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苦労はするべきか、しないべきか
苦労はしないべきである。避けて通れるなら避けた方がいい。
大学で首席だった私は、かつては苦労するべきと考えていた。苦労することで人は成長し、より立派な人になれると思っていた。周囲がいいねと言う人になれると思っていた。私自身、苦労して努力したことがある。
偉人や大成した人の話を聞くと、皆苦労している。私の身の回りにある情報では、苦しみ、もがくことは成長することに繋がることだと思えた。確かに、苦労すると、これまでできなかったことができるようになって、達成感があった。頑張った甲斐があったと思えたし、これが生きがいなのかなとも思えた。
苦労はしないべきである。苦労しろと話す人は、何か技術を身につけるためには石の上にも三年という形で、継続するべきということを協調して語っているのだと思う。技術を習得することは、労力、苦労を要する。目をつむった瞬間、はい、できるようになりました。といったものではない。
技術は手段である。道具である。何かやりたいことことを実現させる一つの方法である。やりたいことをするのに、苦労してはじめることはない。もし、何かほんの些細なこと、例えばスマホを開いて情報を検索したりるすことすら億劫であると感じるのであれば、やらない方がいい。後から考えてみれば、一番障壁が高いことは、やろうと思っていることをやることだからである。
偉人や大成した人は、苦労しろという情報を受け取る自分とは、全く違う世界にいる。こういった人たちは、まず不安がない。囚われているものがない。自分自身を信じている。
人は成長する中で、仮面をつける。囚われができる。大なり小なり、囚われは誰にでもできる。何かに執着する。周囲の環境に対応してきたからこそ、困難から身を守ろうとするため、執着するようになる
大人になって、執着を手放す人がいる。流れに身を任せるようになる。物事を俯瞰的の捉え、客観視できるようになる。囚われなくなる。子供のようになる。湧いてくる意欲にこたえるように行動するようになる。誰かの顔色を伺ったり、将来に不安などは持たない。自分は大丈夫だと思い、行動する。一般には苦労と思われるようなことも、苦労だと思わない。自分にこたえる形で動いているためである。
大成した人が苦労するべきと話す時は、この執着がない状態で言っていることがある。意欲が湧いてきて、やりたいと思ったことをやった時、それまでの自分が経験していないようなことをやるので苦労する。何事も初めが一番障壁が高い。しかし、この時、そして、新しいやり方で試行錯誤するため、苦労する。新しい技術であれこれ工夫するので、苦労する。技術を習得することは、労力、苦労を要する。苦労する。しかし、技術を習得する最中にいる本人はこれを苦労だとは思わない。取り組むことを億劫と感じない。何故なら、安心から自然とやる気が出ているためである。つまり、技術を習得するには、労力を要するが、本人の感じ方としては、苦労ではない。しかし、大成した人を、これを苦労と語ったりする。
囚われた状態で技術を習得しようとすることと、囚われていない状態で技術を習得することは、全く違う。
どちらも手間暇かかるが、本人の感じ方が全く違う、前者は苦労であるし、後者は娯楽である。楽しい。同じものを取り組むにしても満たされ方が違う。しかし、どちらも石の上にも三年、苦労しろといった情報が飛び交っている。
囚われた状態で苦労するべきである。避けて通れるなら避けた方がいい。そうしなければ、より落ち着かなくなり、不安となり、不機嫌となる。弱っていく。やる気がなくなり、無気力になっていく。