「読解力」を測定するということ
12月の日本語能力試験(以下JLPT)まで、あと1ヶ月となりました。今年は、コロナウイルスの影響で、7月の試験が中止になってしまったため、12月の試験が今年唯一の機会となります。
(中止となった地域も増えてきていますが、日本では果たして実施できるのでしょうか)
これまでさんざん、JLPTの批判をしてきました。が、不本意ながら、現在は、JLPTの対策なんぞをしております。介護の技能実習生の日本語教育に関わるようになり、このJLPTが避けて通れない試験であるため、最適解を探りながら、授業に取り入れています。
日本語教育に関わっていながらも、ここ3年くらいは、JLPTにあえて、背を向けてきました。しかし、再びJLPTに関わらざるを得なくなり、関われば関わるほどモヤモヤが溜まってきますので(笑)、この試験に関わりながら「読解力」について考えたことを久しぶりにまとめてみたいと思います。
なぜJLPTが必要なのか
まず、なぜ、JLPTの対策をしなければならないのかという前提について説明しておきたいと思います。
介護の技能実習制度については、技能実習生に求める「基準」が、かなり細かく規定されています。特に、日本語能力については要件が明示されています。下記のように、技能実習生として働くには、JLPTの合格が求められます。来日して施設で働き始めた後も、2年目に入る前に、N3に合格している必要があります。
・第1号技能実習(1年目):日本語能力試験N4に合格している者
・第2号技能実習(2年目):日本語能力試験N3に合格している者
一応、日本語能力試験(JLPT)以外にも「J.TEST実用日本語検定」「日本語NAT-TEST」も認められているのですが、そもそものこれらの試験は、JLPTが基準になっているので、大きな差はありません。
上記の条件以外にも「これと同等以上の能力を有すると認められる者」という但し書きもあり、「附則」として、「日本語を継続的に学ぶ意思」があれば、要件を満たすとされています。しかし、最終的に日本語能力を証明するための書類を提出しなければなりません。
*上記の情報については以下の資料を参照しています。
「特定の職種及び作業に係る技能実習制度運用要領 ー介護職種の基準についてー」(法務省・厚生労働省)
確かに、介護の仕事というのは、コミュニケーションが非常に重要であるため、高度な日本語能力が求められるのは理解できます。
しかし、その日本語能力の判定基準がJLPTでよいのかというのは、また別問題です。悩ましいのは、日本語学校のケースと同様、法務省や厚労省からの明確な告示として合格が求められてしまうと、JLPTを意識せざるを得ないという点です。
日本語教育に関わっていない人にとって、JLPTがどのような試験であるかを理解するのはなかなか難しいと思います。所轄省庁の通知に、このように明示されていたら、何らかの有用性があると考えるのは当然のことで、無視することはできません。
当然、所属施設の担当者や実習生にとっては、JLPTの合格というのは大きなプレッシャーになります。そこで、JLPTの勉強を促したり、サポートしたりと、必死で対応しています。(これを無視するのは、日本語教育関係者である私にとっても相当なプレッシャーであり、勇気がいることです)
介護の技能実習生に必要な読解力とは?
これまで、多くの関係者が研究を重ね、外国人介護福祉士に必要な日本語力とは何かについて様々な知見が共有されています。私も分析中であり、まだまだ考えなければならないことがあります。
そんな状態ではありますが、今、私は、これらの知見を活用しながら、介護の仕事に必要な日本語力を見極め、日本語教育のプログラムに落とし込むということに取り組んでいます。さらに、現場と折り合いをつけつつ、実践もしています。
いろいろと試行錯誤しながら、プログラムを構築しているのですが、試験の直前でもあるため、JLPTを無視することはできず、対策をせざるを得ないという状況になっています。しかし、ここでも何回か指摘しているように、JLPTで測られる日本語力が、現場で求められている日本語力と乖離しているという念は拭えません。そこで、改めて「読解」に焦点を絞り、介護の技能実習生には、どんな読解力が必要なのかを考えてみたいと思います。
介護の技能実習生の場合、一定の条件を満たせば、将来的に介護福祉士の国家試験受験の道が開けます。この国家資格に合格できれば、「介護」の在留資格を取得することもできます。しかし、これまでのEPAの介護福祉士候補者の例をみてもわかるように、この国家試験の合格は、外国人にとって、それほど簡単なことではありません。この介護福祉士の国家試験には、下記の筆記試験があり、かなりの「読解力」が求められます。
合格のためには、この問題文を読みこなし、内容を理解しなければなりません。
国家試験で求められる「読解」は、単に書いてある文章を正確に理解するだけでなく、自分の持っている専門知識と照らし合わせて、書かれていることが正確な情報なのかどうかを判断することが求められます。さらに、ある特定の状況に対して、介護福祉士として適切な対応かどうかを判断するという読み方も必要になります。
介護の仕事で求められる「読解力」は試験だけにとどまりません。介護は、チームで行われることから、他の人が書いた介護記録を読みこなす必要もあります。また、自身が記録を書くという作業も生じてきます。
このように「読む」というスキルは、介護福祉士を目指す者にとって、非常に重要なスキルだと考えています。
JLPTで求められる読解力とは?
このような観点から、改めてJLPTの「読解」を振り返ってみると、少し違った観点で問題文を分析することができます。その一つとして言えるのは、JLPTでは、ただ単に「内容が正確に理解できているかどうか」を判断することが求められるということではないかと思います。書かれている内容が適切か、適切でないかは関係ありません。自分が持っている既有知識と照らし合わせ、合致するかしないかを判断することも求められません。
書いてある内容が自分の考えや体験と違っていても、一旦自分の考えは保留し、4択の中から、書いてある内容といちばん近いものを選ぶということが求められます。これは、普段、私たちが行っている「読む」という行為とは、目的も方法も違うので、訓練が必要ではないかと思っています。
特に、理解できる語彙が少ない場合、意味のわかる語彙を拾って、あとは、自分の想像力で補って読むということになります。たまたま、書かれている内容と自分の持っている知識や経験が一致していれば、正答する可能性が高いのですが、そうでない場合、読み誤ってしまうことになります。
それならば、語彙や表現を増やせばいいのではないかということにもなります。それはその通りだと思うのですが、「読めるようになるために、語彙を増やす」というのは、本来の読み方とは逆のアプローチになります。通常は、多くの文章を読みこなしながら、語彙や表現を習得していくのではないかと思います。
例えば、人が何かを学ぶとき、まず「介護福祉士になりたい」などの動機があり、介護福祉士になるための専門知識や技術、介護福祉士に必要な考え方を学びます。介護という仕事を通して、現場の経験から知見を得る場合もあるでしょう。必要な知識を得るために、専門書や資料を読むこともあると思います。
実際、私も今の仕事に関わるまでは、「介護」という仕事に関して、全く知識がありませんでした。今は、介護分野で働く人たちとの交流を通して、多くの考え方や知見に触れることになりました。同時に、介護分野で使われる言葉や表現なども学んでいます。今では、だいぶ介護特有の言葉が理解できるようになってきました。
介護という世界のことを知りたかったら、やはりその分野で使われている言葉や表現を学ぶ必要があります。あるコミュニティに入るためには、そのコミュニティで使われている言葉を理解する必要があるのです。
しかし、試験のためにN1の語彙やN2の文法を覚えるのは、どんな文脈で使われているかわからない言葉をただ闇雲に覚えることになります。
(ちなみに、N1の語彙、N2の語彙などとよく言われますが、実施団体からは、出題基準のようなものは公開されていません。今、N1とかN2の語彙などと言われているものは、旧日本語能力試験の出題基準をベースに、各出版社が「適当に」想定しているものだと思われます)
より幅広い言葉や文法を知っていれば、それに越したことはないのですが、日本語学校の学生と違って、技能実習生は、日々働いており、勉強のための時間を確保するのが厳しい状況です。さらに、JLPTでは扱われることのない専門的な言葉や知識も日本語で理解しなければならないことを考えると、JLPTの合格を課すということは、余計な負担でしかありません。
JLPTの受験というのは、あくまでも自身の日本語能力を力試し的に測定するものであり、それに合格することを目標とすべきではないというのが私の考えです。試験の形式に慣れるために、直前に試験問題を解いてみるのはありかと思いますが、類似問題をたくさん練習しても、日本語能力が上がるわけではないと思っています。(やり方にもよると思いますが…)
読解力を測定するための「読解」を練習する弊害
もう一つ、JLPTのための練習という勉強法には、懸念すべき点があります。
それは、本来の「読む」という行為のあり方を歪めてしまうということです。
JLPTの読解問題を練習するという授業をしているとき、「これ、どうやって読んだらいい?」という質問をします。そうするとだいたい、
「はじめに選択肢をチェックしてから、本文の内容とあっている部分を探す」
「本文と見比べながら、内容と合っているかどうか考える」
という答えが返ってきます。私もかつてはそのような教え方をしていました。
しかし、よく考えてみると、普段の生活で、このような読み方をすることはまずありません。私たちが一般的に「読む」ときには、自分の経験や知識と照らし合わせながら読んだり、必要な情報を得るために、ときには別のソースや資料に当たり、理解を助けたりしながら読みます。読むことで感情が揺さぶられ、ただただ楽しくて読むということもあります。何よりも、読むための「動機」があります。
JLPTにも、「この文章の中で最も言いたいことは何か」などという設問がついているので、本来であれば、その設問に沿って読み進めていくべきです。しかし、「試験に合格する」という目的のためだけに読む場合、そのような本来の読み方は、脇に置かれてしまう傾向にあります。
また、いくら設問に沿って読み進めたとしても、そもそも、その文章を読むための動機がありません。読解力を測定するために読むことが、「動機」と言えるのかは疑問です。
読むための目的が「試験に合格すること」となると、「理解できないのは、漢字がわからないからだ」とか、「文法をちゃんと覚えていないから読めないのだ」と、語彙力や文法力に原因を求めてしまうのではないかと感じています。読む動機があれば、ありとあらゆる手段を使って読み通すということもしますが、試験ではそのような意識はなかなか生まれにくいのではないかと思うのです。(試験の時に翻訳アプリを使うのは「やってはいけないこと」で「悪いこと」です)
介護福祉士の国家試験でも辞書等を使うことは許されませんが、この国家試験では、はじめに状況の説明があり、その説明を踏まえて、正しい行為や正しい知識だと思うものを、選択肢から一つを選ぶという構成になっています。そもそも測っているものが違います。
内容が理解できていることが前提になりますから、JLPTと同じように選択肢を読んでから、内容と合っているものを探すという読み方とは、全く別の読み方が求められます。JLPTの読み方に慣れてしまったら、この国家試験には、対応できないでしょう。
何のために読解力を測定するのか
このような試験のためのちょっと特殊な「読解」を遠ざけ、「読む」とはどういうことか、少しずつ体験し、本来の読み方の意識づけを行っているときに、JLPTのような「読解」が持ち込まれると、なんだか、振り出しに戻ったような気持ちになります。
総合的な力が高まれば、JLPTにもある程度対応できると思うのですが、JLPTの問題をたくさん練習するのがJLPTの対策だという価値観を持っていると、それではダメなのだということを説得するのはなかなか骨が折れる作業です。
JLPTは、力試しくらいの位置付けにとどめ、「JLPTに合格することを目標とする」という、JLPTに縛られた日本語教育の枠組みからは、そろそろ卒業しなければいけないなーと思っています。
なぜ、JLPTの合格が必要なのだろう?
JLPTに合格することは、誰にとって、どんな利点があるのだろう?
自分がどのくらい読めているのかを測るために、試験を受けることを私は否定するつもりはありません。しかし、日本語教育の枠組みとして試験を取り入れる場合、改めて、こんな「問い」について考えてみることが必要かもしれません。誰のための日本語教育なのか、私たち教師は、どこを向いて歩んでいけばいいのか、まだまだ課題は山積みですねー。
最近、自分が主張していることと、やっていることがなんか乖離しているなーという思いから、葛藤もあり、なかなか書けずにいました。しかし、書くことすらやめてしまうと、本当に何も考えなくなってしまうと思い、まとめてみました。
今回もお読みいただき、ありがとうございました!