ねえ、後ろ乗せて

ふと思い立って、全速力で走ってみる。
普段の運動不足もたたってすぐに呼吸が浅くなり、鉛を引きずっているかのように自分の身体の質量を感じる。口の中も乾いてきて苦しい。全然気持ち良くない。私は風を切って走るのが好きだと思っていたのに。

いや、違う。私が好きだったのは、安田ミズキが走らせるバイクの後ろに乗って、冷たい風を全身で感じることだった。

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安田ミズキと知り合ったのは学生の頃で、私たちは同じ漫画を愛読していたこともありすぐに仲良くなった。後から知ったことだが、彼女は何故か私と友達になりたかったらしく、どこかで私がその漫画が好きなことを聞きつけて、登場キャラのキーホルダーを鞄につけて私に話しかけられるのを待っていたというのだから、いじらしい子だ。ただ気が合っただけなのか2人の元々の気質なのかどうかは分からないが、私たちは常に一緒で、幼稚な恋愛ごっこのような関係を続けていた。彼女は他の友人にヤスダとかミズキとか呼ばれていたが、私だけの特別な呼び方が欲しいと思い、苗字の"安"の字を音読みして、アンちゃんと呼んでいた。彼女は私以外にアンちゃんと呼ばれると「変な感じするからやめて!私アンちゃんって柄でもないし」とふざけながら不貞腐れて、周りに、あの子が呼ぶのは良いの?と聞かれると、「アイツは言っても聞かないから諦めただけ」とわざとらしくため息をついてみせた。私はそれを笑って見ながら、微かな優越感と愛おしさを感じていた。アンちゃんは2人きりの時に、よくこう言ってくれていたから。
「"アンちゃん"っていうのは私のためだけに考えてくれた呼び方だから、他の人には呼ばせない。私、"アンちゃん"でいる時が一番自分らしくいられるような気がする。」

私たちは全てが正反対で、アンちゃんは背が高くてショートカットで明るくて辛いものが好きで、私は身長が低くてロングヘアで暗くて甘いものが好きだった。共通点といえば、漫画と動物が好きなことと家が嫌いなことくらいだ。彼女は家庭環境が悪かったし、私は精神的な問題を抱えていて家族に顔を合わせ辛かった。今考えるとなんて自分勝手で視野が狭いんだろうと呆れてしまうが、多分私たちは知り合うまで自分のことを、世界一孤独で可哀想な人間だと思っていて、だからこそ、お互いのことをやっと見つけた自分のための存在だと信じていた。

アンちゃんは私のことを"世界一大事な女の子"のように扱ってくれて、私もアンちゃんに対してそうした。一緒に水族館に行ってペンギンパレードを見た時は、みんなと離れて隅っこで固まっているペンギンを見て、アンタみたいと言いながら私に軽く肩をぶつけて「お!こんなところに脱走してきたペンギンがいる」なんて揶揄ってきた。私がペンギンならアンちゃんはホワイトタイガーだね、と笑いながら返すと不思議そうな顔をした。ホワイトタイガーみたいだというのはずっと思っていたことだった。アンちゃんはカメラの前で笑顔を作るのが下手で、一緒に動物園に行ってホワイトタイガーの赤ちゃんと写真を撮ってもらった時もこちらを睨みつけるような顔をしていて、ホワイトタイガーの赤ちゃんと写っているその姿が、厳しい自然の中で生き抜く美しい親子みたいに見えた。私は訳もわからず泣きたいような気持ちで、この世にある全ての理不尽な困難をこの子から遠ざけたいと思った。

18歳になるとすぐにアンちゃんはバイクの免許をとった。ねえ後ろ乗せて!と私がせがむと「そのために免許とったんだから当然」と得意気だった。私が邪魔にならないように黒のロングヘアを2つに結ぶと、アンちゃんはそれを見てスヌーピーみたいだと笑った。ペンギンの次はスヌーピー?もう白黒の生き物なんでも私じゃん、と呆れるとアンちゃんは「うん、ペンギンもスヌーピーもパンダもバクもシマウマも全部そう、まとめて私が飼ってあげる」と返してきた。私が白黒の色んな生き物になってアンちゃんの側で寝そべっているところを想像すると、将来の不安とか、ずっと飲み続けなきゃいけない薬のことなんかが頭から消えて、このまま生きているのも悪くないなと思えた。2人でバイクでいろんなところに出かけて、その度に、このままどこまでも行けるような気がした。

アンちゃんに恋人ができた時、正直内心面白くなかったが、それでも彼女が嬉しそうにしているのは私にとっても喜ばしいことなので祝福した。仲良しの女の子を男に取られた気になって怒るなんて、ありきたりで幼稚でつまらない。彼女と恋人と3人で遊ぼうよと誘われてしぶしぶ出かけた時も、なるべくフレンドリーに接した。でも、その男が「そういえば"アンちゃん"って呼んでるんですよね、可愛いですね」と言い始めて、ちょっとふざけて彼女のことを"アンちゃん"と呼んで、アンちゃんが照れ臭そうに笑うのを見た瞬間に、怒りでカッと全身が熱くなり、全てが許せなくなってしまった。アンちゃんって呼んでいいのは私だけだったはずなのに。むかむかして具合が悪くなって適当な理由をつけて帰ろうとすると、その男が「初対面なのに気まずかったですよね、すみません。」と言ってお土産をくれた。有名店の小洒落た焼き菓子で、これはアンちゃんが選んだものじゃないなと思うと気が滅入った。アンちゃんだったら、もっとしょうもなくてチープで、でも絶対に私が喜ぶ可愛くて甘ったるいお菓子を選んだはずだ。

もうアンちゃんは私の世界一大事な女の子じゃなくて、あの優しくてつまらない男の世界一大事な女の子だった。そう思うと今まで好きだったはずの、遅刻してきてる癖に妙に堂々と歩いてくる姿や、私を見るときの過剰に心配そうな瞳なんかが疎ましく感じられた。それが自分の本心ではないと分かっていたからこそ辛かった。きっとこんなのは、世界中の女の子たちの間でありふれた出来事なんだろう。変わらないものなんかこの世界に何もない。私が今の自分の胸の痛みを見ないフリをしていれば、このまま"世界一大事な女の子"としてではなくても、大切な友人として付き合い続けられたのだろう。でも、アンちゃんと出会った当時の幼稚で傷つきやすく傲慢な心をどこかで抱えたままの私は、それを受け入れることができなかった。

私はいつも自分のことばかりだ。アンちゃんが「アンタも彼氏作りなよ、それで2人とも結婚して、子ども作って家族ぐるみで仲良くできたら良いな。同じ幼稚園に通わせてさ、そしたらバイクは駄目だろうけど、私が車でまとめて送り迎えするよ。子ども寝かしつけた後は今みたいに2人だけでお酒飲んだりしようよ」と言ってくれたとき、彼女をほとんど憎んだ。私は幼い頃にあった諸々のせいでうまく男性と接することができなくて、そのせいで外を出歩くことにも困難を抱えていた。そのことを知っているくせに、ふざけるな!と怒鳴りたかったが、ただ曖昧な笑顔を作って「そうできたら良いけど、それが無理なのは知ってるでしょ」と呟いた。いつも明るく振る舞って私を笑わせてくれていたアンちゃんは、そのとき初めて、本心から傷ついたような表情を見せた。アンちゃんはずっと、私がお互いの関係が少しずつ変わっていることが気に入らないことに気づいていて、でもそれを私に悟らせないようにして、変わることがあってもずっとお互い大切にしたいということを伝えてくれようとしていた。アンちゃんが悟らせないようにしても私にはそれが分かった。元気がない時にどれだけ私が気丈に振る舞っても彼女がそれを見抜いてしまうように。

それからは一緒にいてもお互いぎこちなく、遂に会うこともなくなってしまった。その後共通の知り合いから、アンちゃんがあの男と結婚してすぐに妊娠したことを知った。きっと結婚式では、あの男の横で"世界一大事な女の子"として心底幸せそうな笑顔を見せて、子どもが生まれたら、その子を"世界一大事な子"として育てるのだろう。今や彼女と無関係な私は、それを思うとアンちゃんの幸福を心から喜ぶとともに、なんだか全てが夢だったかのように感じられた。
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アンちゃんは今どうしているだろう。きっともうバイクには乗らずに、車で子どもの送り迎えをしたり家族旅行とかをしているのだろう。彼女が走らせるバイクの後ろに乗せてもらうことはもうないのだ。体力が尽きて走るのをやめた私は生暖かい風を頬に受けながら、もう二度と口にすることはない「ねえ、後ろ乗せて」という言葉を飲み込んだ。

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