熱中と没頭の違い
熱中の行き着く先は創造だが、没頭の行き着く先は破滅である。この理由を説明していく。広辞苑では熱中と没頭は次のように説明されている。
ねっ‐ちゅう【熱中】
物事に心を集中すること。夢中になってすること。また、熱烈に思うこと。「遊びに―する」
ぼっ‐とう【没頭】
何もかも忘れて、ある物事に熱中すること。その事に精神をつぎこむこと。はまりこむこと。没入。「研究に―する」
熱中は言うなれば遊ぶことである。夢中になる。疲れたら休む。疲れたことに気がつく。没頭は熱中同様に集中するが、疲れたことに気づかない。過剰になりがちである。
熱中は安心している人がなる状態である。自分はこのままでいいと思っている。安心しているから、無理に何かしようとしない。自分の意欲に従って行動する。やりたいと思ったことをする。それはエゴのない意欲だ。こうしよう、ああしようと打算的に考えない。気がついたら興味のあることに取り組んでいる。集中する。そうして疲れたらゆっくり休む。散歩する、お風呂に入る、家族と話す、ペットと触れ合う、お茶を飲む、みかんを食べる。その休み方は人それぞれであるが、集中していたことを一旦考えないような状態にする。そうして休んでいると、気持ちが湧いてくる。これがしたいな、あれがやってみたいな。そうした意欲に基づいて、また集中に戻る。
没頭は不安な人がなる状態である。自分は今のままではいけないと思っている。何か心に負担がかかるものがあった。悔しかった、怖かった、寂しかった、悲しかった。苦しかった。怒りを覚えた。そういった気持ちを解消するかのように、衝動的に物事に取り組む。無理をする。こうしてやろう、ああしてやろうと打算的な気持ちがある。それは自分の生活を安定させると思う。自分をより良い形にしていくと思う。具体的な目標を立てる。それを達成するまでしがみつく。休まない。ずっと走り続ける。そうすると、休まない。自分の気持ちにふたをしている。何もしない時間が一番耐えがたい。休むことが大変だ。休む時間は、睡眠や食事など、次の何かをするためのエネルギーを蓄えるために行う。必要最低限確保すればいいと思う。休んだら、集中して取り組む。自分の体の異変に気づかない。お腹がすいたことも気づかない。眠たくなることにも気づかない。
熱中すると、自分の意欲にこたえていきユニークなモノを創造する。その人らしさがある。モノをつくるなどではなく、人を支える、踊るといった形のないモノであっても、それにはその人らしさがある。創造する。新しい世界を切り開く。
対して、没頭すると、常に目標を掲げる。何かにこたえる。それはこれまで積み重ねてきた心の苦しさを少しでも楽にしようとすることにこたえることかもしれない。人が認めてくれるからと、陽の当たるポジションにいることで、安全を確保しようとすることかもしれない。何かしていないと気が済まない。そうして、頑張り続けた結果、なんだか大変だなと感じる。どこまで行っても、何をしても心が満たされていくことはない。どんなにできることを増やしても、それでいいとは思えない。次々困難がなぜか降り注ぐ、疲れる、やる気がなくなる、無気力になる。または身体を壊す。
没頭している人がより満たされるようになるには、何もしないことだ。あれこれ何かする必要はない。ひとりになり、口を閉じることである。手に何も掴まないことである。ゴロンと寝っ転がり、休むことである。頭を空っぽにすることである。そうすると、意欲が湧いてくる。エゴのない意欲だ。自分の気持ちにこたえる、エゴのない気持ちだ。その気持ちにこたえていると、より満たされるようになる。