようなコーラスで終わるのも本当に好き。
どうでもいいが、アイデンティティも嘆きの曲である。作曲した時期だけでいうと4thに入ってもおかしくなかったが、見送られた。サカナクションは嘆く曲が多かったが、最近は減ってきている気がする。若いうちは叫びたいことが沢山あったのに、年を取るとビールにジンジャーエールを混ぜて飲んでみようかなとか、そういう落ち着いたことを考えるのが増えるのかもしれない。
なんにせよ、若くて売れる気まんまんって感じの3rdを出したからこその「アルクアラウンド」の跳ねである。シンシロで一度バネを溜めなければ、あそこまでの飛躍はなかった。
なので、今のように歌物に寄っている時も次への昇華の前触れだと思っていい。
そもそもの話をすると、コロナ禍を通じて発表されるはずだった「アダプト(適応)」と「アプライ(応用)」は、山口一郎さんの体調不良によって途絶したままだ。
結果だけ見ると完全に適応失敗したようだが、ただ時間がかかっただけであって、ここからが応用であり本番だ。
売れてからの話
サカナクションは常に売れ線と自分たちのやりたい音楽が明確で、その両立のためにいろいろな手を尽くしてきた。
sakanactionでは「表と裏」をテーマにして、その売れ線とやりたいことをオセロのように一枚の盤面に形成してみせた。個人的に一番気に入ってるのが「ボイル」で、あれはミニ「目が明く藍色」のようにドラマティックな展開をしていてテーマもはっきりしている。「mellow」と合わせてライブ化けすると言われがちな名曲だ。
834.194では二枚に分けて、その深いテーマをはっきりと浮き彫りにしてみせた。自分のルーツである北海道と、音楽産業の主戦場である東京を結び、それぞれに自分の十字架を背負わせてみせた完成度はとてつもなく高い。
一番好きなのはワンダーランドで、曲のテーマとしては童貞や処女の喪失らしい。そういうジュブナイルなテーマにシューゲイザー的な曲調を合わせたのも本当に唸らせる出来だ。ライブも見に行ったが、ずっと乗れる最高の曲だと思う。
そして二枚を別々に売ることになったアダプトとアプライでも同じことが起こるはずだったのだが、少々時間がかかってしまったようだ。
長い休養
それにしても、山口一郎さんが心と体を病んで、音楽にも釣りにも興味がなくなった時に、唯一見続けたのが「中日ドラゴンズ」というのは特筆に値する。
故郷は北海道なので日ハムを応援するかと思ったら、父親の影響で熱狂的なドラゴンズファンになったらしく、リアルタイムで見た後に録画を見直し、2軍の試合すらもチェックしているのだから驚きだ。
私は野球ファンではないので、立浪元監督の「(京田は)戦う顔をしていないので外した」などの珍言を面白がる程度(バトルフェイス山口)だが、山口一郎さんのパーソナリティを形作っていたはずの釣りと音楽が病魔によって剥げ落ちた後でも支え続けてきたのが、三年連続最下位の立浪ドラゴンズだというのは露悪的な興味を超えた一定の意味がある。本当に辛い時に力をくれるのは、苦しんであがいている他の人間なのだ。
山口一郎さんも明らかに「苦しんで生み出したものにしか価値がない」と思っているタイプだと思うので、「キラキラした都会での甘酸っぱい恋の歌」なんて歌ってこなかったのは当たり前だ。愛の歌も結局そんなに歌ってないしね。
個人的にサカナクションで一番の名盤だと思っているのは5thのDocumentaLyで、あれこそ東日本大震災を受けて考え苦しみ抜いて生まれた一枚である。しかも自分自身と向き合い続ける内省的な苦しみとは一味違って、災害という外圧にさらされた上でというのが大きい。まるで黒船に開国を迫られた鎖国中の大国、大日本山口のようだ(?)。他のアルバムにはない緊張感が全体を支配しているのもそのせいだろう。
アルクアラウンドのヒットによって苦しんだ後に生まれた「目が明く藍色」と共に、あのあたりが本当にクラブミュージック的なエッセンスとロックと文学性を組み合わせた傑作だと思う。「ドキュメント」の緊迫感もすさまじい。まさに鬼気迫る名演だ。一人で暗くて狭い部屋の隅っこで延々思案を続けているような感覚をはっきりと追体験できる。
しかし、そんな激痛を伴う排膿じみた産みの苦しみを創作活動として続けるのも限界が来たと思う。
sakanactionから834.194までに6年かかっているし、自分を追い詰めて二年療養しているとなると、次はいよいよ体が持たないし、リスナーとしても待っている時間がキツイ。
もちろんその間もツアーであったりシングルであったり、編集版の新しい月を発表していたりと精力的に活動を続けてはいたのだが、さすがにもうこれ以上苦しめないのではないかと思う。
「薬を飲んでも2、3時間しか寝れない」とかの体調不良のすさまじさは以前からインスタライブで赤裸々に吐露していたし、群発性頭痛という地獄の苦しみも経験し、その上で精神性まで奪うようで心苦しいのだが、はっきり言うとアラフォーなのに朝までクラブで踊るような生活をしていると体がぶっ壊れるのは当たり前のことだし、腹いっぱい焼肉を食べた後に便秘になって苦しい、みたいなツイートも妙に印象に残っているので、ここらで「老人のような」早寝早起きと粗食とラジオ体操のような生活をしてほしいと、リスナーとしてではなく一人の人間として素直に思うのである。
苦しみの価値
ここらへんは本当に難しい。死を含めて評価されたアーティストはいくらでもいる。生きている間にたったの一枚しか売れなかったゴッホであったり、自殺によってグランジムーブメントを終わらせたカート・コベインだったり、悲劇的な銃殺によって伝説として生き続けているジョン・レノンであったり、エイズによる死を含めてショウを続けたフレディ・マーキュリーであったりと、様々である。
山口一郎さんがそこまでの覚悟を持ってやっているのかは(実際にそうなるまで)わからないが、ぶっちゃけ生きて作品を発表し続けてくれる方がよほどありがたいので、長生きしてほしい。ジミヘンも生きてさえいれば沢山のアルバムを作ったはずだし、皮肉にも死んだ後に未発表音源などのアルバムが延々と出続けている。
日本であそこまで自分の内面を削り続けるような創作活動をしている人がいることに尊敬の念を覚えるし、その上でクスリなどに手を出していないのも本当にすごい。海外で大問題になっているオピオイド系鎮痛剤のフェンタニルなど、痛みを抑えるためにドラッグをやるというのはそもそも医療の狙いと同じだ。皮肉な言い方になるが、山口一郎さんは本当に苦しみ続ける才能がある。全然逃げない。
自分自身を文字通りに切り売りするタイプの作家として、インスタライブを始めとした露出が多いのも納得だ。早い話、冒頭の「ドキュメント」の話も含めて、山口一郎さんを知ったほうがサカナクションが面白くなるのだ。
読み飛ばしてもいい話、アークティックモンキーズ
また話が横道にそれるが、私が好きなバンドの一つにArctic Monkeysがいる。1stの衝撃はすさまじく、ラップミュージック並みに言葉を乱打し、それ自体がビートを刻みながらもイギリス人らしい皮肉っぽさと茶化しと文学性を持っていて、あれこそがUKロックの完成形だと思わされるほどであり、その特異性からフォロワーも出なかった。1stのサウンドを真似たバンドは日本にいた気がするが、革新的なのはあの歌詞の世界観のほうなので、あまり意味がなかったように思う。
2ndではさらに勢いとBPMを増し、まくしたてる歌詞もさらに皮肉とジョークを際立たせていった。
3rdではテンポもスローダウンし、ストーナーロックを目指した一枚でちょっと評価は低いが、完成度そのものは十分に高い。たまにCrying Lightningを聞くと「こんなにカッコよかったのか」とその度に好きになる。Cornerstoneのアレックスらしい未練がましさの残った歌詞はみんなに見てほしい。元カノが忘れられなくて、似た人を見つけて「元カノの名前で呼んでいい?」などと聞く内容で、本当はドン引きするような話なのに、曲は本当に美しくて、無条件で感動してしまう。こういうのが音楽でしか体験できないモノなのだろう。最後は一応報われるのも面白い。
そして4thなのだが、ここで明らかに歌物ポップスに寄っている。正直、聞きやすさだけならこれが一番だと思う。お気に入りはBlack Treacleで、言葉のリズムや調子が本当に心地よく、皮肉っぽいオチのようなラストの歌詞も大好きだ。
そして言わずもがな、大傑作の5thであるAMだ。これが成立するためには絶対に3rdも4thも必要だった。
「オアシス以来の衝撃」と評された彼らだが、「アークティックモンキーズ以来の衝撃」となるはずのバンドはなく、ロックは完全に沈黙し、カウンターカルチャーはラップミュージックとEDMに完全に場所を奪われた。
寄り道による音楽性
サカナクションも同じである。
歌物に寄ることで、さらに以前のテクノ、ダンス、クラブミュージック的なものや内省的な詩の世界を飛躍させるためであり、本来であればアプライがその実となるはずだった。
私は中学生あたりでSMAPやキンキキッズを聞き、一旦バンプにはまり、高校生あたりで洋楽ロックの沼にズブズブとはまったタイプの人間だ。
ビートルズやザフーを聞き、一番肌に合ったのはクラッシュのような、黒人音楽に深く分け入ったポストパンク的なものだった。
ピンクフロイドやキングクリムゾンもその頃に聞き、サイケやプログレ的なものも経験した上で、テクノやファンクなど、よりダンスミュージックに寄る土台が整っていった。
そういうロックからダンス、テクノ、ファンクに移る途中で出会ったのがサカナクションであり、ここからエイフェックス・ツインやケミカルブラザーズやプロディジーなどを経験することになる。
なので、私からすればサカナクションはやっぱりポップスでもロックでもなくテクノとして聞きたいというのが正直なところだ。
もちろん今の流れも好きだし、プラトーなどは「こういう感じはサカナクションではあまりやってなかったな」と思ったし、緊迫感のあるソリッドな曲調はお気に入りだ。あの雰囲気にはドラムの効果が大きいと思っていて、やたらいじられている江島さんが活き活きとしているとこっちまで嬉しくなってしまう。
ショック!もなかなか面白い曲だ。日本でファンクをやろうとすると、ガッツだぜ!や学園天国みたいになる、と山口さんが言っていた気がするが、ヤクやセックスやその他の色々な犯罪にまみれたブラックミュージックを日本で再現するとコミックソング寄りになるのはしょうがない。日本人にも退廃的で破滅的で刹那的な快楽主義的美意識はあると思うが、それをファンクとして再現できるとは思えない。
いい曲はあったのだが私自身、アダプトが想像を超えるような出来だとは思っておらず、アルバムは8曲のうち3曲を先にお見せし、その3曲の完成度をアダプトというアルバム自身が超えてこなかったように思う。
その線上で
そういえば「忘れられないの」のあたりで言っていた気がするが、「サカナクションが最大限売れ線に寄った上で自分らでも納得できる形は、80年代のシティポップ的なもの」と話していた気がする。
「忘れられないの」で早速完成形を持ってきた辺りは本当に天才だと思うし、このアダプトを通してその先の形が出来上がっていることを願っている。
それは間違いなく、シティポップとクラブミュージックを組み合わせた、サカナクション的なものになるだろう。