歩いていく
人生という言葉はよくそれを「歩む」というふうな言い方で表現される。
「歩む」ということはどこかしらに向かっているはずだ。目的のない歩みもあるが、それでも歩くということが前に進むということである以上、歩くときに私たちはどこかしらへ向かっている。
「歩く」という行為に執着して人生というものを考えてみると、人生に意味なんてないとも言い切れないことに気がつく。なぜって、生きている限りどこかしらには向かっているのだから。
脱線するが、そもそも私はなぜ歩いているのか、このことについて考えてみよう。
高校時代、後輩となぜか知らないが「なぜ生きるのか」みたいな話になった時に、その後輩がふと「生まれたから生きるんじゃないですか」と言ったことが今でも私の心に残っている。
生まれたから、生きる。
単純で、しかし深いこの言葉が鋭く私の心に突き刺さった。なぜ歩くのか。それは生まれたからだ。因果とはこういうことなのかと初めてその概念が腑に落ちた気がした。
話を戻そう。私はどこへ向かって歩いているのか。
人生に目的を持っている人は少ないだろう。大概の人は道草を食って人生を「歩んで」いるはずだ。
歩むということは必ず「前」がある。「前」がなければ歩くことはできない(「前」がなければ、私はどこに足を踏み出せばいいのか)。だとすれば、人生にとってのその「前」とは何か。
私なりの答えを出そう。
日常の至る所に人間は「当て」を持っている。それを道標に人は生きていく。その道標というのは具体的に言えば言葉のことだ。
言葉ほど不思議で私たちにとって絶対であり、かつ私たちの外に屹立しているものはない。
言葉は、過去と未来、ここではないどこかにあり、或いは私の気持ちを形あるものにしてくれる。目に見える見えないということではなくて、それがそれとして在るということをはっきり私たちに示してくれる。
言葉が私たちを導き、私たちはその導きに従って歩いてく。
言葉こそ人間の「外」であり、「前」なのである。その「前」に導かれて私たちは生きていくのだ。
今日も言葉の中を生きる。