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東野圭吾『沈黙のパレード』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2022.10.29 Saturday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

ガリレオシリーズ第9弾で、現在公開中で、福山雅治✖柴咲コウ✖北村一輝が再集結と話題の映画『沈黙のパレード』の原作本です。湯川教授の科学的推理で、警察が解決できない謎が見事に解決されていく人気のシリーズです。事件のピースを「単なる偶然と片付けられるほど、僕は能天気な人間ではない」という湯川節も健在ながら、本作は、科学的検証的な内容が少ない印象で、湯川が依頼からの捜査協力とは違う関わり方をしていく事も相まって、これまで以上に人間ドラマ色を強く感じた作品でした。

また、「アメリカに行って、あいつも変わったようだ」と言われるように、『容疑者Xの献身』の事件への後悔をにじませ、ただ真実のみをつきとめようとする従来の湯川ではなく、「親友の悔しい思いを晴らして」やるために自発的に事件に関わっているのも興味深く、日本の警察組織や司法が作り出した闇が織り込まれたストーリーの中に、より人間ドラマとしての深みが加えられているように感じました。

また、タイトルの「沈黙」「パレード」のそれぞれの意味が読み進めば進むほど、何層にも意味づけされていくのを面白く読みました。当初は、黙秘権を行使し続け、沈黙を守ることで無罪を勝ち取ってきた卑劣な凶悪犯の「沈黙」であり、事件の舞台となる町の行事である「パレード」を指しているのだと思っていました。しかし、読み進むに従って、容疑者の沈黙とは対極にある、大事な人を守る為の様々な沈黙(湯川すらも沈黙を選択する可能性を持っている)へと沈黙の種類が置き換わっていき、あたかも「パレード」のようである様が見事でした。

沈黙罪というのはあるのでしょうか。
沈黙するだけです。沈黙は自由なんでしょう。

事件の結末は動かせないにもかかわらず、その結末を越えたところで、すがすがしさを感じさせる読後感となっていたのも、その見事な「沈黙」の「パレード」ぶりと、それらを支え続ける他者への愛情故であろうと感じました。「過去ではなく未来に視線を向けて生きていく方が合理的、と言うより楽なのではないか」との未来の可能性に目を向けた台詞が胸に残った作品でした。