安心している人に囲まれると
安心している人に囲まれると、どうなるか話していく。
安心している人は、人に対して無頓着である。まぁ、なんとかなるよ、大丈夫だよ、そういった形である。その人に興味がないのではない。むしろ、大変興味を持っている。次はどんなことをするのか楽しみにしている。何をするか楽しみにしていると書いたが、何もしなくても安心している人は別にいい。ゆっくり休んでたんだと話せば、そうなの、いいねとこたえる。焦らない。
安心している人は応援している。ただ、頑張ってと言うわけではない。激励するわけでもない。ただそばにいて、様子を見ている。今日はどうだった?そうなの、なるほどね。といった形である。肯定も否定もしない。ただ、事実を事実として捉える。勝手な解釈をしたり意味づけをしない。
安心している人は、今取り組んでいること、熱中していることをイキイキと話す。例えそれが当たり前のことだろうと、世の中で発見されたことであったとしても目を輝かせて話す。全てのことは自分で考えて取り組んでいるので、新鮮に感じている。気づきがある。そのような姿が、まわりを活気づける。物事を一から説明できる。
安心している人はお喋りというわけでもない。むしろ寡黙なことが多い。自分のうっぷんを払うかのように、周囲に対して自分のことばかり話すことはしない。まず、周囲の話を聞く。人の気づきを楽しむ。傾聴する。
安心している人は、何かに囚われることがない。こうしなければならない、ああしなければならないと決めつけない。しかし、ルールや規則は守る。これは、文化を尊重しているからだ。周囲に合わせる方が無理がないからだ。つまり、振る舞いは普通であるが、発想がユニークになる。
安心している人は、ユニークなものを生み出すコツを知っている。熱中と休息を繰り返す。そして、熱中する時は、物事を俯瞰して捉える。体型的に捉える。どのような構造、システム、関係で成り立っているのか捉える。そして、鍵となる要素を見つける。なにか構造を形づくる要素だ。その要素を一歩引いて見つけたり、少し深掘りして見つける。見つけた後は、いったんそのことを忘れる。ゆっくり休む。そうすると、閃く。アイディアが降ってる。ユニークな発想をしている。
安心している人は、ユニークなものを生み出す。生み出した結果、周囲に人が集まっている。
そのような安心している人に囲まれると、その安心している人を自然と真似ている。似ていくという方が近いかもしれない。それまでは、どこか不安でイライラしていたとしても、真似ている中で安心している。ゆっくり休息している間に、自分は大丈夫と思える。そして、意欲のままにやりたいことをする。最初は下手で自分でもびっくりしたりする。しかし、周囲の安心している人は、それをいいねと言う。自由でいいねと。そうか、このままでいいのかとなり、下手のままどんどん楽しむ。誰かに遮られることもない。
安心している人に囲まれると、いつの間にか安心している。無理をしなくなる。それまでの嵐のような日々は、戦争のような日々は何だったんだろうと思うくらい、別の世界が待っている。
しかし、世界から不安な人がいなくなったわけではない。中には否定してきたり、ああしなければならないと支配しようとしてくる人がいる。そういった人に会っても、なぜそうなっているか理解できる。自分もかつては不安だったためだ。そんな時、なぐさめたり、こうした方がいいよとアドバイスしたりしない。周囲の満たされている人と同じように、不安な人に対して、そうなの、大変だね、それは、なるほどね。とこたえる。不安な人が過度に攻撃してきたり、冷酷な態度をとってくると、無理なくフェードアウトする。距離を取る。それは適切な距離だ。離れるわけではない。そばにいるのだが、話が終われば、じゃあ、またねといった形で距離を取る。そうして、再度会った時は、あいさつして、たわいもない話をする。余裕がある。その余裕に不安な人も安心していく。