ジョジョに巨乳の女の子を出すべきか
岸部露伴の悩み
なんでぼくの漫画に巨乳の女の子を出さなきゃあいけないんだ!?
実を言うとこの間
出版社の編集者にぼくが描いた女の子の絵がカワイくないってけなされたんだ
女の子のキャラなんて出てもいないし
カワイイ女の子なんて全然関係ないテーマの作品なのに
そいつったら巨乳の女の子を出さなきゃ漫画は売れないって思いこんでるクソ編集者で
でも相手はプロだ……
指摘されたからには意見を受けいれる必要がある
売れる漫画の必要条件に巨乳の女の子はない
まず第一に、ジョジョ、カイジ、バキ、嘘食いなどなど、巨乳美少女なんてメインキャラに一切いなくても流行った漫画なんていくらでもある。
もちろんワンピースのナミ、NARUTOのヒナタ、BLEACHの織姫のような例もあるが、そこだけ見て「熱血主人公とニヒルなライバルと巨乳のヒロイン出せば売れる」とでも思い込んでるようなフシがある。
売れた漫画の共通点をなぞるだけで売れるほど漫画は甘くないと思うのだが、業界内からすれば「美少女」や「男同士の妄想が捗る絡み」を入れとけば売れるという認識なのだろうか。
実際にはそんなことはありえない。打ち切り漫画の終盤にはお色気描写が増える傾向があるが、これは明らかに原因と結果を取り違えた結果である。
エロで釣っとけば読者を引き留められるという発想なら、ラブコメだけのエロジャンプを連載すればいいと思うのだが、不人気のテコ入れにとりあえず入れた所で、その部分は盛り上がっても漫画の評価は上がらない。
そもそも読者視点からすれば「女のハダカ」や「男同士の妄想が捗る絡み」みたいな提案ばかりなのは当たり前だ。二次創作がそうなんだし。
編集者は一次創作してるクリエイターの表現を丸くさせたり尖らせたりする立場なのだから、読者に媚びるような「妄想のタネ」をちりばめる必要はない。そういうのは勝手に読者がやるので、そこも原因と結果を取り違えている。
結局のところ、売れてる漫画のカワイイキャラやカップリングが話題になってるだけなので、そこを狙うのは本当に本末転倒だ。
実際にお出しされた美少女キャラの話
編集者は雑誌連載レベルのクオリティを保証する立場でもあるので、テンプレ的なキャラクターを提案したいのもわかるのだが、そもそも露伴先生が描く巨乳美少女キャラがウケなければ成立しない理屈だ。
もしピンクダークの少年の話だとしたら、サスペンスホラーに巨乳美少女がいたら雑音になる可能性が高い。エロとホラーは定番だが、別に必要条件でもない。
仮に出すとしても、ヒロインとして横に置いとく必要もない。
考えてみてほしいのだが、モブの少女がシャワーシーンで襲われる描写を無理やり組み込むだけでもかなり浮く。
モブの少女のシャワーシーンと言えば……そう、「ジョジョ三部の家出少女」「ストレングス」のシーンだ。
本当にアレはメチャクチャ浮いていた。
家出少女ってなんだったの?ってスレがいまだに立つほどだ。
その答えは「クソ編集者の提案で入れた哀しきポルノ用シンボル」だ(ちょっと言い過ぎたかな……)。
第一部
エリナ・ペンドルトン
このキャラクターは本当に重要だ。ジョナサンと同じくらい重要だし、ジョセフの苛烈な性格は実はエリナ由来なんじゃあないかと思えてくるほど、芯に強いものを持った女性だ。やはりこの頃から荒木先生の女性観は固まっていたのだと思う。いつも主人公の側にいて、理不尽な目にあって泣いているばかりのヒロインなどではないからだ。
子供の頃のエピソードから強烈で、ディオのキスは水たまりのドブ以下だと見せつけ、ビンタにも逃げずに睨み返すほどの強さで、むしろディオが敗北感を味わったほどだ。よくよく見返すとディオはいろんな人間に精神的に負けている。クソ野郎は常にそういうものだというテーマが一貫しているのは素晴らしい。
どんなにジョジョが勇ましく戦おうとも、女性がいないと後が続かない。ジョナサンとのバランスがとれるような強い女性であったのが今見ても明らかで、本当に面白い漫画だなと思う。
第二部
スージー・Q
「帰りを待つ人」「エシディシの人質」「ジョセフの妻」を同時に勤めたスージーQはとても大事なキャラクターだ。エロ描写に使われたことはなかった気がするが、エリナとは違った強さを持つ女性なのは間違いない。結局ジョースター家は気の強い女性が好きみたいだからな……(ベジータかな?)。
リサリサ
リサリサもかなり大事だ。第一部のツェペリ男爵のような飄々とした優男ではなく、残酷なほど厳しくて、しかも憎たらしいほど美しくて、波紋のパワーでいうと作中でもかなりぶっちぎりで強い方であり、キャラクターとしてあまりにも鮮やかすぎる。女師匠という、今では定番になったキャラを第二部の時点でやっているのも評価点だ。
結果的には風呂が趣味ということでエロシーンに利用され、実母のハダカで興奮するというジョセフのつらい過去の一つになったが、当然あのシーンにもちゃんとした理由がある。あそこはあくまでジョセフとシーザーの協力が光るシーンなので、リサリサがまとめようとしないよう、全裸の女性は戦えない、という予防線が張られたシーンなのだ。
操られたスージー、裸のリサリサ、実は生きてたジョセフ、試練を終えたシーザーが一堂に集うシーンなので、そういう意味でも面白すぎる。
もし「裸の女を出せ」という入力の結果がこの出力なら、大成功と言っていいのではないでしょうか。
ちなみに「裸になったくれぇで戦えないなんて女は軟弱だな!」というのも大間違いだ。それはケンシロウや悟空のパンツが絶対に破けないという漫画のお約束を意図的に無視している。男だって全裸じゃ戦えないのだ。
私はジョジョが全裸で戦う姿など見たくはない。私はゲイではないので。
でもちょっと見たいかも。ゲイではないけど。
ぼくの丸太のような……。
第三部
家出少女
一応家出少女を擁護しておくと、「本当にスタンド使いじゃないけど不審者」という役回りで、キャプテンテニールバレのシーンに必要ではあったし、もし家出少女がいなければ花京院のシャワーシーンにオランウータンが近づいて承太郎が助ける地獄の場面になっていた可能性すらある(俺は別にそれでいいけど)。
ふざけずにちゃんと考察すると、ナイフ持ってイキってるガキでないと、本当にスタンド使いじゃない、という雰囲気が出せない。
大の男が「おれのナイフが血をすすりてぇって言ってるぜ~」なんて言い出したら、やっぱりスタンド使いみたいに思えてくる。
そう考えると、家出少女も頑張って脱ぐだけの役回りはあったわけだ。まぁそれでも浮いてたと思うけど。
名前すらついてないが、モブとしての役回りを期待されていたのでしょうがない。
とりあえず出してみて、本当に合わないことがわかっただけでも十分だ。
ホリィ・ジョースター
まったく少女ではないが一応触れておく。
本当に男ウケしそうな明るくて愛嬌がある女性という感じで、花京院みたいなタイプがガチ恋したのもよくわかる(うむ そろそろ出発のようだな)。
背中にスタンドのいばらが出たシーンは半分脱がされていて妙にセクシーであり、恐怖の演出と見事にマッチしている。
肉親(しかも女)に手を出されて絶対に許せねぇという動機も完璧だ。
これが不在がちな父親の空条貞夫のほうに(ジョースターの血も直接つながってないのに)イバラが生えて死にそうになったとして、やっぱり緊迫感はそこまで出ないのではないか。
当たり前のことだが、少年ジャンプのメイン層は男の子なので、友達の若くて綺麗なお母さんのほうが感情移入しやすいに決まっている。そこらへんは大いに作劇として利用すべきだ。ここでは創作におけるジェンダー論について深く踏み込むつもりはない。いや後で触れるかも……。
第四部
杉本鈴美
杉本鈴美も重要なキャラクターだ。
ジョジョに出てくる女性キャラとしてはかなり「ふつうの女の子」という感じで、幽霊ではあるが占いで人をからかうような自然体のキャラだ。
キャラ造形の話はそれくらいにして、より大事なのは露伴のノスタルジックな過去と、吉良吉影の被害者をつなぐ重要な存在だということだ。
学校の怪談の延長のような「振り返ると魂を取られる小道」に出てくる存在としては「ムサい男」より「美少女」のほうがかえって不気味なのも間違いない。
シリアルキラーの被害者として成人男性がやられるよりも少女のほうがインパクトがデカイのも当然だ。未成年はヤバイって!
山岸由花子
この女もヤバいやつだ。恋に狂ったプッツン女という感じで、スタンドの出力はすさまじい。人間の髪の毛は10万本ほどあるとされており、その一本一本を自在に動かして家すら破壊するレベルなのだから、ある種の群体型スタンドとも言える。
正直、私はジョジョに恋愛要素そのものは必要だと思っている。
愛し合わないと次のジョジョが生まれないし、たいてい10代の話なのだから浮いた話のひとつくらいあってしかるべきだし、人間賛歌がテーマなのにその中で最大のものである愛を抜きにして語るのは意味がない。誤解を恐れずに言えば、ジョジョは異能力バトルそのものが主題なのではないのだと言いたい。
由花子レベルになると命の危険を感じるほどの偏愛だが、一度「最強の愛」を描きたかったのだろう。実際、今後これ以上のイカレ女は出てこない。
何の変哲もない街にいる人が、実は裏ではヤバイという四部のテイストがよく表れている。
辻彩
私はこのキャラが好きではない。
どうしても「吉良を逃がすための舞台装置」って感じだし、シンデレラのストーリーも「由花子の最大限のワガママが結果的に全部成就する」という感じが気に食わない。まぁ康一くんが幸せならそれでいいか。
一応好きなところも言っておくと、エステ「シンデレラ」で由花子が下着姿になり、胸を揉まれるシーンはけっこう好きだ。典型的な「これはマッサージですから」のシーン。
まぁコレに関しては、全身をエステするならそこまで脱いで触るのも当たり前の話である。女性のボディケアすら男性から見ると性的なのは本当に業が深いなと自分でも思う。本能だけで言えば男は全員変態オヤジなのは女性からすると確かに地獄だ。ジョジョでは性に狂った男はあんまり出てこないが、まぁ出てきても困るので出てこなくていい(一応下着泥棒して吉良に吹っ飛ばされた男とか、強姦殺人のアンジェロ、Jガイルなどもいる)。
やっぱり「それ以上」の描写になると全年齢の漫画ではできない。青年誌でも無理だ。人体欠損描写より性行為のほうが規制されてるのはなんか変な気もするが……どちらかをどちらかに合わせればいいというものでもないので。
どうでもいいが、胸のサイズが左右で違うこと自体は当たり前らしい。心臓が近いから左のほうが大きいとか、右利きだから右のほうが大きいとか理由は忘れたが、まぁそういうものだろう。
第五部
トリッシュ・ウナ
イタリアの尖ったファッション+-×÷に身を包んだこの女は、運命に翻弄されながらも立ち向かう強い女性だ。六部になる前にこういうキャラが出て、物語に馴染んでいるところが超スゴイ。
これも言うまでもないが、トリッシュが男だったとしたら絵面がムサ苦しすぎる。魂が入れ替わるレクイエムのシーンもなんかかえって気持ちが悪い。
六部では元々レズビアンが出る予定だったらしく、五部でもゲイっぽいキャラが何人も出ているが、まったく違和感なく読めた。
「この人、ゲイです」みたいなお出しのされ方をしておらず、キャラ造形の一部として「ちょっとくっついてそう……」くらいになっていて自然なのだ。
これは「おもしろおかまキャラ」を出している他の漫画とは180°違うと思う。まぁギャグキャラじゃないってだけの事の気もするが……。
さっきと違うことを言うようだが、ジョルノとミスタが絡んでいるとナランチャが誤解するシーンや、ブチャラティがジョルノの頬を舐めるシーンなど、かなり狙った描写が多い。
私が特に好きなのは、グリーンディとオアシスの時に、ジョルノが「いやミスタ……撃ってみなければわからないッ」と言いながらミスタの銃を握って発砲するところだ。最終的に二人は生き残ったのだし、ふたりがそのつもりなら私は応援したいと思っている。尊いとはこういうことをいうのだッ。
第六部
ついに女性が主役に
ここらへんは該当するキャラが多すぎるので大雑把に括って話すが、六部のキャラは女性である必然性がなかったというと流石に語弊があるが、なんというか見ていて男子高のノリみたいなところもあって「案外アメリカンな女子の集まりってこんなんなのかな」と思った。
いい風に言うと「男も女も変わらない」のだ。それは今までのストーリーで戦闘要員にならない役が女性にまわってきただけであって、本気でバチバチにやりあう女性はもう男性的なものと見分けがつかなかったと言ってもいい。少なくとも私にはそう思えた。
私のジョジョ初見は、NARUTOか何かの単行本に入っていた新刊予告のチラシに載っていたストーンオーシャンである。ガッチリした徐倫とストーンフリ―が向かい合うイラストは今でも覚えているが、男だと思っていた。
荒木先生がアメリカの刑務所に取材に行った時、「やっぱり女性は優しいというか、暴力系の犯罪はしないのですか」と聞いたら「いや、殺人犯も強姦魔もいる」と返されたエピソードが印象的だ。
こっからちょいダルい話になります
日本で言うと、電車で男の尻を触る女はそうそういないと思うし、あんまり女性が男性を殺したり犯したりするような話は聞かないが、これがアメリカ的な違いなのか、それとも日本でもそういうことがあって、むしろ男性が女性からの被害を受けても、声を上げられないような社会の空気感がある、ということなのかはわからない。
夫が妻を殴ると問題だが、妻が夫を殴ってもあまり問題視されないのはジャガー横田夫妻についてで言われていた気がする。
ネットでのミソジニストとミサンドリストの醜い言い合いを見ていると、ああいえばこういう、水掛け論というか、偏見には偏見をぶつけて相手を貶めようとするさまがキツくて見ていられないのだが、結果的にどちらも同じくらい印象が悪い。
まぁどちらかといえば女性が抑圧されてきた側なのは間違いないと思うが、今度は女性が男性を抑圧してやろうという空気感も間違いなくあるし、既存の古い価値観の中で女性が得する部分だけは維持しようとしているフシも見受けられる。
私も一応女性に優しくしたい気持ちはあるが、そういう男って絶対にモテないよな、とも思うし、そもそもそういう話ではなく、女性は「人として」扱って欲しいのかなとも思う。
いちいち恋愛感情をからめたり性の対象として見たりするなよ、って話で、伝統芸能や相撲など、ああいった古いセカイで女性の活躍が少ないのはそういうことでもあるのだろう。男性側はセカイから女性を排斥してそれを達成しようとしたのだ。
今では逆に女性側から「女性を性的な目で見ること自体を控えるべきだ」と主張されていると感じるし、そう言われたら基本的には向こうが全面的に正しい。
ジロジロ見られるのが嫌なことくらいは男でもさすがにわかるし、ちょっと肌を出したら「出してるってことは見せてほしいんだろ?見てほしくないなら出すなよ」などと言われるのが本当に気持ち悪いのも理解できる。そもそもエロオヤジに興奮してほしくて着ている服なんかじゃあないってことだ。
本当にイスラム教みたいに「肌の露出は減らせ」などと言っている男がいることが怖く感じる。むこうでは交際を断った女性に硫酸(これは車のバッテリー液などから調達するらしい)をぶっかけるアシッド・アタックなるものがあるらしい。これからミソジニストの女性憎しの犯罪が増えるのだろう(もちろん、女性至上主義者が男性蔑視のために行う犯罪もあるが)。
それって押しつけがましくない?
私は昔、婚活アプリで出会った公務員の女性と一緒に食事をしたことがあるが、奢ろうとしたら断られ、それでも払ったら後でお金を渡された。
経済的にも社会的にも自立した女性の姿として映ったので、悪い気はしなかったし、男のメンツを潰されたとかも思わなかった。
はっきり言わないと伝わらないと思うので言うが、要するに押しつけがましいのはよくないのだ。この場合、明らかに私が奢るのを控えるべきだった。
女性の役割を押し付けるのも男性らしさを押し付けるのもよくない。最初はカウンターとしてかなり強めに主張するのもわかるが、内容がおかしいなら絶対に不満というか、感情のしこりが残る。すぐ我の張り合いにすり替わるのは先程言ったとおりだ。
巨乳の女の子を出せとかいう編集者みてぇになあッ!
最初の話にもどる
またムカっ腹が立ってきたぞッ!
話を戻すと、なんにせよ成功体験から学ぶことが表面的すぎる。売れた漫画の共通点をマネるだけじゃ売れないのは当たり前だ。
そもそも「美少女出しとけば売れる」「男同士の妄想が捗る描写があれば腐女子にウケて売れる」なんて発想が漫画と読者を舐めているとすら感じる。
メチャクチャ売れまくった鬼滅の刃みたいな作品はそんな発想じゃ絶対に生まれなかっただろう。
それらに比べると、露伴先生の「クリエイターとしてとりあえず提案されたものを形にしてお出しする」という漫画家根性が素晴らしい。
荒木先生はかなり早い段階で「女性主人公を少年漫画で出す」ということをクリアしていた革新的な漫画家である(ゴージャスアイリンのこと)。
これは明らかに「巨乳の女の子がウケる」みたいな上っ面だけなぞった発想とは180°違う。私は六部はいろいろな点でそんな好きでもないのだが、それはもちろん「女の子がかわいくない」とかいう理由などでは絶対にない。
徐倫役の声優のファイルーズあいさんは六部が大好きで、徐倫に勇気を貰ったと言っていた。
これでいいのだ。
女性読者に届いたのだから、私があれこれ言う必要はない。
間違いなく六部は名作である。
ここで終わりに
一巡後の世界となる七部以降の話は、軽く触れる程度に留めておこう。
ルーシー・スティールが運命を左右する女になったとか、八部では康穂ちゃんが重要な役を担ったとか、触れるべき部分は多々あるにせよ、一巡したこともあってか、主人公というより作中のキーパーソンや相棒という立ち位置になった。スタンドも当たり前に発現させている。
ここらへんは間違いなく六部の経験が活かされていると思う。女性が物語の中でより自然な存在として感じられた。それは七部と八部では特に「家族の在り方」みたいなところにフォーカスしていた、ということも大きい。
なんというか、描く単位が個人ではなく家族という最小の共同体になったと言えるのかもしれない。
「核家族」という言葉がある。
元々は人類学の用語であり、父と母と子、という共同体を構成する最小単位だ。これに叔父を加えて叔母、甥や姪、その叔父にまた連なるように横に伸びていく形が「親族の基本構造」だ。ちょうどレゴのブロックのように、次々くっついて社会のすべての構成員がつながる形となる。
ここらへんは学生の頃にちょっとだけ読んだ程度なので、ぼろが出ないうちに深入りするのはやめておくが、少子化になって一人っ子が増え、県外で働いていて祖父や祖母が協力できない「三人家族」という意味として社会の時間で教えるようになったわけだ。
現代では経済的理由や超過労働によって子供がいないカップルや独身世帯まで増えている。
個人主義も社会に浸透しきった後で、男と女、親と子もバラバラにされてしまって、社会とのつながりが感じられない人ばかりである。
そういう世界であえて一巡後の世界で過去に戻り、家族の在り方に触れているジョジョは、もう何歩も先を行っているのだ。
そう考えると、六部では当時よりちょっと先の年代を扱っていたのも納得がいく。女性が主人公になるには、少し未来である必要があったのだ。
そういう意味でも、ジョジョは永遠に新しい、少年漫画の古典なのだ。