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古寿


おじさんから、メールが来た。
 病院へノートを届けて欲しいとのこと。
 メールには、『古寿』と書いてあるノートが、机の左に置いてあるから届けて欲しいとのことだった。

 年末の慌ただしい時期に急に入院になって色々と思い出したのか何なのかは分からないけど、届けてほしいというので部屋へ探しに行った。
 部屋は相変わらず散らかっていて、散乱した物置とでもいえばいいのか例えようがないが散らかった部屋である。
 机の周りにはハガキやら、ペンやら本やら、所せましと物が置いてある。
 色々と印刷されたハガキが置いてあるのだけど、見てみるとクリスマスカードのようなサンタのハガキがあった。
 サンタクロースが袋を持ってトナカイを連れて何かを想っている様子のカードだ。
 背後霊か、想像なのかボンヤリと、オジサンの顔が丸型に印刷されている。
 なんとも言えないXmasカードだ。
 一言で表現するなら、「変なカード」 赤い色はキレイだけれどなんだか怪しい。
 そんなカードだ。
 その隣に年賀状の残りが置いてある。
 自分の顔と猫。そして、トラ。
 自分の顔が一番大きくて、その次に猫、トラと順番に小さくなっている。
 写真とイラスト。
 別の年賀状は、トラじゃなくて、オジサンのキャラのイラストが印刷されている。
 部屋は、雑然と荷物が置いてあって、足の踏み場もないような感じは正にこんな感じであるといえるほど、散らかっている。この部屋を片付けるのは手間がかかりそうである。おじさんは良くこの部屋で生活できている。
 机の横のノートを届ければいいんだけど、すぐに見つかるかな?
と思っていたら、すぐに見つかった。
 ノートの内容を確認してから届けないとな。
 オレンジのノートを読んでみることにした。
 祖母が入院したらしい。
 食欲がなくなって、熱があって病院に連れて行ったとのこと。
 考えてみるとここ数年婆さんは、点々と色んな場所を巡っている。
 去年は膀胱炎や褥瘡で入院になって、コロナの影響で見舞いはお断りになりそうだった。ちょうど、コロナが始まった頃で入院のお見舞いができた。
 婆さんは、認知が進んでいるような感じで、見舞いに行った時は看護師さんが処置をするところだった。
 お見舞いの代わりに、カードを作っていった。 ハロウィンが近かったので、自分の顔をアップにした。ハロウィンカード。
 喜ばないかも・・・。
 そんな気のするカードだけど、元気が出ればと作っている。
 お見舞いのカードを置いて帰っていった。
 それから、しばらくして退院して家に帰ってきた。家は隣で一人暮らしだから、母さんが夕食などを家に届けていた。
 デイサービスに通うようになって、週に2回お迎えがきていた。
 週末にショートで泊まりでまた、家で生活というのを繰り返していたのだが、だんだん足が弱くなって車椅子が必要になり、車椅子を買うかどうか話し合いをして、結局は買わないで施設の車椅子を使っていた。
 車椅子は必要だから買った方がいいよ。 と言ったのだが、介護のレベルが変わるからかスタンダードの車椅子はあまり勧めなかった。
 色々と想いを巡らせている間に時間は過ぎていき、色んなパターンの展開が訪れた。
 家に介護の人たちが来るようになって、いつの間にか、デイサービスに通っていた。
 母が支援計画を話し合って祖母の介護の段取りはいつの間にか始まっていた。
 いままでの日常が急に慌ただしくなり、一日済ますのに大変な毎日になっていった。
 日常の生活のスピードが上がり、何にもしていないのに生活だけで目が回りそうになるような感じである。
 スピードが追い付かない。
 それくらいしか表現できなかったけど、動きが遅くなっている気がする。
 車で例えるなら、エンジンだけ唸って速度が上がらないんです。と色んな人に言っていた。
 訪問の人たちに色々と話すのだけど、話している内に時間が進んでいって、ちょっと待ってくれ。と言いたくなることばかりである。
 時間の感覚が自分は変わっていないのだろうか、周りが上がっているのだろうか。
 時間の感覚が変わっていく。時間は同じなんだけど、それの向きあう感覚が変わる。
 老化が進んで早くなる。
 速度がだんだんと追い付いているなら大丈夫なのだが、遅れるとキツイ。
 コロナの影響で色々あるけど、そのことで一日が済。一ケ月が済。三か月が済。半年が済。一年が済む。
 結局進歩らしい進歩は少しずつで、なかなか進まない。
 日常に追われて、何かが起こるとバタバタするばかりである。
 婆さんはデイとショートを繰り返して、毎日が同じような日々の繰り返しの中で、毎日が延長している感じである。
 足はどんどん弱っていき、リハビリをしているのだが、いつの間にか立てなくなっている。
 気が付くと進んでいないようで、進んでいる。
 バタバタして、早くなったかと思えば、時間の経つのがゆっくりに感じたり、その時々で様々である。
 足が弱くなると、トイレの問題がある。
 トイレに間に合わないのである。
 祖母の家には簡易のトイレを頼んで寝ている近くにトイレができるようにトイレを置いていた。
 慣れていないからか、あまり使おうとはせずに、移動して古いトイレを使っていた。
 人それぞれに考えがあるので、なぜかは分らないが動ける間は、古いトイレに行きたがった。
 食事と排泄は欠かせない。
 食事は取れるけど、足が弱いからトイレが問題である。
 なかなかである。
 介護は母が一人で抱え込むことになっている。
 介護はする人が決まってくるので負担があると思う。
 日常の生活に、色々な問題が起こり自分自身も歳を取っているのでトラブルがある。
 どこそこ、調子が良くないのである。
 人の感覚は、人それぞれで良いと思う場合もあれば、悪いと思う場合もある。
 思える幅が少ないけど、大概が良いか悪いかで考えるくせがついている。
 歳を取ると、考えの幅が広くなるのだが、それでも人間だから、快、不快がある。
 一日を平穏に過ごすのがありがたい。
 人は生まれてから天に召されるまで、様々な体験をする。
 体験の幅が限られている場合もあるが、色々なことがある。
 一日の流れのパターンから四季の流れから様々である。
 温かい春や夏ばかりでなく、実りの秋や辛い冬もある。
 御線香を一本灯す時間もない時もある。
 人によってパターンが変わる。
 キレイな部屋の人もいれば、汚い部屋の人もいる。
 人のパターンが人生を創っていく。
 傾向は現れる。
 日常を大切にするなら、日常のことに目を向ける。手洗いうがいが習慣だと、手洗いうがいをするのに苦痛はない。
 習慣になると簡単にできるのである。毎日の流れが変わってきたらその傾向を見る。
 結果から逆算するつもりで見ると、問題が解決する方法が見えるかもしれない。
 問題は解決しないかもしれないけれど、自分自身との向き合い方が楽に感じたりするかもしれない。
 足が弱ったり、入院したり、問題から学ぶというか解決の方を目指して模索するしかない。
 繰り返し繰り返し人生は流れていく。
 繰り返しの中で自分の進む方を決めないと流れに流される。
 生まれたらその後のことを自分や周りの経験から逆算するのが近道だと思う。 
 結果は違ってもパターンは似ている。
 気を付けないとパターンはパターンですべてオリジナルということである。
 似たようなものから自分の個性を作ると良いと思う。
 人生はそうなんだと思う。
 カードも当たるかどうかは分からないけど、作ってみることに意義があるのだと思う。
 作ろうとすると、答えがみえるかもしれない。少なくとも作った経験ができる。
 経験できなくても、考えることでイメージは広がる。
 祖母は、歯がなくて入れ歯だった。母ちゃんが、食事を運んでいた。食欲はあったので、それが元気の源だったと思う。
 毎日の様に介護の人が慌ただしく通り過ぎていった。
 家に訪れる人が色々と違う。職員は沢山いるんだね。
 少子化で若者の働き手が少なそうなイメージだけど、ここは違うのかな。
 お年寄りに接する態度が誠実である。孫でも祖母にここまで優しくはできないということを実践してくれる。
 頭が下がる思いだ。
 しばらく家で生活していたのだけれど、トイレの問題が大きくなり負担が増えだした。僕は、何もしてあげられないけど、手を取るし結局、祖母は老人施設に行くことになった。
 段取りは、デイケアとショートを繰り返している時に済ませてあって、生活の場が変わるだけだった。
 去年の病院入院から一年しか経っていないが、あっという間に展開が進んでしまった。
 車椅子になったのが一番の変化だと思う。
 家ではなくて、他の場所ならまだ歩けていたのではないだろうかと、後悔の念のようなものがよぎるが、年齢を重ねれば仕方のないことなのだろう。
 本人が一番苦しいのかもしれない。
 動けないのは不自由であり、そのことは、痛いほどよく分かる。
 ある日の朝、施設の人二名が来ていた。いつも二名なんだけど、見たことがあまりない人が二名だった。
 予定ではその日に、施設に移動の予定だった。手慣れたようすで車椅子を押してもらって、家から向かっていった。
 その日はなんだか、肩の力が落ちたような感じでなんだか雰囲気が暗かった。
 別に今生の別れじゃあるまいし。
 と、自分に言い聞かせていたけど、なんだか沈む感じだった。
 その後、僕自身も色々あったが、家でハガキを書いていた。
 一ケ月が経った頃に、またハロウィンカードを送った。一年が経ったのか。
 遠くを見るような感じでカードを眺めていた。
 その前に、あじさいのカードと、アサガオのカードを送っていた。
 そして、荷物を届けに行ってもらった時にマグを渡してもらった。
 写真つきのマグで黄色の服を着た孫が載っている。
 写真を見て、誰だか気づいたらしい。
 一ケ月後くらいに、みかんを差し入れした頃に、食欲がなくなって、熱が上がったそうだ。
 いつも、定期的に病院に連れて行ってもらっているらしく、体調の変化に敏感だった。
 ご飯を残しているのを見て、熱を測り病院に連れて行ったようだ。
 急に家に電話が掛かってきて、入院するから病院に行ってほしいと言われた。
 僕はすぐに、病院に向かうことができなかったので、父に行ってもらって後から合流した。
 病院の名前を聞いて母に、曽於会病院だよというと、分かった。と言っているのだが、どこへ向かっているか分からない道を車で走っていたので、どこに向かっているのか聞いたら、駅前を目指している様子だった。
 駅前の病院は別の病院で、婆さんが運ばれた病院は、違う病院だよと、行き方を説明した道順があまり、ピンとこないみたいで、細かく道筋を言っていた。
 病院につき、受付で児島の家族の者ですが、どちらに行けばいいでしょうか。
 と尋ねると、突き当りを10番に行って下さいと言われた。
 10番に行くと父親が書類を持ってポツンと座っていた。
 よく、迷わずに病院にこれたなと、感心していて、どんな様子と訊くと、内視鏡を受けていると言っていた。
 しばらく、どういうことになるのか分からないが指示を待っていた。
 施設の人が帰ることを告げて、病院で付き添いが必要なことを説明していた。
 病院では、場所が変わり、目が覚めてから、どこに居るのか分からなくなって、パニックを起こすかもと言っていた。
 近くに入院の経験があるから、また入院なのかもと、不安に思ってしまうかもしれないというのはあった。
 不治の病なのではとかとか、空想が働きすぎて、病気を悪い方へ考えたりしないか心配だった。
 結局腹部に石があり、検査の時点ですぐに取ったので、傷が悪くならないかと心配しての入院だった。
 傷が感染して大ごとにならないかが心配だった。
 祖母は、認知で夜中も起きている。
 音を立てるので、入院は長くはできないのは初めから分かっていることだった。
 病院等の方々は計画の立て方が緻密なので心配は少なかった。
 石は取れたんだけど、石があるのを放っておいたらうっぱしるような、液体の流れで苦しくなるようなことを言っていたので石をとれば一安心である。
 ドクターからの説明があって、どこにどんんな石があって、どの様な方法で摘出したと、明瞭に教えてもらった。堂園先生は丁寧な説明をしてくれた。
 僕と、母が心配にならないように、細かく気を配って説明してくれた。
 父は宙を眺めていて話は聞いていない様子だった。
 心配性の母は大丈夫だろうかと、不安な様子だったが、いつも大丈夫だったので91歳まで生きているのだから、大丈夫と言い聞かせてその日は帰った。
 父親は残り、祖母の近くで様子をみることになっていた。
 いつも、家でのんびりしているから、病院だと環境が変わるので、付き添いは大丈夫だろうかと心配ばかりが増えていった。
 まずは、夕食を買って、一日目が済んだ。夜は長いだろうと思ったが想像していても、実際の状況が分からないので、色々考えるのは止めて、眠りにつくことにした。
 色々と病院への流れを寝る前に振り返っていたが、今日も無事で一日済んだことに感謝していた。
 また明日もあるし、容体が悪くなった時のことも考えておかないと・・・。
 親戚に、祖母が入院したことを一人一人簡単に告げていった。
 返信はすぐ届いて心配している様子なのですぐに返事を返した。
 家で病院のホームページを見ていた。
 昭和に外科ができて、だんだんと大きくなっている様子が伝わってきた。
 病院は少しずつ規模が大きくなる。
 その様な感じで地域に貢献してきたようだ。スゴイなと、あいさつ文を見て感動した。
 この病院なら、婆ちゃんは良くしてもらえるだろうという気持ちになった。
 婆さんもだけど、父親が迷惑をかけていないかが気になった。マイペースだから病院で騒いでないか心配だった。
 婆ちゃんが入院しているのか父親が入院しているのか判断できない状態になっていないかと、心配だった。
 親子そろって入院のような感じだから、安心は安心なんだけど、石を取ったところが悪くなってないか気になる。だけど、その辺りはどうしようもないから、天に任せえるのみのような気分だった。
 家で何もせずに電話を待つのも仕方がないので、病院にすぐに行ける範囲で移動することになった。
 親戚の七五三の記念品と、お祝いの花の品を探しにお店に行くことにした。
高速に乗り、速度を落とし気味に走っていると、後続車が列をなしてきたので、追い越し車線で速度を落とし、追い越させていった。高速は、通りがキレイに整備され新鮮な感じがした。五十町から先は行ったことがなかったけど走ってみると、雰囲気が変わり、旧道を走っていて、タイムスリップしたかのような感覚が湧いてきた。
平塚で降り、平塚から下道を走ってお店に向かった。
 お店は再オープンしているようで、花輪が飾ってあった。
 店に入って奥の方が新しくなっていた。
 置いてある品物で、器の絵柄が山のような趣のある陶器が目についた。
 この器を七五三の記念にどうだろうと考えて、お店の人を呼んだ。
 そして、棚を眺めていると、花の盆があった。
 木の色合いが深い色の丸盆があったので一つ購入した。
 赤飯とカレンダーが開店のお祝いだった。
 ゆっくりと陶器を見たかったが、気を抜いている頃に電話がかかってくるといけないので、早々と店を出て家に向かった。
 車の中で、祖父と祖母の話をしていた。
 昔自分が七五三の時はどうしたのかと母に聞いていた。
 七五三では親戚が集まって盛大に祝ったんだよ。長男は初めてだから、お祝いに力が入っているようだった。
 祖父は数年前に亡くなったのだが、亡くなる時に、家族が殆ど集まってくれて亡くなる時は家族に看取られていくような感じだった。
 高齢だと少しのことで大変なことになるので、少しのことが気になり心配である。
 祖母も、急に具合が悪くなったりしないだろうか。
 心配の種は色々である。
 家に帰ってみると父が家で休んでいた。入浴して、休んでいるようだった。
 夜はまた病院で付き添う予定だから、我が家で気を休ませていた。
 夕刻になりまた、祖母の病院へ向かった。
 自分の部屋で本を読みながら色々と考えていた。
 自分の命はどこからやって来たかと考えると、両親からだ。両親は、両親からとずっとさかのぼっていくことになる。
 自分の人生は自分で把握できる。
 人の人生は殆どが把握できない。親のことでも家に居る時以外のことは分からない。祖父母といったらもっと分からない。
 小さい頃、盆と正月に実家に帰って来ていた。
 歳を取るごとに記憶が曖昧になっていくのだけど、幼い頃実家で正月を迎えていたり、盆に帰ったり、記憶している。お正月は餅で、盆はそうめんである。
 祖父母は、餅とそうめんから、イメージが始まる。色々あるけれど印象的なのはそれである。
 もーいくつ寝るとお正月。と口ずさんで正月を迎えようとしていた。幼い頃はなぜお正月に実家に帰るのかよく分からなかった。
 今でも、盆や正月に集まる理由ははっきりと言えない気がする。
 ものごとの知らない面が多いのである。急に調べて知ったかぶりをしたり様々である。盆は祖先の霊が帰って来るから家で出迎える。正月は暦が変わるので新年を迎えるのを家族や親戚が集まって酒肴をしたりする。
 他の家の正月は分からないのだけど、正月は料理を食べたりするのだろうと思う。
 年賀状が届いたりする。福笑いの番組もあったりする。
 正月は賑やかだ。コロナのお陰で数年人が集まる機会がなくなった。
 親戚が集まっていたのが懐かしく感じる。祖母は、今頃何をしているだろうか。
 父が電話をかけてきた。変わりなく安定している様子だった。
 家では母と二人きりだったので、昔の思い出を振り返っていた。
 幼い時の記憶があまり覚えていないので、どんなことをしていたのか、教えて欲しかった。甥の場合は生まれてから、成長しているのを動画で見れたりする。
 昔の人は動画で見るとかができないし、本当に盆と正月が貴重だったと思う。
 婆さんはどの様な気持ちでいるだろうか。よく、実家にいる時に、「欲しいもんは何もなか」と言っていた。
 あれが本当なのだろうか。朝のパンとかを本当に感謝しながら食べていた。 
 歳を重ねるごとに生きていることの不思議さや貴重さを想うのだろうか・・。
 体調が優れなくて、何もしたくない時もあるだろう。そんな中でも、喜ばしいことには本当に喜んでいた。
 節句の頃、甥の名前旗を床の間に飾っていた。家紋と名前が刺繍してあって、何と書いてあるかと訊くと、答えていた。
 部屋が変わって他所に行ったりしてても正月をしていた和室は分かるらしく。
 家に居ると、安心するようだった。
 名前旗は外に出れないから、庭にこいのぼりを上げるのをイメージできるように作ってもらった。
 甥とか弟夫婦は帰ってこれなくても、実家にいる祖母と両親と僕が日常の変化を味わえるように、季節の行事として鯉のぼりをイメージしてみたりした。
 デイの時の移動で鯉のぼりは上がっているのを見れたりしていた。
 公園の鯉のぼりをハガキに書いたりした。
 まだ、一回しか5月は訪れていないのだろうか。令和になって3回目だけど、祖母は外で五月を迎えるのは初めてかもしれない。
 時の流れはあっという間である。
 名前札の飾りつけは業者の人のように僕が飾り付けた。「こんにちは、本日はお日柄もよく、名前旗の飾りつけにお伺いしました。失礼します」と玄関で挨拶をして、その様子を動画に撮ってもらって、飾りつけを行った。
 結納もこんな感じだよと、母に説明をしていた。流れ的には似た部分があるよと話しながら、名前旗を組み立てていった。
 飾り付けるとなんだか見ごたえのある気がする。
 祖母も父も母も、節句を祝えた気がして深い喜びがあるような感じだった。
 外に出れなくても工夫すれば、日常に感謝して喜べるのだと思った。
 何もない日常は本当にありがたい。
 夜が長くなると、昔のこを考えるのだけど懐かしいことが沢山ある。その近所の浜に正月の初日の出を見に行ったり、夏は花火やプール。冷たいジュース。炭酸とか飲み物系を思い出す。
 喜ばしいことを思いだすと、どんどん思い出していく。どちらかというと、僕自身は辛いことが多かったが、良い出来事を振り返るとそっちばかりに意識が向く。
 思い出すなら良かったことである。
 節目節目や家族のこと、喜ばしいことばかりである。
 生きているとお祝いの数がどんどん増えている。
 子供のいない僕はお祝いの数は他の人より少ないけれど、それでも、喜びは毎回ある。
 自分がどう受け止めるか次第である。
 祖母も何もほしいものはない。と言っているのは、十分喜びを感じているからなのだろう。九十一歳になれば九十一の考えがあるのだろう。人それぞれ違うけど、九十一年は生きていないのでその時の長さを知らない。
 苦悩もキリがないと思う。
 でも、少しの喜びに大きな光を当てることで報われることもあるのかもしれないと思う。
 辛い病気でも、付き添いに息子が来てくれるので、施設外お泊り面接のような気分で、残りの人生で少ない対面を大切にしないと、そんなに逢う機会はほとんどないと思う。
 石があったりしたことは、良くないことかもしれないけれど、そのことによって、病院で親子で過ごせる時間があって、幸せな面もあると思えば、幸せである。
 価値観は本人次第なので、大変だ。と感じていれば大変にしか思えないかもしれないけど実は喜びが隠されてあることに気づくと恵は日常に沢山ある。
 年齢が増すごとに人生が深くなる。
 40代でも味わい深いから九十代はもっとスゴイと思う。
 感謝に絶えないのかな。笑
 次の日は、環境に慣れてきて父と話していたということだった。
 息子を忘れかけていたと思ったらしっかりとした口調で、語りだしたみたいだ。
 父は「ホがねよ」と言っていた。
 父の話はあてにならないが、石を取ってから具合が悪くなっているとかの様子はなさそうだった。
 足が弱くなると若者とは違うので、リハビリと言っても、回復するのではなく、足が弱るのを少しでも遅らせようと訓練している。
 でも、入院したりすると、点滴などで、ベット上が多くなるので、体力が衰えるのが早くなる。
 食が良いので、体力はあるほうだが、身体を使わないと衰えるのは早い。
 年も暮れる気配である。
 一年がもう過ぎるのだろうか・・・。生き返りの道で、風景を眺めていると懐かしい光景だと気づく。
 以前もこの道を通った記憶がある。近くの施設で講演会のようなものがあり、見にいったのである。
 病院はその時に存在を知り場所を覚えていた。この辺りでは一番大きな病院だけど、地元の人でも病気に縁がなければ知らないこともある。知人に祖母が曽於会病院に入院したんだと話すと病院自体を知らないようだった。病気に縁がなければ、病院の名前は憶えないからな。と一人で考えていた。
 自分の知っていることが他の人の知っていることとは違うというのは分かるような気がする。
 自分が知っているから相手も知っているとは限らないということだ。
 同じ地域に住んでいても情報が違うのである。
 意識しているものが記憶に残っているので、知っている様で知らないことは多い。
 親子でも知らないことは沢山ある。祖父と孫では世代も違うから知っているようで知らないことは多い。
 祖母の人生の半分は全く見ていないので、話す内容で想像しているだけだ。
 昔はこんなだったよ。という話を想像しているだけである。
 写真でもあれば、絵が分かるのだけど、昔の父の様子もなんとなくしか分からない。
 話している人の主観を伝えるので、伝わっていることが自分の感覚とは違う可能性もある。
 祖母から聞いた話は、祖母の見えている世界である。
 人それぞれに解釈が違うので人を理解しようとすると時間がかかる。
 話の内容が歳を取ると正確な部分を伝えようとすると細かい説明がどんどん細かくなって生命の範囲が行き届かないことになる。
 説明をする気があっても、できないというか説明にも時間の限界のようなおものもあるのだと思う。
 見れば一瞬だけど、説明だとずっとしなくてはならないこともある。
 百聞は一見にしかずで見ると認識度が大分変る。
 写真はすぐに、伝えたいことが見えるから、分かりやすく説明するのに役に立つと思う。善いことは取り入れると良いと思う。
 色々心配してたけど、この様子だと、急に具合が悪くならないと、大丈夫なようである。
 3日目だから、気は抜けないけど、何とか大丈夫なのではという気がしてきた。
 そんな風に考えていたら、父が医師に呼ばれ退院が決まった。
 家に電話がかかって来て、明日退院だと。と告げられた。
 やったーーー♪
 入院は、なんだかんだいっても、心配してしまう。
 高齢でも、退院が喜ばしくないのもあるので、喜ばしい退院は本当に恵まれている。
 この年で、喜ばしい退院はついてるよ。そんな風に、ついていることに感謝していた。
 入院見舞いをしていなかった。退院の方が早くなりそうだ。
 そうだ!メッセージカードを送ろう。
 そう思い、メッセージカードを作成する。今の時期はコスモスだから、コスモスの花を選んで文字を入れよう。

 感謝しています。
 色々と大変ですね。
 今日も無事で良かった。
 お大事になさって下さい。

 【窓】
 窓の外 右に出てから また右へ
 帰りの道が つづく道なり    たけみ

 こんな感じでメッセージカードを送った。送ったんだけど婆さんには確認ができない。
 確認のしようがない。
 届けてくれるらしいから、届くのを祈っておくしかない。
 自分の力の及ばないことは、人事を尽くして天命を待つのような心境になる。
 できることは少ないけど、限られたできることをやろうと思った。
 伝わらないかもしれないけれど、自分がしたことは自分自身が見ているので真摯に生きた方が生きやすいと思う。
 考えはそれぞれだけど、僕はそんな風に過ごしてきた。いつもそうだとは限らないが今は少なくともそう思う。
 メッセージは、どの様に届くのだろうか。
 色々疑問は浮かんでくる。
 明日元気に退院できたら、本当に嬉しい。
 ふつふつと嬉しさがこみ上げてくる。
 帰りの道に見える風景は、コスモスが見えるよ。
 コスモスの花を見ながら岐路に着けば嬉しいだろうな。
 色々と想像すると、嬉しさでいっぱいである。
 明日は、退院する様子を見に行かねば・・・。
 時間帯で見れないかもしれないけど、頑張って病院に行こう。
 そう思って、休んだ。
 朝、なんだか気持ちよく目覚めた。
 祖母の退院の日だ。メッセージカードは届いたかな?
 2時ごろ退院だけど、早めに病院に着いた。
 昼前でお腹が空いて、ご飯が食べたくなった。そばでも食べよう。病院の奥の部屋でそばを啜っていた。
 父親がなんだか可笑しそうに見ていた。
 そばを食べている様子が滑稽なのか分からないけどチラチラ見てるよね。
 どうしたんだろ?
 母もお腹が空いたみたいでそばを食べていた。
 ソバって手軽に食べれるからいいよね。
 カップラーメンを考えた人は天才だよね。本当にそうだね。
 と、そばや、カップラーメンをほめたたえていた。
 婆さんはどんな感じだろうか。
 長い間見ていないから、病院で見るのは本当に恵まれたチャンスである。
 下手したら、これを逃すと一生逢えないかも・・・。
 そんな気がして、祖母が見えるのを楽しみにしていた。
 父がブラブラしていて気になるけど、気にしてもしょうがないので、心を落ち着けていた。
 変な場所に連れてこられて息子がうるさくて、どんなだっただろう?
 プチ旅行のような気分だったのかな?
 心配しているのは分からないかもしれないけれど、本当に無事で良かった。
 堂園先生が、リスクはある。と語っていたことが気になっていた。
 でも、リスクを乗り越えれば大丈夫さが大きくなると思い。
 心配する癖を脇に寄せていた。
 これで、しばらくは大丈夫だろう。
 ん?今日は何日だっけ?
 誕生日だ。婆さんの誕生日。
 退院と重なって本当に喜ばしいね。
 なんていうか。出来事に名前をつけるなら「古寿」だよ。
 メッセージ届いたかな?
 コスモスの花を遠くに見ながら、家の方向に帰るとなんだか、気分が良くなりそうじゃないかな。
 婆さんが病棟から出てくるのを今かとまっていた。
 施設の人が他の入院患者を連れてきた。
 「もうしばらく、おまちください」と言って姿が遠のいた。
 10分ぐらいして、車椅子に乗った祖母が降りてきた。
 「どっかでみたことがあいよな人が」
 そう呟いて僕たちを見てる。
 母が、「大変なこやったな」というと「良かった」と呟いていた。
 婆さんも退院するのがなんとなく分かる様子だった。
 「良かった」「良かった」と繰り返していた。
 久しぶりに見る祖母は、意外と元気そうだった。
 この様子だと「古寿」はまた何回か訪れそうである。
 歳を取るとヨカコッがないと。僕は入院しているとよく聞く。
 退院を無事にできるのは本当にありがたいので、とても嬉しい。
 婆さんもこの辺りで一番大きな病院を退院できた経験は残りの人生で、そんなに多くは無いと思う。
 今回の入院で久しぶりに味わえた喜びを大切にしなければならない。
 そんな風に考えながら、祖母の様子を見ていた。
 車椅子ごと乗れる車に乗り込んでシートベルトを装着している。
 帰りの道が楽しみだね。
 先に帰ろうか。
 家に向かう道を走りながら外の風景を見ていた。
 自分の人生で記憶していたい良い日だ。と思っていた。
 道を走りながら遠くを考えてまた、車線に目をやる。
 婆さんコスモス見えるかな。
 コスモスの花に思い出がまた一つ増えた。
 良い出来事は増えていく。起こっていることは良いことの種なんだ。
 歳を取るごとに喜びの花が咲いていく。そんなイメージで毎日がすごせたらいいだろうな。
 また、家に帰れば日常の出来事でバタバタしてくる。
 「古寿」を辛い時には思い出さないと。
 遠くを見つめてまだ見えぬできごとに想いを馳せていた。
 家に着いておにぎりを食べた。
 お結びが好きなんだな。一人で呟いてノートに文字を書いていた。
 
 ノートにはよく分からない思考の記録がしてあった。
 おじさんはこれを病院でまた書くのかな?
 それとも正月が明日だから、正月は「古寿」だーーって余韻にひたっているのかな。
 おじさんも独特な人だよな。
 でも、悪い人ではないかもな。
 おじさんが、日記を届けて欲しいという意図はよく分からないけど、おじさんなりの理由があると思う。
 おじさんの入院はどのくらいか予想がつかない。本人次第なんだけど、長い時は長いし、短い時は短い。
 正月を病院で過ごすのは2回目である。
 入院していても、外出できるのだが、今回は、病院で正月を迎えるらしい。
 きっと、色々な事情があるのだろう。
 おじさんも、あまり幸福と言える人生ではなかったのかもしれない。
 子供がいないというのは、それだけで不幸である。
 でも、その不幸の中から喜びを見る習慣をつけていた。
 良かったことを探すと、良かったことしか見えないよ。
 そう言っていた。
 このノートを見て、婆さんとのメディテーションのような文章でその当時の思考を読もうとするのだろうと考えていた。
 考えていることを読むと、同じことを考えているのに近づく。
 文字を読んでいるだけの状態なら同じ音を聴いているのと似ている。
 同じ音を聴いても感想や結果は違うけど、同じ体験を共有している。
 同じ体験がしたければ、同じ文字を読めばいい。
 言葉は消えるけど、文字は残っている。残っている文字を読むとその文字が見える。
 時間が見える。
 時が止まったかのような気分を思い出して今の良かったことに目を向けることで乗り越えられることもあるかもしれない。
 辛い入院。辛くはないかもしれない寂しい入院をすこしでも、役立てれば、「古寿」は活かされるだろう。
 おじちゃんの思考が伝染してきたよ。 
 なんだか感慨深くなっちゃった。
 おじさんはいつもの感じで明るく、ははははと笑いながら本でも読んでいるかも。
 おじさんも日記の続きをかいて「古寿」を迎えればいい。
 古寿っていうのがイマイチ分からないけど使っている感じから、古い喜ばしいこと?
 寿だから、誕生日?結婚式?
 寿?
 なんかめでたいことなのかな?
 明日は正月だからめでたさつながりで日記の鑑賞かな?
 自分自身でお祝いをするのかな?
 喜びを作り出せると豊かな人だよ。
 おじさんは不幸だと思っていたけど、案外豊かに生きていたのかもしれない。
 その人の経験はその人にしか分からない部分があると書いてあったから、本当にそうだよな。
 体験をして、どの様に考えているかは本人しか分からない。
 想像するしかない。
 そこまで、詳しく調べられないかもしれないけれど、おじさんは色々と抱えているんだよな。
 人は色々抱えている。
 そのことを良かったことに導くために古寿が必要だったのかな。
 わからないけど、今日中に届くかな。
 今から準備を始めて手渡して明日までに届くかどうかは分からないけど、喜びは今までの中から見つけていくんだね。
 おじさんはいつも、メッセージを作ってる。
 部屋を片付けないとゴミ屋敷だけど、ごみの中から宝が生まれた。
 って。喜び。喜び。
 日常に感謝でやる気を出さなければ・・・。
 自然に沸き起こるエネルギーの元を意識だね。
 病院は車で30分くらいのところにあった。
 受付で、児島の家族の者ですが、日記を渡して欲しいのですが。
 というと、「わかりました」
 と預かってくれた。
 おじさんも、何を考えているのかは分からないけど、こうやって何か指示できているうちはまだ、元気なんだと思わないと。元気がなくなったら、おじさんが、おじさんでなくなる。
 太ったおじさんはいつも笑顔。
 そんなイメージ。
 どちらかというと、部屋のように散らかった思考の持ち主だが、自分らしく生きている。今日も無事で良かった。
 本当に今年も良い一年だったね。
 
おじさん オレンジのノート 古寿 

このキーワードが記憶に残りそうだよ。
鹿児島の年末はいつもの様子。
僕は幼少期から、正月は鹿児島で迎えている。
おじさんは太っていて陽気な感じである。
今年の年末に調子が悪いって言ってたけど正月が迎えられるか分からん。
と言っていた。
いつも心配している様子で何とか今を凌いでる様子である。
メールをしてくるというのは毎回ではなく本当にたまにだ。
だから、メールが来た時にはおどろいたんだけど、一体何の用なのか分からないまま、言われた通りに日記を病院へ届けた。
僕がおじさんに、してあげれることは、限られているけど、おじさんも他に沢山の知り合いがいるわけでもなく。
そう思うのだけど・・・。
意外と知り合いは多かったりして。
曾祖母の様子があまりよくないのか、よく分からないけど、日記では元気そうだった。
年齢が重なると日々の何気ないことで困ったりする。
日記を届けることで、おじさんがまた、元気になってくれればいいと思う。
最近は、コロナで色々と病院への面会の方法とか面倒になっている。
施設の曾祖母も殆ど逢えない状態だ。
おじさんは、数少ない記憶の中の喜びで、今の辛い状況を乗り切ろうとしているのだと思う。
僕たちが何気なくできていることは、ある人にとっては、とても恵まれたことなのかもしれない。
若い頃から病院に入退院していたおじから見れば、日常生活が送れることのありがたさをいつも言っていた。
分かるか?
当たり前に思ってること、身体が動くとか、目が見えるとか、耳が聞こえるだとか、話せるだとか、触れることができるとか。
他にも日常の中でできていること。
これは全部当たり前じゃない。
特別に努力をしなくても、苦痛がないだけで相当恵まれていると、おじさんは思うな。
普通に動いて食事して買い物してって、できていること。
一つ一つ大切にしてみるといいよ。
婆さんが今まで元気だったことも、元気な時は気づかないことが今になって色々と考えさせられる。
どういう風に人生を生きてきたのかとか、もう、認知が入ってて殆ど訊けない。
その人の人生って何だろうって思うと隣にいる人の何が分かっているのだろうと思えてくるよ。
何も分かっていない。
人生に迷った時は、自部自身もよく分からないと、分からないから理解しようとすること。
自分の最後から逆算していくことを意識するといいと思う。
自分が一体人生で何を成し遂げたいのか?
その答えが鮮明に見えていればそれだけ鮮明な人生が歩める。
おじさんは、心を明るく保とうとするだけで、力が必要だった。
明るくなることを意識しないとダメになりそうだった。
でも、なんとか辛いことが耐えられたのは色々な人の言葉のお陰だった。
そして記憶してある思い出。
思考。
そういったものが人生を生きる力となるとおじさんは言っていた。
おじさんが喜びを見つめて古い思い出を大切にするように良い出来事を振り返る習慣を持とうと思う。
一日の中で良かったことを思い出す。
おじさんが、喜びを探しているように、僕も良かったことを探していこうと思う。
 正月は病院か。 古寿。
今年も一年が早かったな。

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