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周りがみんな行くらしいので、適当に大学行った

1 高校卒業したけど来月からやることがない

 高校3年間という時間。何に重点を当てて過ごすかは本当に人によってさまざまだと思う。
 勉強、部活、恋愛などなど。僕が通っていた某城高等学校は進学校と一応は謳っていたし、さらに98%の人が大学に進学したところを見ると、半分以上の人たちは勉強と答えると思う。
この高校に入ったということは、絶対にセンター試験を受けてから国公立大学を受験し、落ちていても私立のすべり止めに流れるように入学する。ということがスタンダードであり、一般的なことであった。
 でも僕はどこかズレていた。試験勉強も受験勉強もなにもやる気がなかった。大学にはどうせ適当にやれば入れるだろうし卒業もできる。そんな緩い気持ちで赤本をぺらぺらめくっては閉じての日々を繰り返していた。「やりたいことがないなら大学に入ってからみつけなさい。」と、担任の山田先生はおっしゃっていたけれど、当時の僕は“大卒”という肩書の重さを知らず適当に受け流していた。
 結論から言うと、受験したすべての大学に落ちた。
 努力をしていなかったので当然も当然だが、まさか滑り止めの中の滑り止めと思い込んでいた大学にまで落ちたのがとんでもなくしんどくなっていた。舐め腐っていた大学受験に完全に打ちのめされて気分は最高に鬱だった。
 今思えば、ここで吹っ切れてバイトや仕事探すことを少しでもしていればよかったと後悔している。しかし、錦某高等学校のスタンダードに縛られていた僕は大学へ意味もなく行くために一年間頑張ることを決意した。
2017年3月。僕は駿台予備学校立川校、お金を払えば受け入れてくれる場所へ願書を投函した。
 もちろん合格した。直近3か月で「合格」という文字を見たのは、駿台予備学校とbeatmaniaIIDX 24 SINOBUZ 皆伝の二つのみ。別にうれしくはなかったけれど4月からの進路が決まったことはとてもほっとした。
両親、山田先生、友達。嘘なのか、また本気で思ってはいたけれどその気持ちが水素くらい軽かったのかわからない、形だけの「来年は頑張って国立大学に合格するので応援してください。」を見せつけた。
3月中の僕は、本気で来年のリベンジを誓っていた。

2 立川駅には娯楽がいっぱい

 2017年4月。僕は駿台予備学校立川校の4階に入塾手続きのためにいた。とんでもない量の教材、高校と時間と内容が何も変わらない60分1コマの時間割、全員知らない死んだ顔のクラスメイト(のちに間違いと気づくけれども)、エレベーターの無い6階建ての建物、細すぎる廊下。初日にしてとても心はすさんでいった。
 高校の同級生たちのインスタグラムはみな輝かしいもので、酒に囲まれ男と女が入り混じって騒いで、スポーツのやらないスポーツ系サークルに所属し、しょうもないストーリーを投稿していた。すさんだ心には非常に来るものがあった。
 当時の僕の感情は、親にお金を出してもらった手前、一年間本気で頑張って大学に進学してやるのだという気概で満ち溢れていた。今となって思うと、入ることが目的になっていてそこから先のことは全くもって考えてすらなかった。
 数学は好きだった。いっぱい学びたかった。一年生のころは理学部数学科に入って研究をしたいと思っていた。しかし、ある時「数学科は卒業後先生になるくらいしか就職先がない」という話を耳にしたときになんとなくその思いを捨てることにした。なぜだか不安になってしまった自分がいたのだろう。そこからは本当に適当な思いで工学部電気電子科志望にしたのだった。理由はない。一回目の受験の時もすべての受験した大学は電気電子科で提出したのであった。意味もなく。そこがすべての間違いだったのであろう。
 大好きだった音楽ゲームの頻度も減らし机に向かっていたある日、予備校の教室に何となく見たことのある顔があった。接点はほとんどなかった高校の同級生Yくんだった。
 いろんなことを高校でやっていた僕は、数多の同級生に顔を知られていた。例によってYくんも僕のことを知っていた。
 「高校一緒だったよね?」僕の一言に彼は「やっぱり!?」と笑いお互いにテンションを上げた。
 知っている人がいなかった僕たちは一瞬で仲良くなった。僕の隣の席だったKくんとYくんの三人でよく近くのオニ公園でご飯を食べた。高校時代はどうだっただとか、お互いの知り合いの話、勉強、部活、恋愛。三人でいる時間が唯一の楽しみだった。
 そんな中、僕はYくんに悪魔のような提案をしてしまった。
 「今日午後暇?ゲームセンター行かない?」
 おぉ~いいねぇのような普通の反応で了承し、二人で近くのアドアーズ立川店へ向かっていった。
 彼は初めて見るディープなゲームセンターの世界に目を輝かせていた。流れで一緒にビートマニアをやると、とても気に入ったらしく頻繁に二人で行くようになっていった。僕の高校時代に共にゲームセンターへ通っていた仲間たちとも打ち解けたYくんは、毎日のようにビートマニアを僕とともにプレーしていくようになったのだった。
 そのころには、当初のようなやる気に満ち溢れた僕はそこにはいなかった。別館になっている立派な自習室に行っても何もやる気にはなれず、吸い込まれるように授業終わりはゲームセンターへ飛び込む毎日になった。
 2017年5月。高校の時に少し仲の良かった人から「立川に来たから遊ばない?」と連絡が入った。ちょうど暇だったので授業後一緒に遊ぶことにした。
 彼は開口一番「最近パチンコ始めてさ、楽しくてハマったんだよね。俺の金でいいから打ちに行かないかい?」
 正直興味のあった僕は二つ返事で了承した。彼からもらった1000円は化物語のパチンコに15分で吸い込まれていった。彼から「楽しかった?また打ちにいこう」と言われ、正直コンテンツ自体が好きだった僕は「いいよ」と素直に返事をした。
 彼が住んでいるのは中野だったので、立川までは距離があった。しかし、再び立川北口に姿を現すのは三日後だった。またあの日と同じように授業後にパチンコ。勝ったか負けたかは覚えてもいない。ただ一つ言えるのは浪人生というメンタルが不安定すぎるときに打ち始めてしまったため、どんどんとギャンブルがないと生きていけない体へとなってしまったのだった。
 そこから週2でパチンコを打った。月の後半にはついに授業をサボり始めてしまっていた。ダメだと思いつつもパチンコ屋さんに通い、ビートマニアをひたすらやって家に帰る。あの頃の青梅線から見る風景はなんとなく白黒になっていた。
 お金が無くなっていくにつれて、友達からお金を借りて打つようになった。幼少期からためていたお年玉を両親には黙って崩し、それをすべてパチンコとビートマニアに使っていった。勉強から逃げられればなんでもよかったのだ。さらには定期代を黙ってちょろまかしてお金をなくし、毎日立川まで一時間半歩くようになっていった。初夏の候。僕はほとんど予備校に行かなくなった。
 そんな中、夏期講習が始まった。都内に行って気合を入れて机に向かおうとしていたがもうそのころには完全に手遅れになっていた。まじめに勉強していたKくんはもう僕とみている世界が変わっていた。この講習すら行かなくなっていた僕は、このころから何となく彼と話すのが気まずくなっていた。
 予備校にはICカードをかざさないと行ってないことがバレるので毎日向かった。ただ30分で退出していた。両親には毎日嘘をついて勉強をしているように見せた。実際は大切なお金をひたすら娯楽に入れているのにも関わらず。帰ってくるときには飛び切りの笑顔で「ただいま!今日も頑張ってきたよ!」と言い自分の部屋にこもって動画を見る日々。徐々にこの頃から人生なんて終わってしまったほうがいいと思うようになった。

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