檸檬爆弾
いつも穏やかに微笑んでいて、ふわふわしている可愛い女の子って苦手だ。
ただ心を開かれていないだけだけど、そういう女の子たちは何を考えているか読めなくてどう接したらいいか分からないし、他の人にちょっとナメた態度をとられても気づかない素振りで、無関係の私がなんだか罪悪感を持ってしまって、落ち着かない。大学生の頃の私はこう考えていて、"ふわふわした可愛い女の子"であるところの桜先輩が苦手だった。
桜先輩とは同じ学部で、何かと一緒になる機会が多かった。彼女はいつも少しだけ染めた髪をゆるく巻き、白かパステルカラーのワンピースを着て、華奢なイヤリングをつけていた。何がある訳でもないのにいつも微笑んでいて、見る度に、美容雑誌の表情筋トレーニング特集に「不自然にならないくらいで口角を常にあげることを意識しましょう。唇で花びらを挟んでいるイメージで!」と書いていたのを思い出した。なるほど、これが見本か。私には到底できそうにない。
当然のように桜先輩はモテまくっていた。周囲のほぼ全ての男が、程度に差こそあれ、彼女に好意を持っていた。"熱のこもった視線"とよく言うが、そのじりじりとした熱視線を浴びた桜先輩の上で目玉焼きが作れるんじゃないかと思う程だった。彼女はそれらを明確に拒絶することはなく、のらりくらりと躱しながら微笑んでいた。ハッキリ断ればいいのに。勘違いした奴に付き纏われたらどうするんだ。見ているだけの無関係な私はいつもハラハラとして、内心で舌打ちをするのが常だった。
ある日、京都市内の大学近辺で我が愛車(自転車のメロス号)を走らせていると少し遠くから「栞ちゃーん」と私を呼ぶ声が聞こえた。誰だろう。スピードを緩めながら目を凝らす。それが桜先輩だと気づくまで少し間があった。というのも、普段の彼女とは印象が全く違ったからだ。その時の桜先輩はグレーのショート丈パーカーにだぼっとしたジーンズを履いて、鞄は持たず手ぶらだった。髪の毛もストレートで、いつものように整えられていない。
少し驚きながら自転車から降りると、彼女は微笑みながら「今からモーニング食べに行くの。一緒に来ない?」と誘ってきた。少し不審に思いながらも承諾して、自転車を押しながら一緒に歩く。荷物ないんですか?と聞くと、桜先輩は「鍵とスマホはパーカーのポケットに入ってるし、あと荷物はこれだけ」と言って、くるっと回って私に後ろ姿を見せてきた。そこにはジーンズの尻ポケットにつっこまれた梶井基次郎『檸檬』の文庫本が入っていた。彼女がそのまま歩き始めても、私はぼんやりとしてしまって、ただ『檸檬』の表紙の、絵の具のチューブからそのまま出てきたようなパキッとした鮮やかなイエローが瞳に焼きついて離れなかった。
喫茶店に着くと先輩はトーストとスクランブルエッグとソーセージのモーニングを頼んで、それをペロリと平らげた。なんだか気まずくて自分のトーストを放置したまま、なんで誘ってくれたんですか?と小声で尋ねると、桜先輩は一瞬きょとんとしてから、普段からは想像もできないような早口で捲し立てた。
「栞ちゃんが書いたレポート面白かったから話したいなって。あと前から気になってたから。話しかけてこないくせに、私が絡まれてたりするとすっごい心配そうにチラチラ見てくるし、さりげない感じで遮ってくれるでしょ?心配してくれるのは嬉しいけど、面倒臭くて受け流してるだけだし、いざとなったら結構キツく言ってるから大丈夫だよ。実家でも地元にいろって言われたの押し切ってこっちに進学したんだから。栞ちゃんよりずっと器用だし。というか栞ちゃんが不器用すぎなんだけどね。なんか緊張した時の喋り方もさあ、もののけ姫に出てくる猩猩みたいじゃん。『オレ ニンゲン クウ』って言うやつ」
ところどころ悪口っぽい。私に苦言を呈するために誘ってくれたのだろうか。すみません、今後気をつけます、と謝罪して席を立とうとすると、「文句じゃないよ、もうちょっと一緒にいよう」と言って引き留めてくる。そのくせ私が座り直すと、何も言わずに『檸檬』を読み始めてしまった。手持ち無沙汰になった私は、氷が溶けて薄くなってしまったアイスティーを啜りながら桜先輩を眺めた。髪の毛に少し寝癖がついていた。そこに触れられたら良いのに。私はその衝動を抑えるために、ストローの紙袋をくしゃくしゃといじり続けるしかなかった。
桜先輩は突然、文庫本をぱたんと閉じると「今からさ、スーパーでレモン買って、梶井基次郎みたいに丸善に檸檬爆弾しかけに行こうよ」と言ってきた。不意を突かれて無言で頷くと、先輩はさっと立ち上がってそのまま進んで行ってしまう。思っていたより自由な人だ。そのまま2人でスーパーに向かい、青果売り場で檸檬を掴む。梶井基次郎が好きだと言っていた単純な色合いで紡錘形のそれは、ひんやりとして弄んでいると手に馴染んだ。きっと桜先輩の手もこの檸檬のようにひんやりしてるんだろうな。
河原町にある丸善京都本店は『檸檬』の舞台ということで、店内に檸檬を置ける籠が設置されていた。桜先輩は驚くほど真剣な顔をして、厳かな雰囲気で籠の中にそっと檸檬を入れた。そのまま私の方に向き直る。なんだが本当に爆弾をしかけにきたテロリストのようだ。先輩、どうしちゃったんだろう。何故か分からないが、このままだと取り返しのつかないことが起きる気がして、咄嗟に檸檬を先輩の胸元に押し付けながら、しどろもどろで言い訳をする。
─私、丸善には檸檬爆弾しかけません。今は憂鬱な気分じゃないから。代わりに先輩にしかけます。気のせいかもしれないけど今日、素で接してくれた気がして嬉しかったから、その記念です。
目を丸くしていた桜先輩は、すぐに「仲良くなった記念に爆弾しかけるって何?!」と笑い始めた。いつもの微笑みではなく、声を出して歯を見せながら笑った。前歯が少しだけでていて、それがいつもより彼女を幼くやんちゃそうに見せていた。笑いが落ち着くと、私の耳にそっと唇を寄せて「じゃあ私は丸善に、栞ちゃんは私に檸檬爆弾しかけたってことで。でも共犯ね」と囁いた。先輩の胸元にある檸檬から、爽やかな柑橘の香りが広がって鼻腔をくすぐった。耳打ちする必要なんてないのに、この人、わざとやってる。
それ以降、構内ですれ違うと、桜先輩は檸檬爆弾をしかけた時の共犯者の顔でこちらに目配せをして笑いかけてきた。その度に、桜先輩が耳打ちをしてきた時の檸檬の香りが風に乗って漂ってくるような錯覚に襲われて、私は意味もなくドギマギとした。先輩の側にそっと身を寄せて、私が彼女に仕掛けた檸檬爆弾のタイマーがカチッカチッと鳴るのが聞こえてくるのを想像すると、たまらなく幸福な気持ちになった。
やっぱり私は"ふわふわした可愛い女の子"が苦手だ。彼女は檸檬の香りを携えて、いとも容易く私の感情を占有してくる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?