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甲子園を見て考察

バイトから帰って甲子園をちょっと見た。
部屋に戻ってふと自分が彼らよりも年上であるという事実に気がついた。私は現在大学生。彼らは高校生なのだから絶対に彼らが年下なのである。私はそれが信じられなかった。

私の感覚としては二十歳くらいまでだと年齢の一年一年の重みが違う。だけどそれ以上になってくると次第に一年上とか下とか関係なくなってくる。そんな気がする。それは、二十歳までが一番体の成長が盛んな時期だからという物理的な違いもあるかもしれない。しかし、一概にそれだけが理由ではない気もする。

私は一応サークルというものに入っているが一年上の人は形式上一年上なのであって中身としては僕とあまり変わらないと思っている。だから、精神的な成長に関しては身体的な成長よりもはっきり年齢差が出るわけではないのだろう。確かに、バイトとか日々の習慣とか色々な理由があって気が利いたり知識が豊富だったりして中身に違いが出てくることもあるけれど、それは大人の場合も一緒だ。

精神的な理由が二十歳までの人間の一年一年の重みを決定しているのではないとすれば、身体的な理由の他にどんな理由があるだろう。

私が思ったのは「出来事」の密度である。それは甲子園もそうだし、受験などの勉強もそうだと思う。確かに大人も大人でたくさんのイベントがあるだろう。しかし、その出来事を二十歳から死ぬまでの時間で割ってみるとその密度はそれほど大きいものではない気がする。一方で、高校生は部活や受験などの出来事を3年間というあっという間の時間で割らなければならない。必然的にその密度は大人のものよりもかなり大きくなる。大学生にしてもその時間は4年間だ(留年しない限り)。

しかし、大学生の方が高校生よりも出来事の密度は小さくなりがちだろう。それは大学生が大人に近づくということだからかもしれない。出来事の密度には時間だけではなくて、自由度も関係しているのではないだろうか。高校生はそもそも学校の規模が大学に比べて小さいからコミュニティの圧縮度が高い。それに、校則なども厳しいだろうから、自然に高校生の受験や部活にかける思いはその密度を増す。

こういう訳で、二十歳くらいまで、とりわけ高校生の年齢の一年一年の重みは大人のそれよりも遥かに大きいものとなる。
私も、彼らに見習って20歳までの残り一年を密度の濃いものにしていきたいと思う。



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