私の最高のアイドル

まゆゆを応援することは、私にとっては祈りを捧げる行為だった。 

小学生の頃からずっと女性アイドルが好きで、ハロプロ・46/48系列・K-popなどグループを問わず色んなアイドルを追いかけてきた。所謂「推し」は何人もいたが、私にとっての最高のアイドルはずっと、元AKB48で既に芸能界を引退した渡辺麻友さんだけだ。

まゆゆはその容姿の完璧さから、「アイドルサイボーグ」と呼ばれていた。後に秋元康が雑誌のインタビューで「渡辺麻友は天性のアイドルだ。アイドルになるために生まれてきたような子だ」と語っていたが、まゆゆのアイドル活動を追いかける内に私が受けた印象とは異なる。もちろん、その容姿や歌声はアイドルになるために生まれてきたようだと私も思うが、まゆゆ自身のルックス以外の資質は、特にアイドル向きではなかったように思う。

まゆゆは天性のアイドルでもなく、アイドルを演じるのが上手だった訳でもなく、「アイドルとして生きる」ことを強い意思で選んだ人だったのだと思う。完璧なアイドルを志そうと思った時、大抵の場合は、完璧なアイドルを演じ切ろうとするしかない(その演じ切る、ということでさえ生半可な覚悟ではできるものではない)と思う。でも、まゆゆは生き方そのものをストイックに制限することでアイドルとしての完璧さを保とうと選んだのではないだろうか。だからこそ、彼女の周りの空気はいつも張りつめていて、時には痛々しく感じられて心配になる程だった。

まゆゆが雑誌のインタビューで語っていた印象的な言葉がある。私は、アイドルが語った言葉の中でこれ以上に美しいものを知らない。
「アイドルっていうのは、少女たちがズルなんかしなくて、汗水たらして一生懸命な部分をお見せすることだと思う。私はそれを全うしたい。死んだときに天国に行けるように。」

ステージの上にいるまゆゆは、アイドルというよりも、神に祈りを捧げる敬虔な修道女のように見えた。まゆゆがステージ上でライトを浴びて、その長く繊細な睫毛が彼女の頬に影を落とすのを見るとき、私は不思議なほど澄んだ気持ちになると同時に胸が苦しくて、ああ、この人は今独りきりで戦っているのかもしれない、と思った。私はただそれを見守るしかなくて、どうかまゆゆが死んだときに天国に行けますように、と祈るだけだった。

村上春樹が「職業としての小説家」の中で、小説家として生きるためには、巡り来る日々を一日また一日と、まるで煉瓦職人が煉瓦を積むみたいに、辛抱強く丁寧に積み重ねていくことが必要だと書いていたことを思い出す。小説であってもパフォーマンスであってもなんでも、私たちが他人や他人の作品について目にすることができるのはその人のほんの一部分だけだ。だけど、そのほんの一部分にはその人の生き方が表れているのではないかと思わずにはいられない。実力以上の結果は出せないし、何事にも近道なんかなくて日々の努力を積み重ねるしかない、そしてまゆゆは近道なんかしようとも考えない人なんだろうと感じていた。

朝起きて最初にすることは、頭の中で渡辺麻友さんの横顔を描いて、自分の視線でその輪郭をなぞることだ。私は頭が悪く、コミュニケーションも下手で要領も悪く、全てが嫌になることがよくある。それでも挫けないのは「まゆゆと同じ天国に行けるように、懸命に善く生きなければならない」と思っているからだ。私にとっての「アイドル」というのは、この子が生きている世界で自分はズルなんか出来ないと思わせてくれる存在だ。

そしてそれは後にも先にも、私の中では渡辺麻友さんしかいない。

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