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アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2021.11.13 Saturday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

西加奈子さんの『i』に取り上げられていた『テヘランでロリータを読む』がどうしても気になり手に取りました。『i』でこの作品は、次のように紹介されていました。

大学教員でもあった著者アーザル・ナフィーシーが、1979年革命当時から対イラク戦争を経たイラン、抑圧されたイスラム世界の中で、秘密の読書会を開いた真実の記録だった。当時ナポコフの「ロリータ」を始めすべての西洋の文学は発禁処分になっていた。つまり、読書が見つかれば、それはほとんど死を意味したのだ。
楽しみを奪われ、笑うことを奪われ、何かを思うことを奪われる少女たち。ときには、いわれのない嫌疑をかけられ、命を奪われる少女たち。ただ人間として健やかに暮らしてゆきたいという、その願いさえも聞き入れられない少女たち。

読んでみると、作者と教え子(女性7人)との読書会だけではなく、イスラーム革命からの十八年間の、激動のイランで暮らした経験が、禁じられた西洋文学と共に綴られた作品でした。ですから、『ロリータ』だけでなく、『グレート・ギャツビー』を裁判にかける講義をメインにした章や、イラクとの戦争下での講義の章など、読書会以前の大学やイランの情勢なども分かるような構成となっていました。

とにかく、作者の小説を教えることへの強い情熱に支えられた一冊で、高校で文学作品を扱っている私自身としても、ただただ共感と共に読み進めていきました。

私が強調したかった点は、小説という新たに誕生した物語形式が、いかに人間のもっとも重要な関係をめぐる基本的な通年を根底から変え、ひいては人間と社会、仕事、義務との関係に対する伝統的な姿勢を変化させたかにあった。

重いチャドルやコート、スカーフを脱ぎ、カラフルな洋服で自由に語り合う彼女たち。小説が与える開かれた空間に解放される時間を持とうとした女性達の記録です。厳しい道徳や規律を強制される圧政下にあって、自由への欲求がもたらす豊かさがありました。

読みたい作品を読めるのが当たり前になってしまっている私にとって、文学と触れ合える喜びに立ち返らせてもった一冊となりました。