物語を生きる
最近ずっと、人間は物語の中を生きているのではないかという感覚を抱いている。それは例えば江戸時代の人からすれば自分たちの今の格好はどれだけおかしなものなんだろうかと想像する時の気持ちを常に抱いているような感覚だ。いつも目の前の光景が相対化され、偶然のものに見える。他にも色々な可能性があったのに何故か偶然今目の前のような光景が現実のものとなっていることを思い、他の様々な可能性の中で今の光景を相対化させる。なんとも奇妙な感じだ。
だからこそ人間はその奇妙さ、もっと言えばその不安から逃れ、忘れるために物語の中を生きる。偶然な現実を必然だと思い込む(別の意味で現実は必然でもあるがhttps://note.com/eager_carp7483/n/n5eea5a7c2b33)。
物語にはまず構造がある。私と他者、私たちと彼ら、家と見知らぬ場所など様々な構造である。次に言葉の意味がある。机、パソコン、光、家族など様々な意味が互いに関連しながら支え合っている。これを時間という軸が貫く。これで物語の大方は完成する。
フランスの哲学者にガストンバラシュールという人がいるが、彼もまた物語の構造を分析しようとした人なのではないかと思う。彼の著作『空間の詩学』はこのような構造の中の特に『家』の構造を解き明かそうとしたものであろう。
さて先ほど物語には構造と意味と時間があると言ったが、一番大切なのはそれらを「在らしめる」ところの『魂』である。これがなければそもそも構造と意味は存在しないし、時間も流れない。
ガストンバラシュールはこれを私と同じように『魂』と呼んだし、キルケゴールは自己と呼んだし、デカルトは神と呼んだ。
魂に対する気づきこそが哲学の始まりであり、魂こそが世界の最大の謎である(キルケゴールは魂に気づかないことを一つの絶望と考えた)。
さてしかし魂を扱うことは哲学の特権ではないだろうと最近思った。哲学というのは一つの語り口であって他にもいろんな語り口があるのではないかと。例えば、随筆や和歌などもこうした語り口の一つなのではないか。
つらつらと魂について考えているうちに、人生そのものがある種の物語に見えてきた。それでこの記事を書こうと思った。魂という絶対者に対しては人生の物語は相対的なものにしか見えない。しかし人間は物語の中を生きるしかない存在でもある。
こう考えるようになると「よい」という言葉の深みが感じられるようになった。というよりここで初めて私は過去の哲学者たちの思想の深みを知った(ここでの哲学者というのは『哲学』に限らず、魂について考えた全ての人間を指す)。