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嘘みたいな本当の話をしよう~夏が来るたび思い出す “りんごジャムお粥事件”~

こんばんは、WEBライターの椿れもんです。
今から、嘘みたいな本当の話をします。
タイトルは、「夏が来るたび思い出す ”りんごジャムお粥事件”」。
では、最後までじっくり聞いて(読んで)ください。

私の食い意地のルーツは、父方の祖母にあり

このnoteでも以前に少し書いたことがありますが、私は食い意地が張っています。
そのルーツは、きっと父方の祖母にあると思えてなりません。

今日8月7日は、父方の祖母の祥月命日でした。
とにかく食べることが大好きで、他には何も楽しみがなく、人とのコミュニケーションも下手すぎて、いつもエラそうに怒鳴り散らすばかり。
元気だった頃は、老人会のバス旅行に参加したり、近所のお店で大量の野菜やお饅頭、センスのかけらもない衣料品を買い込んだり、たまに田舎の滋賀県に帰ったりしていたけれど、晩年は食べて寝ているだけだったおばあちゃん。

とにかく食への執着が凄まじく、「これは、おばあちゃんの好みじゃないから」と、おかずやお菓子を取り分けなかった時には、「ワシは食うたらアカンのか? なんでお前らだけ食うてんのや?」と、その食べ物の好き嫌いには関係なく、自分の分が配られなかったことに対して怒り狂い、自分の分もよこせと噛みつかれます。

さらに、食事の時間が遅くなると機嫌が悪くなり、「何時やと思てんねん! はよ、メシ食わせんかい!!」と、まるで性別不明の妖怪のような形相で、食卓を叩き揺すって怒り出すという、とにかく「食イラチ」な人でした。

あの記録的な猛暑の夏、おばあちゃんが倒れた

そんなおばあちゃんですが、ある夏に体調を崩し、自力では食事ができなくなった時期がありました。
全国的に記録的な猛暑となった、平成6年(1994年)の夏のことです。

我が家はこの年の3月末に、今の家(京都・上賀茂)に引っ越したばかり。もともと住んでいた京都駅近くの家よりも北へ移った分、多少は涼しいかと期待していたのですが、全くの期待はずれ。
京都の夏は「うだるような暑さ」とよく言われますが、この平成6年の夏の暑さは異常でした。

体調を崩して、意識が朦朧となったおばあちゃんは入院。記憶もおかしくて、一人息子の嫁である私の母のことも誰だかわからなくなり、田舎の話ばかりするようになりました。
親戚のおばさんからは、「このままだともう危ない。今のうちに遺影を用意しとき」とまで言い出される始末。
幸い意識は戻りましたが、その後も自分で食事ができず、介助スタッフの方が食べさせようとしても首を振って食べないので、だんだんと弱ってきていると病院から報告がありました。

両親は、「あれだけ食べることが好きな人(祖母)なのに、まさかそんなはずはない」とにわかには信じられず、食事の時間の様子を見に行ったところ、介助スタッフの人は祖母に何度か拒否されたら、ひと口も食べていなくてもお膳ごと下げてしまっていたのだそうです。

これではダメだと、両親は病院の食事介助を断り、家族・親戚がローテーションを組んで交替で食事の介助に通うことになりました。
皆で根気よく食べさせ続けた甲斐あって、徐々に食べる量が増えてきて、やがて記憶も戻ったおばあちゃんは、主治医も驚くほどの奇跡の回復を遂げて退院しました。

あの夏の日の懺悔「りんごジャムお粥事件」

食事介助に通っていた当時、私はおばあちゃんに申し訳なくて何度も謝らずにはいられなかった、未だに忘れられない出来事があります。
それは、「りんごジャムお粥事件」

咀嚼力の弱っている患者には、誤嚥防止のために流動食や刻み食が用意されるのですが、器に盛りつけられた原形をとどめていないおかずは、いったい何なのか見た目で判断がつきません。
私はお粥の上におかずを順番に少しずつ乗せて、「口開けて! ちゃんと食べなアカンで」と言いながら、おばあちゃんの口へと運びます。
40~50分かけてようやく食べさせ終わった食器の載ったお盆を、私は配膳台へと返却に行きました。

配膳台から病室に戻る道すがら、廊下でふと目に入った昼食の献立表を見て、私は衝撃を受けました。お粥以外の器に入っているのは全ておかずだと信じて疑わなかったのですが、いちばん小さな器に入っていたのは、りんごコンポート。つまり、デザートでした。

ということは、煮物か何かだと思ってお粥の上に乗せて、何度もおばあちゃんの口に運んだのは、細かく刻まれて既にコンポートの形をしていなかった、りんごジャム的なものだったというわけです。
いくら知らなかったとはいえ、私はものすごい罪悪感でいっぱいになりました。

実は私、自分が金時豆のような甘いおかずではご飯を食べられない人間なので、病人のおばあちゃんのお粥にとんでもないものを乗せてしまったと、申し訳なくてたまらなかったのです。

そういえば昔、歌手の千昌夫さんが、「妻(=最初の奥さんであるジョーン・シェパードさん)の作ったおにぎりの中にいちごジャムが入っていて、あれはさすがに食べられなかった」と話していたのをテレビで観たことがある、と母が言っていました。
ネットで調べても、もうそんな古い話、どこにも見当たらないので、真偽のほどは定かではないですが。(この話、もしご存じの方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください!)

嘘みたいな本当の話その① おばあちゃんの最期

回復して退院したおばあちゃんは、訪問介護の方に入浴や足のマッサージなどの介護をしてもらっていたものの、最後の日まで自分の力で食事を摂っていました。

“りんごジャムお粥事件” から5年後の1999年8月7日の早朝、おばあちゃんは眠ったまま亡くなっていました。
前の日の晩、「おやすみ」と言ったおばあちゃんに、家族が「おやすみ」と返事したのが聞こえなかったのか、2回目の「おやすみ」と言ったのが最後の肉声でした。

私は当時の勤務先に忌引の連絡を入れたのですが、何とその週は既に職場で2軒もご不幸があり、うちで3軒目だったのです。
「ズル休みをするなら、もう少しマシな理由はないのか?」と思われかねない、まさかの3軒目の不幸。
嘘みたいだけれど、これは本当の話です。


嘘みたいな本当の話その② 仏壇から飛び出したおばあちゃん

そして、2020年8月7日。
今朝、母が仏壇にいつものようにご飯を供える際のことです。
おばあちゃんの祥月命日だからと、父の写真と場所を入れ替えておばあちゃんの写真を前に出そうと動かしたところ、とても不思議な出来事が起きました。

何と、お供えしたご飯の上におばあちゃんの写真が倒れてきて、ちょうど顔のところに米粒がいくつも付いたのです。
食への執着が凄まじく、白米をこの上なく愛していたおばあちゃんらしいなぁと、朝から母と2人で大笑い。

そして、母は「嘘みたいな本当の話っていうのはな、こういう時に使う言葉なんやで」と言って、得意げに笑っていました。

先日の会見以降「イソジン吉村」などと揶揄されている大阪の吉村知事に、ぜひ聞かせてあげたいものです。

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