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岡田一実『記憶における沼とその他の在処』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2018.10.13 Saturday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

ふじみんこと、岡田一実さんの第3句集。『記憶沼』という通称で呼ばれています。

「な、なんだ、これは!」
読み始めて数ページで、一句一句の濃密さに射貫かれてしまいました。十七音ごとに立ち止まらずにはいられない、もったいなくて簡単には進めない、そんな句が並びます。

①まず十七音の詩にドキリとする→②そこにあった季語にハッとさせられる→③一句の詩と季語の重層性にまたドキリとする

変幻自在なふじみんの俳句はこんな風に染み入ってきます。

「真正面から」
蟻の上をのぼりて蟻や百合の中
阿波踊この世の空気天へ押す
椿落つ傷みつつ且つ喰はれつつ

「裏切りも」
秋晴や毒ゆたかなる処方箋
その中に倒木を組む泉かな
瓜の馬反故紙に美しき誤字のあり

「届く五感」
喉に沿ひ食道に沿ひ水澄めり
口中のちりめんじやこに目が沢山
体内を菅は隈なし百千鳥

「飄々と」
喪の人も僧も西瓜の種を吐く
端居して首の高さの揃ひけり
文様のあやしき亀を賀状に描く

「まっすぐ」
細胞に核の意識や黴の花
みづうみの芯の動かぬ良夜かな
龍天に昇るに顎の一途かな

「無常…」
宗教に西瓜に汁の赤さかな
死者いつも確かに死者で柿に色
常闇を巨きな鳥の渡りけり

空洞の世界を藤のはびこるよ
白藤や此の世を続く水の音

この世もあの世も私も、実は一体で「空洞の世界」があるだけではないか。では、その私とは……。もしかすると、私とは「記憶」そのものなのではないか。そんなふうに感じさせられる句集です。
では、「記憶における沼」とは……。何かが堆積し、また何かが育ちゆくような沼。もしかすると私たちは、時にはそんな沼に停滞しながら、また時には「その他の在処」を確かめながら、自分なりの記憶の形でここにあるということなのかもしれません。

裸木になりつつある木その他の木

「裸木」に目をやることがあれば、「その他の木」を真正面から詠むこともあるように。
手のひらにちょうどいい、少し小さめの句集であるのも、人の内にある「記憶」のサイズのようです。美しい装丁そのままに、あり続ける「水の音」のように、ふじみんの俳句とは、そんな記憶という彼女自身なのでしょう。

句集『記憶における沼とその他の在処』出版記念パーティーにて