【父 野田暉行と九州の半世紀弱と和声】2024.4.11
※6【父 野田暉行と九州の半世紀弱と和声】2024.4.11
九州と父は半世紀を超えたご縁があります。
それは、「和声」です。
ひとりっ子、娘っ子、そろそろシジュウナナのワタクシ野田瑛里子の生まれる前から、若き30代の父は九州へ向かう飛行機の中で「和声の課題作り」であります。さらさらと浮かぶエピソードを父は待ち合わせておりますが、その課題を引っ提げ、解答は帰京してからさらさらと書きとめてはいたと母 香代子から聞いております。
それらは、公式ホームページでもご紹介してきた「和声100課題集」、「要約和声」、「フーガ」などに入っています。
父の遺品の寄贈先の原本の中には、ノートになっているものもあります。
さて父の向かう先には、熱心な学びの方々がおられ、父が亡くなっても永続しておられます。
大人から子供まで玄人、素人を父は分け隔てなく学ぶ心に接する人でした。
その精神の中からも人が育つこと、電話先で以前話し込んだ際に「なんでもかんでも玄人(一見プロ=金銭のような大衆文化)だけを気にすることだけがよいことではない、数が少なくても憂う必要はない、世界のポイント、ポイント(各地)に、“その人“が出ること」が玄人の繋がりになることを、父は教えてくれました。
ただ誰がそれをするのか?は大事なことであろうと、娘っ子は聞きながら気にしておりましたが
というのも、ある時期から父は、藝大成績が優秀なお弟子さんでも、中には父が全く曲を褒めたことがない上、ご卒業後までも手直しを父に求められる方達のデータを私が念の為に預かることになったからです。私のフォルダ名は「E」に父はしていたようなのですが、「A」フォルダというのがありまして‥。憂う必要はないのか‥と、門外漢の私の仕事は、長としてお薬の監査する世界とは、生き死にの世界です。門外漢が尋ねると父は嫌がらず、一緒に父の曲を聴きながら背景(裏話は毒舌です!)も説明してくれました。それらをノートに書き留めていると深夜一時まで父も話が弾んでしまうことがありましたが、作曲で人が死ぬことはありません。「だから作曲を選んでいる」などと、父は、昨今の機械時代に父の入力ミス時には、笑いながら私へ仕事選択の冗談な言い訳をしたことがありますが、父の精神は、戦時中の日本で若き戦士が立向かう日々に記した折口信夫の言葉に繋がるものがあります。
西欧史実には宗教的思考・哲学・政治・芸術の接点があることは、視点を変えれば、理系だろうと日本人あろうと私すらも、学業や趣味の延長から分かることは可能です。
芸術が救済がテーマとなり、それが音と一体となりうること。
音楽が時に時代を超え、枠を超えるのは、そのような瞬間で(曲によってはなりえませんが)、クラシカルミュージックの技法の延長は、単に言葉の思考ではなく、心の要素、その極限の精神力への共感の表現音であろうと、父から感じ取れたことはあります。
父は「言葉は要らないんだ」とまで言ったことがあるからです。 敢えて言葉で書くとそうなのかなと。
母からも聞いたのですが、父曰く「他に厳しく言ってきたことは大した言葉ではない」「自分が作曲する秘密裏の空間で自己へかける否定は、そんなものではなかった」と。
要するに私が思うに(言葉では聞いておりませんが)、作曲の恥の救済性の無さを、自己で救済する術、それが技法であると、端的にはそうなるのだろうと思います。
それはそれは、死にたくなるのが普通であろうと思います。
ワタクシなど、趣味作曲などと敢えてプロフィールに書いたのは、7歳のトイレの鼻歌を父が自己の作曲としていたことへの若干の「あん時のお味(作詞 野田瑛里子にされていた)事」と、高校1年(都立駒場の普通科)の音楽課題でワンフレーズを父に見せたところ、ニヤっとして鉛筆を神経質に右手3本の指で楽譜に寸分たがわず習字のごとく記入する雰囲気で、マンションのピアノ前に座りながら少し楽譜をメガネの中から上に見て
「ここね、一音加えたら面白くなるよ?」と、「それで、音楽先生の評価を見てみよう」という面白がり方をする父の、その2回軸で、内向的で恥ずかしがり屋はアクセル的に死にたくなりますから、本業のような足の踏み込みはいたしません(結果は、「ここ、面白い」と赤字で書かれており、A丸、でした、父は「ふぅ〜ん?あ、そぉ〜ぉ?」と穏やかな笑いで‥)。
よほどの生命力があるか、短命か、自殺か、様子がおかしいか、そのような選択肢が待っている世界で、ヘラヘラとした態度を父が取ったり迎合したことが一切ありません。
母が誰よりも最初に言ったことですが、「父には生命力」がありました。
そのためか、父が亡くなった気がなかなかしませんし、極限の時、西欧の頂点のような作曲家ととともに、父の音はむしろ私の近くにあるように実感することがあります。
さて、その折口信夫の言葉を父はノートに何気なくメモしており、一度演奏舞台挨拶上でも話しております。遺品として亡くなった直後、私は手にして読みました。
「汝が千人 戦に起たば 学問はここに廃れむ
汝ら千人の一人 一人だに生きてしあらば 国学はやがて興らむ」
九州へ父が半世紀以上通い根気よく様々に、人知れず教え、時に楽しみ、戻る。
その実は、そのような精神であったのだと、確信しております。
今でも藝大でなくとも父の『こどものアルバム』(ピアノ)を教材に使用してくださるですとか、父の講義のノートを大切にしてくださっておられる心を伺います。
父が亡くなった直後に公式ホームページへ『さあ お勉強しましょう』を寄せてくださった川上さん、そして高木さんのお二人から、この4/6-4/9(2024)にかけて、父の最後の九州となった同じ場へ、招いていただけました。
※続きは公式ホームページへ
MEMORIAL TEXT | E World JapanMEMORIAL TEXT2022年9月18日逝去野田暉行 追悼掲載文
私が赤ん坊時に初めて座ることができたのも
「おみかんを目の前に🍊」両親の居る中で置かれたことで、おみかんを目指したからだそうです!!
父も、立てない我が子をおみくじ場所で次のステップにと、立たせてみたくなったのでしょうが、ご覧の表情です「(立てません‥)by your baby」。言葉要らず。
父の東京藝術大学退任時に祝賀会。
このお写真でも「九州勢」として駆けつけてくださり、写っておられます。
※写真は肖像権を考慮し全体をぼかしております
お弟子さんの中には、お弟子さんと申し上げるのは失礼にあたるほど名だたる先生方が駆けつけてくださったこのお写真の中で、「現代の音楽」放送で司会として父の遺作(岡田博美委嘱)「ピアノ・ソナタ」を解説くださった西村朗先生が、父の翌年に亡くなられ、悲しさが増えました。
父の世代から上をよく知る初期の錚々たるメンバーがおられる中で、(おそらく若手の)お弟子さん方からのカンパで頂戴したという背広生地は、今もリメイクして私が着ようかと思うほど、私は保管しております。
私の幼少初期に、2歳手前のバリ島の「ケチャ」(まだ観光じみていない、日本人を現地で見かけるのも珍しく、元祖の現地の演奏時代の)の記憶がありますが、それは、父方祖母と母、父と九州の方々との旅行でした。
大人になってからは音楽会と、このような父の会でお会いする限りでも、ファミリーのような感覚でアルバムを眺めてきた赤子以来の娘っ子は、この度、九州へ図々しくもお二人に、何から何まで全てを任せきりのことへ疑問も持たずに、一人、降り立ちました(私は九州は30年ぶりです)‼️
かつて家族で降り立ったアルバムでしか見たことない太宰府、父の訪れた所をご一緒でき、母は体力的に来られませんでした。
半世紀以上の父と九州の架け橋をしてくださっていた、本来父の行くべき処へ、門外漢の恥のかき捨てアクセルを前面に、46年越しに足を踏み入れ恥ずかしかったですが、第二の故郷のようでした。
父はネット社会で人目にさらされることよりも(父自身はSNSも拒否、それでも情報提供は必要な社会の間に、素人の娘っ子にホームページも依頼する用心深さで)、先立つものが「強靭な信条」であられる方々に触れる時の表情の方が豊だったと実感しております。
コロナも落ち着き安心した観光ができるようになっている実感がありますが、まだ皆さんマスクは持参しています。世界各地だけでなくフランスで2万歩歩かれる川上さんと、高木さんや
「コロナに負けるな!!書家 藤永琇雲https://www.city.ogori.fukuoka.jp/blog/blog/84-2」の初対面の藤永さんにまで運転していただけ、湯布院の父の隠れエピソードなど貴重なお時間を過ごさせていただきました。
非常に濃い時間で写真もたくさんあり、有料投稿「梅の秘密」を続けて書くつもりです。
父の公式サイトにのみ紐付けしております。
フェイスブック連結タイプでそちらからもご覧になれる(?)かもしれませんが、下記公式サイト紐付けのこのblog(?)以外は、投稿はしておりません。
なにせ、SNSへのやる気が2.5perですから、このまま年間どころか全体投稿数2.5🐹で終わる可能性もありながら、つれ「ず」れ致します。
【父の公式サイト】
https://www.teruyuki-noda-officeoversea.com/
https://www.teruyuki-noda-officeoversea.com/erikoから連結blog(?)
この記事は私が書きました
閲覧環境による体系的な表示体形差の違いには責任を持ちかねます🐹